日曜夕方、「明日は仕事だ~!」「月曜最高! 学校たのしみ~!」とワクワクしている人はどれほどいらっしゃるでしょうか。
人が二人以上集まって目的に向かって何かを成そうとするとき、その集団を私は「組織」と呼んでいます。夫婦や親子など家庭も組織・チームですし、学校、病院、企業、スポーツチーム…などは、どれも立派な組織。
ですが、この「組織」というのが、ややこしい。人生において大きな意味を持つ一方で、「組織」こそが人々の悩みの種ともいえるのです。
巷には「〇〇力」を身につけることで組織でサバイブできる!とうたったり、逆に組織でうまくいっていないのは「あなたに○○という問題があるからだ」との言説もあったりしますが、実際のところ、私たちは「組織」とどう付き合うとよいのでしょうか。
教育社会学という、学校くらい当たり前の社会のしくみを疑ってみる学問を修めたのち、ビジネスの現場にどっぷり浸かった組織開発コンサルタントである私が、組織にまつわる凝りをときほぐすのが、この連載です。
不可欠なのは「対話」でも「時間」でもない、という話
■その「対話」が難しいんですけど!
前回もお読みくださり、ありがとうございました。「いやいや、でもその“対話”っちゅうのが難しいんですけど? わかってますの?」的な反響が多かった印象です。連載ですからね、みなまで一度に書けませんので少々ご辛抱ください。ただ、先にお伝えしておいたほうが良さそうなのは、「ザ・対話ハウツー」みたいなものをここで書く予定はない、ということです。
前回のおさらいになりますが、組織は、自分と他者との頭の中のことばを適切に交換し合わないと、確実に“凝りかたまって”いきます。チームとして結果が出ない、風通しが悪い、メンタル不調者が多い、といった“うまくいっていない”状態のことです。
もともと何もかもが違う人間同士が、わけあって協働しているわけですから無理もないですよね。ほぐし屋がほぐす際も、どこに注力するかと言えば、そのお互いの脳内宇宙に広がる、それぞれのことばの交換をお手伝いすることです。その点についてはじっくりお伝えしていく予定ですが、それが対話ハウツー、「対話」の一般論とはイコールではないということをご承知おきください。
私は思うのですが、相手と自分とで頭の中のことばを交換し合うことを、そもそも「対話」と名づけなくてもいいのかもしれないですよね。
どういうことか?
今日はそんなところからはじめて、数回にわたって、組織のほぐし屋が見てきた“他者と働くときに何をどう交わし合えばいいのか?”について、お届けします。
■重要性が叫ばれるほどに
それにしても「対話」ということばは、一昔前と比べると圧倒的に耳にするようになりました。人事組織コンサルティングでも「対話会を社内ではじめたいのですが……」といった相談が頻出。書籍でも「対話」をキーワード検索し、公開日順に並べてみると、びっくりするほど上がってきます。しかし、現実社会ではどうでしょう。頭では、みなさんその重要性を理解しているものの、いざ実践となると、いまだ「なんか、難しいよねぇ」となっている模様です。
先ほど、X(旧Twitter)でこんな物言いをちょうど眼にしてしまいました——「対話とか連帯とか言うやつほど信用ならない」と。
あることの重要性が叫ばれるほどに、その実践の難しさが相まって、そこはかとない胡散(うさん)臭さまで醸し出されていく……「対話」に限ったことではなく、「リーダーシップ」とか「心理的安全性」なども似たり寄ったりかもしれませんが、ちょっと立ち止まって考えたほうがいいことばになっていそうです。
さて。なぜこれほどまでに「対話」は、夢物語、理想論のように思われがちなのでしょうか。
組織開発でよく受ける質問とあわせてブレストすると、こんな理由があるように思います。まず代表格は、「そんなんやってる時間(暇、余裕)ありません」。これぞ鉄板の「対話」アンチのことばです。他には、
・「対話」のハウツーが出回るほどに、自分はできていない/できそうもない気がしてくる
・ほんとにこんなことやってる人いるの?
・相手あっての話だし……読めない、読めなくて危険。先を読むべきビジネスでやることじゃない
慨してこんな感じのことをよく言われます。それぞれに思うところがありますが、今日は代表格からいきましょう。ここに問題がかなり集約されているので。
■「そんなんやってる時間(暇、余裕)ない」の真意
真意を考えるがゆえにあえて、このことばの裏を考えてみたいのですが、まず私ならば、
・ほぅ。「対話」には時間がかかる、という前提があるのだな
ということを読み取ります。また同時に仮にそうだとして、
・時間がある人がやるのが「対話」
とも思われているのだなぁということも浮かび上がります。さて、そこから考えたいのは、「それって本当でしょうか?」ということです。
■「対話」には時間がかかる。もっと言えばかかりすぎる、について
これは確かにそうであり、間違ってもいます。どういうことか。
そもそもですが、「対話」って何でしょうか。答えなきことを、時間に追われず、面と向かって、つれづれなるままに話すこと……でしょうか?
