むき身とは? 牡蠣をむいた時の中身のように、プルプルの震えている一番無防備な状態のまま、ただ存在している状態。身に纏ってきた不要なものをやさしく洗い流し、脱ぎ、ただ「むき身」になることを目指すクラブ。誰にも頼まれず結社し、むき身クラブと言い続けていたら、いつの間にか連載タイトルにまでなってしまいました。申告不要、出入り自由。それぞれの幸せをただ願い、自分を解(ほど)いて放っていく、日々の手立てを記します。
世界に対する安心感
「愛を求める希望があれば、壁は崩れ去るだろう。」
(筆者訳:Tommy Emmanuel – “Walls”)
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これまでの章では、自分の内側を癒したり、自分を否定してしまうことや、人間関係で囚われてしまうことからの解放に重点をおいて書いてきた。
ここからは、「むき身になる」というほうに、焦点を当てて書いてみたいと思う。
私が現在進行形で経験していることだ。今から自分に、何かとてつもなく新しいことが起こるなんて思わなかった。あれだけ臆病だった対人恐怖症気味の人間が、どのようにして、誰かと一緒にいようといまいと楽に過ごせるようになっていったのか。人と人との関わりには、まだまだ知らない未知の驚きや、静かな感動がある。人は、何歳になっても変われる。その驚きのままに綴ってみたいと思う。
世界は怖い場所?
今でこそ、トークイベントに出演したり、SNSや新聞、書籍で自分の顔を出して人前に出ている。仕事、プレイベート関係なく、日々いろんな人に会う。だけど、大学生の頃、一番つらかった時は、人に会うのは苦行のようだった。どう思われているか、人にジャッジされるのが怖かった。暗くて、一緒にいたくない人。そんな風に思われるんじゃないかと、怯えていたように思う。いろんなことをあきらめていたし、何かの集まりに参加するときには、私なんかがいて申し訳ないとどこかで思っていた。そしてそんなことを発言しようものなら、自意識過剰すぎると面倒くさがられそうで、結局何も言わなくなる。大丈夫なふりをする。
そうした対人恐怖が完全に過去のものかというと、実はそうでもない。今だって、少し精神的に過敏になっているときは、人からLINEやメールが来ると、よっぽど日常的にやり取りをしている相手でなければすぐに開けないときがある。何かネガティブなことが書かれているんじゃないかと想像してしまって、勇気がいる。相手のことが嫌いだとか苦手だとか、相手を信頼していないとかそういうわけではない。ただ、恐怖に飲み込まれてしまう。そんなとき、思うのだ。無意識では、もともと「世界は自分に対して基本厳しい」とデフォルトに設定されているのかもしれないと。
「よそゆき」を身につける
対人関係における自分を見てみると、ひどく内気な子どものようなところがいまだにある。その子どもは、世界は自分に対して基本厳しいものだと無意識で思っている。だからなんとか、「適応」していこうとする。傷つかなくて済むように。誰かを傷つけたりしないように。
高校時代、大学時代の友人、新しく出会った人。話していると、打ち明け話をされることがある。実はずっと深いトラウマを抱えている。自傷行為をしたことがある。今も自分を否定して責めてしまう。どんなに明るくて人気者で、いつもみんなを笑わせたり、いろんな挑戦をしていたりしていた人でも、その内側には、触れられない場所があるんだといつも思う。そして、あって良いのだと思う。
「ここまでは見せてもいいというような、第1レイヤーがある。でも、この第2レイヤーから奥は、パートナーにも見せないし、入らせない」
酔ったときに、自分の胸のあたりに手を当てて、そう話してくれた人がいた。自分の一番脆い部分を守るために、踏みこませたくないし、触れられたくない。そんなふうに、人それぞれに、傷つかないためのバリアの張り方がある。
