日曜夕方、「明日は仕事だ~!」「月曜最高! 学校たのしみ~!」とワクワクしている人はどれほどいらっしゃるでしょうか。
人が二人以上集まって目的に向かって何かを成そうとするとき、その集団を私は「組織」と呼んでいます。夫婦や親子など家庭も組織・チームですし、学校、病院、企業、スポーツチーム…などは、どれも立派な組織。
ですが、この「組織」というのが、ややこしい。人生において大きな意味を持つ一方で、「組織」こそが人々の悩みの種ともいえるのです。
巷には「〇〇力」を身につけることで組織でサバイブできる!とうたったり、逆に組織でうまくいっていないのは「あなたに○○という問題があるからだ」との言説もあったりしますが、実際のところ、私たちは「組織」とどう付き合うとよいのでしょうか。
教育社会学という、学校くらい当たり前の社会のしくみを疑ってみる学問を修めたのち、ビジネスの現場にどっぷり浸かった組織開発コンサルタントである私が、組織にまつわる凝りをときほぐすのが、この連載です。
「いい問い」「悪い問い」?
前回のふりかえり――素朴に問うことをあきらめない話
やたらと暑い秋だね、なんて話していたらあっという間に木枯らし吹く季節に。2023年はどんな一年でしたでしょうか。私にとっての2023年は、死ぬ間際に走馬灯のようなもので思い出が再生されるとしたら、今年だけはスロー再生して、酸いも甘いも含めて見返したい、そんな忘れがたき一年であったように思います。それは思うに、いままでもやもやしていたことについて大手を振って「問う」ことができたことが大きいような気が。「問う」と、こんなにも人と繋がり、次なる問いが湧き出ていくのか! と体感した一年でした。「問う」とは、自分だけの話じゃないわけです。
さてここで、連載を簡単に振り返りますが、組織のほぐし屋たるもの、対話は避けてとおれないですよねという話を、ここ2回してきています。かといって壮大なテーマを概念的に扱うような、いわゆる「深い話」のようなものでなくてもいっこうにかまわないともお伝えしてきました。むしろ対話の入り口は、そのときどきでどうもひっかかる点、相手は気づいていなさそうだけど無性に自分は戸惑っていることを素朴に口にしてみること、つまり「問う」てみる——。「あのちょっと……」と臆せず——と。また、問いは独白ではありませんから相互作用につき、「問い」慣れることと「問われ」慣れることはセットであるとも述べました。
「コツはありますか?」——「ありません」
そんな中、先日読んでにやけてしまった記事がありました。別媒体で恐縮ですが、某新聞の悩み相談コーナーの名物回答者、上野千鶴子さんの答えに、です。
相談者は、職場のある男性社員との仕事のしにくさを訴え、上野氏に「うまくやるコツはありますか?」と尋ねるのですが、「ありません」と上野氏。「問い」に対する「答え」としてはわずか5文字で終了し、職場の他の人も同じこと思ってるわよ、などと補足したのです。
上野千鶴子恐るべし、と言いたいわけではありません。上野氏は「相談」という「問いかけ」の本質をよくよく理解された方なのだなぁと改めて思ったのです。
媒体のお悩み相談全般に言えることですが、相談事の多くは、身近な人には話せないことばかり。家族のことや自分が表には出さないできたが激しく恨む相手の話、ひどく嫌悪する相手の話などなど、どろっどろの愛憎劇が多いのですが、そこで大切なのは、愛憎劇自体の解決ではないようなのです。むしろ、このおどろおどろしい現実を「自分しか知らないこと」を、相談者は最も不安視していると、読むほどに推察されます。
言い換えれば、悩み相談は、「答え」の精度以前に、「自分以外にもこの世知辛さを知ってもらえること」そのものに価値がある。自身の悩みを言語化し、自分以外の誰かの眼に入れてもらえた時点で、目的の大半は達成しているだろうと思え、上野氏の回答はまさにそれを踏まえたものであったように勝手ながら解釈できるのです。
相談者も、人の悪口なんてそうそう言えないとわかったうえで口外できたこと、またそれに対して「職場の他の人も同じこと思ってるわよ」と言ってもらえたことに、相当に胸をなでおろしたのではないでしょうか。
「問う」テクニック?