私の尊敬する経営学者の宇田川元一先生は『他者と働く』でこう定義しています。
「対話とは、一言で言うと、『新しい関係性を構築すること』」だと。
こんな言い換えもされています。
「対話とは、想定外の出来事をもたらす他者との間で生じる様々な問題に対して、自分と他者とは違うナラティヴを生きていることを認め、そこにアプローチをしていき、物事を動かしていくことです。」——ふむ。ナラティヴとは「解釈の枠組み」です。
要は、違いがあって当然の者同士が、必要に駆られて何かを成そうとするとき(仕事など)、誰と何をどのように進めていこうか? 意見を交換し合い、決め動かしていく、くらいに思っていいのではないでしょうか。
さて、これが「対話」だとして、これには果てしない時間が必要なのか? 逆も然りで、悠久の時が流れる者だけが「対話」ができるのか? 考えてみましょう。
言うまでもなく、誰しも時間に追われています。良しあしなく、時間は有限ですから。でも、その中にあって、今私たちに必要なことは何かと言えば、実は、時間が必要なのでも、つれづれなる「対話」が必要なのでもないと私は考えます。
よほど定型的な業務を除いて、あらゆるビジネスが、既存の思考フレームからは生まれにくくなっていることは確かです。VUCAの時代(変動性が高く、不確実で複雑、さらに曖昧さを含んだ社会情勢)なんていう今、過去をなぞって「答え」が出てくることはまずもってないでしょう。正論ではどうにもならない局面にも多々ぶつかっているはずです。そこで地に足のついた進め方・考え方を編み出す必要があるわけですが、ここに欠かせないのは、既存のやり方・考え方だけに閉じさせない仕組みです。
時間がもっとあれば、とか、「対話」で深い話ができれば、なんてことはさておき、既存のやり方、考え方から抜けたいだけなのです。そのために必要なのは何でしょうか。
■「時間」が足りないのでも、「対話」が必要なのでもなく
それが、問いです。
ここでお気づきかもしれませんが、「対話」が必要だとされやすいのは、対話が「問い」を促進しやすい存在だからです。でも本当は、問うこと、問いかけ合うことを止めない環境かどうか、が大事なのです。時間がないから、というのは組織をほぐす際の口上にはなりません。時間があればやろう、ではなくて、既存のやり方・考え方に閉じずに、互いに問いつづけているだろうか? これを考えていてほしいのです。
もう1点、あわせて考えてみたいのですが、上記点は、つれづれなるままにおしゃべりをしないと問えないのか? ということです。
もしそうなら、それはたいそう時間がかかりそうな感じがしますよね。ですが、私はこの点についても、「対話」の中身を改めて考えたく思います。つまり、「対話」はつれづれなるままにおしゃべりすることに限らない、という前提です。
■仲良くなる、深い話をしっぽりと……は関係ない
クライアントとお話する中でしばしば、対話によって、「なんでも話せる仲にならなきゃ」とか、「深く語り合うことから生まれる絆を……」とか描いている方に出くわすのですが、それはあまりに雲をつかむような話ではないでしょうか。その延長に「対話」があり、皆そこに注力せよ!と言う人がいたら、それは冒頭でお伝えしたように、胡散臭さを覚えて当然かもしれません。
職場のリアルな対話とは、単に仲良くなる話でも、闇雲に「深い話」をするとか、誰もこの世で見たこともない「絆」を深めるための術ではありません。ただただ、互いの頭の中のことばを交換し合って、「いやーというわけで、この先どうしようかね」を決めていく場です。さらけ出し合う必要があるならば、それは面と向かって(時に苦手な上司と)二人きりでなんて話さなくってもいい。
■いろんな形態があっていい、頭の中のことばの交換
そんなことを負担に思うくらいなら、私はよくお伝えするのですが、「書き言葉で思っている論点を書いておいて、それをバンと机の上に置いて、お互いに紙を見ながら話したって全然いいんですからね!」と。
いい大人が、それも日頃そんな好きじゃなかったりする人と、目を見てしっぽり会話……なんて、できる/やるべき、でもないのです。
何も1対1じゃなきゃ「対話」ではないわけでも、毛頭ありません。日頃から予定されているチーム会議があるならその場で、進捗報告のみならず、普段おぼろげに思っている「問い」を挟み込んだっていい(それならまずもって上長側が、進捗報告以外に不明瞭ながらも問題になりそうな萌芽を語り合う時間を会議の最後10分間に設けるなど、予めしかけはあったほうがいいですが)。
はたまた、会話にこだわる必要もありません。書き言葉でもいいのです。例えば日報を書いている会社なら、その日報の中に「対話」的と言えるような、素朴な問いを残したっていい。それに上司はまた往復書簡的に応えれば、立派な「対話」なわけです。
これに悠久の時は……不可欠なものではありませんよね。すでに設けている時間・仕組みに、少しばかりの「問い」と「思索」を入れ込むのですから。
■「対話検定」が出やしないか……
大事だ、大事だと言うほどに、コモディティ化され、本来多様な形態がそぎ落とされた画一的なものになる「対話」。多様な人がいて、多様な組織があるから、多様な”頭の中のことばの交換“がこれまでされてきました。それを急に単一的な「対話」に寄せてはいけません。このままでは、「対話検定」まで出るんじゃないかと私は心配しています。
そういうことではなくて、問いつづけ合うことができているか?
つれづれなるままに、相手と膝を詰め話し合うことだけが「対話」だと、思っていないか?
当然、互いの頭の中は違う。でも、一緒にやらねばならないのが仕事。だとしたら、その頭の中のことばを交換をして、向かうべき方向とファーストステップが見えてくるやりとりをしよう——それが必ずしも、世間の言う「対話」でなくてもいいわけです。
それより、「他者と働くとはどういうことか?」くらいの原点に、今こそ立ち返り、おとぎ話的「対話」論から抜け出して、地に足のついた実践をしたいものです。
次回も、身の丈に合った、頭の中のことばの交換術について、続けてまいります。
1982年横浜生まれ。東京大学大学院教育学研究科修了。BCGやヘイ グループなどのコンサルティングファーム勤務を経て、独立。教育社会学と組織開発の視点から、能力主義や自己責任社会を再考している。2020年より乳がん闘病中。著書に『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)がある。朝日新聞デジタルRe:Ronにて「よりよい社会と言うならば」連載中。