むき身クラブへようこそ  私の解放days

この連載について

むき身とは? 牡蠣をむいた時の中身のように、プルプルの震えている一番無防備な状態のまま、ただ存在している状態。身に纏ってきた不要なものをやさしく洗い流し、脱ぎ、ただ「むき身」になることを目指すクラブ。誰にも頼まれず結社し、むき身クラブと言い続けていたら、いつの間にか連載タイトルにまでなってしまいました。申告不要、出入り自由。それぞれの幸せをただ願い、自分を解(ほど)いて放っていく、日々の手立てを記します。

第2話

解放について:自分を「所有」しようとしてくるもの

2023年6月18日掲載

「むき身クラブ」は、韓国ドラマ『私の解放日誌』に大いに影響を受けている。元々「むき身」になるとは言い続けていたけれど、それをクラブにしようと思ったのは、劇中で主人公が結成する「解放クラブ」にインスパイアされたからだった。主人公ミジョンは、ソウル近郊の田舎にある実家から片道何時間もかけて、都心の大きな会社に通っている。職場と家を往復する日々は代わり映えがなく、閉塞感に満ちている。「毎日が労働みたい」と語る彼女が勤める会社では、福利厚生の一環として社内同好会に参加することを求められている。断っても何度も担当者に呼び出され、ある日、同じく同好会参加を拒む社員二人とともに「解放クラブ」を結成する。ルールは三つ。「幸せなフリをしない」「不幸なフリをしない」「正直に向き合う」。活動内容は、定期的に集まってただ語る。助言も慰労も、同調も共感したふりもしない。
「むき身クラブ」もまた、基本的には特に何もしない。活動はただ、「むき身」になるだけ。牡蠣の殻にナイフを入れて、パカっとこじ開けた時のプルプルのやわらかい状態で存在すること。誰といても、どこにいても、殻を捨ててむき身の状態でいること。強いていうならば、この世のどこかに、自分と同じような感性で、むき身になろうと生きている人がいることを、言葉でいちいち確認し、実感するためのクラブだ。
 初めてのむき身クラブ会員は、友人だった。彼女が横浜の私の家に泊まりに来たとき、布団を敷いて、寝ながら遅くまでいろんな話をした。悩みや、これまでのこと、そして私がひとり始めたむき身クラブのこと。暗闇の中でポツポツと話した。そろそろ寝落ちそうだと思ったとき、床に敷いた布団の中から、「私もむき身になる」と聞こえた。その彼女が最初のむき身クラブ会員だ。
 この連載は「むき身になること」そして「解放」をテーマにしている。そのために、まず最初に、確認しておこう。解放とはそもそも一体何だろう。私たちは、何から解放されたいのだろう。

私の「解放」
 

「解放」について考える手がかりは思いがけず与えられた。
 2022年11月、あるコンテンポラリーダンスの舞台公演を観に行ったときのことだった。俳優の森山未來さん、脳科学者の中野信子さん、イスラエルの振付家エラ・ホチルドさんによる舞台「Formula」は、「人間を人間たらしめるものは何か」ということをテーマにしていた。公演終了後のアフタートークに、人工知能研究者の池上高志さんがゲストで登壇した。池上さんはアンドロイドの研究をされていて、語り口は面白く、一気に引き込まれて夢中でメモを取った。その中で、池上さんは言った。

「人を人たらしめるもの、僕にとっての「生命」の定義は「逃げること」なんですよね」

 飼っているハムスターはなんとかして逃げようとする。だけど、作っているアンドロイドはなかなか逃げない。いつ逃げるようになるのかな? と思って、アンドロイドを見ているそうだ。生命が生命である限り、逃げるはずだから。
 池上さんは続けた。

「逃げるっていうのは、自分を「所有」しようとしてくるものから逃げるってこと」

 ーー所有。池上さんが発したその言葉が脳に届いた瞬間、さまざまな言葉や、感じていた息苦しさが走馬灯のように浮かんだ。「そうすべきであり、そうでなければあなたは存在してはならない」と言ってくるような、あらゆる同調圧力。逃げようとしても、囚われてしまう。あれは、私を「所有しようとしてくるもの」ではなかっただろうか?