なぜこんな話を持ち出したかというと、組織における対話の重要性の話から、「問う」ことが大事だと言うと、十中八九「問い」の質やテクニックの話になるからです。そんなわけで、「問い」にテクニックは必要なのか? を今回はテーマにしようと思います。まぁ、答えは四文字で出しますがね。「必要ない」と。
というのも、組織のほぐし屋、つまり組織開発の現場で、対話的であることを話すとたいがい、「いい『問い』が浮かびません」などと相談を受けるのです。
「〇〇が大事」と言うと、往々にして「いい○○」「ダメな○○」が登場するのが世の常なわけですが、「問い」も例外ではないわけですね。ただ、これがもったいないというか、議論がこっちの方向に行ってしまうのは不毛だと私は思っています。
「問う」「口外できる」場があること ≠ 能力論
なぜなら、先の上野氏じゃないですが、「問う」ことの価値は、「問える」「口外できる」場があることそのものが大きいのです。「問い」の良し悪しなどと言い出すと、またその行為について委縮させられる人が必ず出ます。そうではなく、口にできる場があったら、まずは拍手だし、「問い」の質を喧々諤々いうくらいなら、「問える」場をいかに平準化するかや増やすか、といったことに心を配っていたい。
それにしても、この構図には見覚えがあります。初作で喝破を試みた「能力論」です。
なんにでも、「できる・できない」で個人を峻別し、序列づける在り方のことです。対して私が提唱するのは、個人の「能力」の問題ではなく、おたがいさまとも言える場の問題として考える在り方です(個人の能力主義に対する、組織論的視座と言ってもいいかもしれません)。
「問う」ことが大事だと何度でも言いますが、それは問いが互いの認識や思考に刺激を入れ合うからです。「よい問い」を繰り出せる人が頭がいいとか、仕事ができるとか、そういう話ではないのです。
それなのに、どうもこうした相互作用的な話は、「おたがいさま」であるはずが、どっちかの「能力」の問題にいつの間にかすり替わり、良し悪しで序列がつけられます。「質問力」なんて言いますしね。
いいチームは「私の疑問」を「私たちの問題」にしてくれる
でもいいですか、よくほぐれた柔軟なチームに必要なのは、「いい問い」を繰り出せる「優秀」な人材ではありません。どんな形であれ、その場に「私の疑問」を投げかけられることであり、それを「私たちの問題」として議論してくれるのがいいチームです。
と言いながら、先ほどはXで「『やり抜く力(GRIT)』の次は『切り替える力』」という広告を見ました……。
「次」って何なんでしょう。やり抜くことも、切り替えることも、あれもこれも、その場やチームには必要なことではないのでしょうか。問題は、個人がひとりで持つべき「能力」として語ることから生じます。GRITに長けた人は、オールドタイプにされてしまうのでしょうか? そうではない。どれも必要で、いろんな人の凸凹を持ち寄って、組織(チーム)として、切り替えながらものごとをやり抜いていけばいいのです。
かけがえのない「違和感」「主観」
とは言うものの、私も社会人になってから、上司から「それってファクト? あなたの意見は聞いてない」と何度言われたことでしょう。そして毎回、ひどく傷つきました。Hゆきさんもよく相手の感想をゴミのように扱って論破していますが、「私の違和感」「私の疑問」に他者との共創・創発の原点はあります。
だから今ならこう言いますね。「はい、私という人間の貴重な視点ですが何か」と。
今年はだいわlog.にて連載を始めさせていただき、改めてありがとうございました。来年もつづきます。どうぞよろしくお願い申し上げます。来年もみなさんの「違和感」「主観」が慈しまれる一年になりますように。
1982年横浜生まれ。東京大学大学院教育学研究科修了。BCGやヘイ グループなどのコンサルティングファーム勤務を経て、独立。教育社会学と組織開発の視点から、能力主義や自己責任社会を再考している。2020年より乳がん闘病中。著書に『「能力」の生きづらさをほぐす』(どく社)がある。朝日新聞デジタルRe:Ronにて「よりよい社会と言うならば」連載中。