私の場合は、内気な子どもを隠したまま、なんとか大人として社交性を身につけていったよそゆき用のキャラクターを身につけていったように思う。笑顔で、ニコニコしていて、話を合わせてくれて、会話が途切れないように質問をしてくる人。一緒に楽しく飲み会ができる人。だけど、帰りの駅、今一緒に笑いながら飲んでいた人たちと、電車が同じ方向にならないように心の奥底では願っている人。予定が当日キャンセルになるとホッとする人。メッセージに既読をつけるのが嫌な人。ひとりが楽なくせに、寂しくてしょうがない人。
よそゆきの自分で対応するので、家に帰るとドッと疲れる。ひとりになるとホッとする。人間関係は労働だ。頑張って、疲れる。かといって、職を失いたくもないのだった。
「よそゆき」を捨てて、むき身になること
私が一番最初に「むき身」という表現を使い始めたのは、2019年だった。この頃、私はとある会社に再就職し、週5で働きながら、作家としての二足の草鞋を履いていた。仕事は普通に忙しく、同僚や上司にも恵まれて楽しく働いてはいたが、作家としてまだ何者でもないという感覚がとても強い上に、満足に執筆や制作の時間も取れない。会社員としてすごす時間があまりにも生活の大半を占めていて、自分がこれから何者かになれる気がしなかった。年齢的な不安、焦りと自信のなさから、過度に壁を築いていたと思う。作家としては、自分は認められていないという思いから、人と交流したりする場所に行くのに気後れしていた。プライベートでは、勤め仕事の環境に完全になじんでしまうのが怖かった。
この頃の自分を思い出すと、空回りしていたなあと思う。「私を認めてください!」みたいな人が持つ独特の圧力は、ちょっと怖い。「私を認めてください」という気持ちは、裏返すと「私は認められていない」と強く宣言しているということだ。この頃はもう、内気な子どもというよりも、もはや「私は愛されない」と決めてかかっているような、グレた卑屈な子どもになっていた。だけどしょうがない。理由はどうあれ、理想と現実の中でもどかしく、傷ついていたし、そんな自分を癒す方法も知らなかったのだ。
「むき身」という言葉が生まれたきっかけは、「無敵」という表現をSNSで見かけたことだった。自分のことを無敵だと思う瞬間がある、というような表現だったと思う。これは否定や批判といったネガティブな気持ちではなくて、私はその表現を見たときに、自分はそんなふうに感じられたことはないなと思ってしまった。自分は「無敵」だと思えたこと、一度でもあっただろうか。多分ない。なんだかまぶしくて、羨ましくなった。
そして、ふと思ったのだ。半ば言葉遊びみたいに。私は「無敵」であったことは一度もなかったかもしれないが、ノーガードの「むき身」になら、なれるかもしれない。打たれても、苦しいことがあっても、傷だらけでも、ただ真っ直ぐに立っている。そんなイメージが湧いた。それが一番、人として強いあり方なんじゃないか? スターを取ったマリオの「無敵」な状態は、割とすぐに終わる。そして普通のマリオに戻る。だけど、むき身な状態は、ずっと続けられる。そして、それならその方が、かっこいい気がした。
その頃に作っていたZINEにもこう書いた。
「張り付いていた殻を貝塚に捨てて、水の中に入っていきたいと思う」
これまでの自分に、私はもう心底嫌気がさしていた。壁を築いて、人が羨ましかったり、自分に自信がないのを埋め合わせるように尖って、結局誰とも打ち解けられない。ずっと人が羨ましい。それだったらいっそ、そんな殻を下ろしてしまえと思った。その方が潔くて、なんだか、ずっと自分らしい気がした。むき身。きっと、そんな自分を好きになれる気がした。
むき身になるって、具体的にどんな感じ?