「所有しようとしてくるもの」

 自分を「所有」しようとしてくるものは、必ずしも物理的な拘束や、人間関係だけではない。目に見えない社会規範や同調圧力も含まれるだろう。
 一番典型的なものは、一家の家長が女性や子どもを支配して決定権をもち、女性や子どもは一家のために支え尽くすことが求められる「家父長制」のあり方かもしれない。子は親の所有物。女は妻となり母となり、家のために尽くすことが求められる。そうすることが、立派な人の道として認められるような状態。
 言葉もまた人を支配する。「そんなことじゃ他の会社でやっていけないよ」「女はあまり賢くなりすぎない方が愛されるよ」「成功する人なんてひと握りだよ」「ご主人はどう仰ってるの?」など、誰かが「普通」と違う生き方をしようとするときに、それをやんわりと阻む言葉もまた「所有」の性質があるとすると、そんな言葉はそこら中に溢れている。
 こうした言葉を発する人は「所有」するつもりなんてない。そもそもどれくらい深い経験や実存からその言葉が出ているかも怪しい(転職経験がない人が「他じゃやっていけないよ?」と言ってくるのはよくある話だ)。誰かが言っていそうなことをそのまま口から流している。その言葉が「ここに留まれ」と、目に見えない力で人を留めおく作用をもつことにも気づいていない。だから、平気で口にしてしまう。そういう言葉を聞くと、私はいつも、肩を掴んでその人の顔面3センチくらいに顔を近づけて、目を見開いて揺さぶりたくなる。本当にそう思ってる? どれくらいあなたの深いところからその言葉は出ているの? それを言うことが誰かの人生にどんな影響を及ぼすか、わかって言ってるの?
 所有してくるものは他者だけではなく、自分自身だったりもする。社会規範をどっぷり吸って、それを自分の内側に「内面化」してしまうと、自分で自分の変化をとどめ始める。もっと自分の人生を生きたいと思っても、頭の中で絶えず声がする。「他の人は皆そうしているのにあなただけ申し訳ないと思わないの?」だったり、「そんなことで本当にやっていけると思っているの?」だったり。あるいは、どれだけ変わりたくても、過去の傷があったり、そもそもの自己信頼感が奪われていて、身動きが取れなくなっていたりもする。決して自分のせいではない。変わりたいのに変われない、なんてよくあることだ。

そもそも逃げようとしていただろうか?

 ここで、冒頭の「生命」の定義に戻りたい。「生命の定義は、逃げること」ーーその観点から自分を振り返ってみると、意外なことに、逃げようとしていなかったことに思い至った。それどころか、大抵の場合、捨てないでほしいと追い縋るように生きていた時期が長かった。娘として、女として、社会人として、ちゃんと所有したいと思える人でありたかった。良い娘でありたかったし、カノジョとして魅力的な良い女でありたかった。愛され社会人でありたかった。会社に所有されなければ経済的にも立ち行かない。所有されたい欲求は、つまり所属の欲求でもあった。自分は所有に値する、所属に値する個体だと思いたかったのかもしれないし、それ以外の生き方を知らなかった。愛されるとは、所有したくなる人になることだと理解していた。存在価値とは、ここにいて欲しいと思われることだと理解していた。あの人はここにいらない人だ、なんて思われたくはなかった。必要とされる人になりたくて頑張る。そうでなければ、存在してはいけないみたいに。
 愛されなければ生きていけない、生きる資格がない。誰にも求められない自分に、生きる意味はあるのだろうかと考える。そうやって、多少社会が歪んでいても、その中で居心地が良いように適応していく。社会の中で愛された方が楽だ。誰だって。

だけどそんなのはもう嫌だ


 だけど、そんな生き方はもう苦しい。「~~である限りあなたは愛される」なんて、そんな苦しすぎる条件づけを外して燃やして灰にしたところで、ただちゃんと愛される世界は、ある。むき身クラブにしようと思ったのは、むき身のままで愛される場所やスペースが広がっていけばいいと思ったからだ。
「むき身クラブ」では、まず自分から始めていきたい。それは、自分だけ楽になれればいいと思っているわけではない。自分の内側から始めることで、波及し合うものがあると思っているからだ。そして、内面化してしまっている社会規範や抑圧を、解体して解毒していくことは、日常生活をどう過ごすかに大きく関わってくるからだ。そして、置き去りにできないからだ。ほかならぬ、自分自身のことを。

著者プロフィール
安達茉莉子

作家・文筆家。東京外国語大学英語専攻卒業、サセックス大学開発学研究所開発学修士課程修了。政府機関、限界集落、留学などを経て、言葉と絵による作品発表・執筆をおこなう。
著書に『毛布 - あなたをくるんでくれるもの』(玄光社)、『私の生活改善運動 THIS IS MY LIFE 』(三輪舎)、『臆病者の自転車生活』(亜紀書房)、『世界に放りこまれた』(ignition gallery)ほか。