「むき身になる」と私がいうとき、私がイメージするのは、「殻を下ろし、ひとつの『いのち』として、ただそこに行くし、ただその場にいる」ということだ。
私はこうだからとか、こう思われてるに違いないとか、そうした自分に対する思い込みを、「むき身」とイメージすることで、ぷるんと忘れる。普段尻込みするようなお店に入るときも、ちょっとおしゃれな人達の集まりにも、「こんにちは、いのちです」くらいの気持ちでいけばいい。意外と、誰も何も気にしてこない。今まで反応していたのは、自分はダサくてうまく溶け込めないという過度な自意識や妄想だったのだ。
もっと具体的に、どんなことをイメージをしているか、どんな言葉を使っているか書いてみよう。
・「相手に気をつかわない」
ここでいう「気」とは、配慮や優しさではなく、「自分が相手を不快にさせてしまうかもしれない」という不安や恐怖心のことだと思ってほしい。大丈夫ですか? お気に召してますか? 嫌じゃなかったですか? 満足ですか? みたいな、緊張して呼吸が浅い状態にならないことを意識する。
相手だって、そんな風に怯えた雰囲気で気をつかわれたら、リラックスはできないだろう。友達になりにきたのに、線を引かれて、一方的に自分を持ち上げられて、気分を伺われる。自分といて、全然幸せそうじゃない。それはきっと、寂しいだろう。
本当の気をつかうは、気をつかわない状態で発生するものなのだと思う。自分がまずリラックスして、相手と一緒にいることを純粋に楽しむ。リスペクトと愛をもって、一緒に良い時間を過ごす。その上で、サービス精神や、目の前にいる相手がより気分が良くなっていたり、困っていることに気づいてあげられるのが、「気をつかう」なのではないかと思う。
・「相手の機嫌を私が取る必要はない」
相手に気をつかわないということに対して、どうしても抵抗があったり、ものすごく不安になる時は、こちらの表現の方がわかりやすいかもしれない。
私は好きで気をつかっているという人もいるだろう。それは別に恐怖心を働かせているわけではなく、サービス精神や、相手を大事にしたいという優しさや労りからくる「気」をつかっているんだと思う。それはつまり愛のことだから、どんどんつかっていけばいいと思う。
問題は、「機嫌を取らないとひどい目にあう」と恐怖に囚われてしまっている場合だ。それは、相手を信頼していない行為だともいえる。相手は、私が心配して色々やってあげないと、怒り出す人だと思っているのか? もし実際本当にそういう場合は、その人とは本当に距離を置いたほうがいい。自分を癒し、大切にする時間をとって欲しいと思う。
もしどうしても、相手の顔色を窺ってしまうのが抜けない場合は、こんなふうに口に出したり、頭の中で唱えてみてほしい。
「相手の機嫌を取らなくてもまったくかまわない世界を、私は生きています」
そんな世界を私は作っていきます、でもいいかもしれない。「世界は私に厳しい場所」というデフォルト設定を、そうやってじわじわとでも置き換えていくのだ。何もしなくても、私はここにいていいのだと。
・「ただ一緒にいる=相手に純粋な好奇心をもつ」
これは意外と大事なむき身ポイントだ。
誰かと一緒にいてつまらないと感じるのは、「この人は自分に関心がないんだな」と思ってしまうときだ。ただの「いのち」として、この人も自分と同じ、悩みを抱えていたり、傷があったりするひとつの「いのち」なんだなあと思いながら、一緒にいる。そうすると自然に質問をしたくなったりするし、自分から自分のことを話してみようと思ったりする。むき身になることで起こる一番のメリットは、この人と私は同じかもしれないと思えることだ。
普段、何かぽつりぽつりと打ち明け話が起こるとき、お互い自然とむき身になっているのかもしれない。この人となら、心の第1レイヤーの話、第2レイヤーの話もできる。そこに誰も入れられないような、心の脆い部分のことだって、話せる。自分が一番無防備で、震えているような部分を、ただそのまま出してみる。そこから始まるものを、ただ感じてみればいい。
「世界に対する安心感」
ここまで読んで、むき身には別になりたくないな、と思ったらそれでいい。だけど、もし、私にはできない、と思うなら、もう少し試してみてほしいと思う。
なれるなれないはさておき、「むき身」になっていったら、どんな世界になるだろう?
最初は言葉遊びから始まって、その後もずっと半ばふざけてむき身むき身と言ってきたが、実際に私は大きく変わってきたと思う。会社員時代、作家として、私生活の中で。
自分で作り上げてきた、怖い世界の中で長い時間を過ごした。だけど、「むき身」になることは、今まで作ってきた、「世界は厳しい場所であり、自分はそれに対応しなければ排除される」という認識を上書きする、その最初の一歩だ。自分から、脱ぐ。座敷の飲み会で、最初に足を崩す人を誰もが求めている。むき身になるとは、その最初の人にみずからなることだ。足を崩した先で、みんながただ、自分の役割やペルソナを忘れて、ただの人と人として、静かに良い時間や会話を楽しんでいる。そんな変化が、私と、いつのまにか集まってきたむき身クラブの仲間たちに起こってきた。それをこれから書いていこうと思う。
作家・文筆家。東京外国語大学英語専攻卒業、サセックス大学開発学研究所開発学修士課程修了。政府機関、限界集落、留学などを経て、言葉と絵による作品発表・執筆をおこなう。
著書に『毛布 - あなたをくるんでくれるもの』(玄光社)、『私の生活改善運動 THIS IS MY LIFE 』(三輪舎)、『臆病者の自転車生活』(亜紀書房)、『世界に放りこまれた』(ignition gallery)ほか。