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横道誠×高野秀行の宴会式対談!──『京都の人ってなんであんな感じなんですか?』刊行記念(前編)
2025年12月4日掲載
京都の人ってなんであんな感じなんですか?

京都の人ってなんであんな感じなんですか?

横道誠

大和書房

大阪出身で京都に25年以上住み、京都府立大学で教鞭をとっている横道誠さんと、
最新刊は『酒を主食とする人々』(本の雑誌社)のノンフィクション作家・高野秀行さん。
お酒好きのお二人が飲みながら話し、話題は京都から、文化人類学、世界における日本の立ち位置へと広がりました。
 
*本記事は2025年11月14日にXスペースで行われた対談を再構成したものの「前編」です。



横道 こんばんは。高野さん、さっきカリカリ音がしたんですけど、何かお菓子でも食べていたんですか?

高野 あー、柿ピー食べてましたね。もう飲んでますので。

横道 いいですね。私は何時間か前にビールとかチューハイ飲んで、今コーラゼロで割りながらウイスキー飲んでるとこです。今回、私・横道誠は『京都の人ってなんであんな感じなんですか?』という、割と挑発的というか煽り気味のタイトルの本をだいわ文庫から出しまして。高野さんにももちろん献本したんですけど、最後は実は高野さんの話題で終わってるというふうな本でして。

高野 いやー、すごいサプライズでしたねー。びっくりしましたよ、本当に。

横道 その内容はあとでお話しするとして、高野さんは京都にはどのくらいゆかりがあるんでしょうか?

高野 学生の時は結構行ってたんですが、そこから間が空いて、最近また行くようになったっていう感じですね。もともと僕が学生時代に京都に行ったのは、京大に行ったんですよね。当時僕はコンゴに行っていたのですが、コンゴの情報がなかなか手に入らなくて、京大のアフリカ研究センター、今では名前が変わっていて、アジア・アフリカ地域研究科ですかね。そこに行って、そこの先生とか院生の人たちにいろいろ教えてもらったり、一緒に飲み会行ったりとか、そういうことをやってましたね。

横道 じゃあノンフィクション作家の高野さんには、学問レベルでのつながりもそれなりにあったということなんですね。

高野 まだライターになる前ですけどね。で、最初は僕らホテルに泊まるっていう発想がなかったんで、無人駅に野宿してたんですよね。そこから京大に通うっていうことをしてたんですけども。そのうち、京大の先生からかわいそうに思われて、うちに泊まれよって言われて泊めてもらうようになって結構楽しかったんですよね。しかし横道さんの本読んでね、色々驚いたんですけども、横道さんが10代の頃、「自分は甘えた人間だから京都みたいな田舎の世界で苦労したほうが良い」と思いつめて、京都の大学に進学したっていうのはすごいですね。

横道 大阪人の私には、東京の人からよく鬱陶しがられる「大阪人的な癖」が、若い頃はやっぱりあったんですよね。「東京ナンボのもんじゃい!」的なね。それが10代の終わりになると、だんだん恥ずかしくなってきて、自己形成をやりなおそうと思って、「俺みたいな傲慢な人間は、ド田舎で苦労しながら生きた方がいいんじゃないか」って真剣に考えるようになって、京都を選択した。そしたら京都は意外と都会だったんです(笑)。それから長く京都にも住んで、もう四半世紀以上ですね。

高野 大阪の人にとって京都って、すごく複雑なものがあるって時々聞きますよね。街としては大阪の方がずっと大きいわけじゃないですか。でも横道さんも書いてらっしゃいますけど、京都の方がはるかに歴史があって、京都人は自分たちの方が上だって思ってるわけですよね。大阪の人は京都に対して、一般的にどういうふうに思ってるんですか?

横道 大阪にいると、京都に行くことってそんなないんですよね。大阪は日本で東京に次ぐナンバーツーの街、京都は単なる地方都市というイメージ。だから本音を言えば「どうでもいい」。街の規模が違いすぎる。東京の人が大阪を「どうでもいい」と感じるとの同じです。大阪を中心とした関西の地図で見ても、京都は「大阪の郊外」みたいな印象に見えます。しかし年齢があがってくると、大学生や社会人として京都人と知りあうようになり、メンタリティがあまりに異質なのでショックを受けるという感じですね。

高野 京都の人から見た大阪はどうですか?

横道 京都の人は、逆にもっと大阪を意識してるわけですね。大阪人が東京をやたら意識して、突っかかってくるのと同じ。京都は「大阪は下界だ」みたいなこと言いながら、京都の一番栄えてる四条河原町や京都駅から1時間もかからず、より都会的な大阪に行けるわけですね。「東京横浜間」みたいな感じで到着します。「京都では物足りない、もっと遊びたい」みたいなとき、京都人は大阪に行くわけです。子どもの頃から、大阪の方が自分たちの街よりもでかいことわかってるんだけど、それをなんとか自分の中で心の整理をつけるために、「あそこは下界なんだ」と思いなす。「自分たちの方が天上界なんだ」と考えるようになっていく。そういう屈折したメンタリティがあります。そういう屈託を大阪人は知らないから、京都人に会ったときにショックを受けて、「うわあ」と苦手意識を感じる。ちょうど東京の人が大阪人にそう思うのと同じように、というわけです。

高野 ちなみにこの本を出して、京都の人からはどういう反応が返ってきてるんですか?

横道 「郊外」に生きていて、「洛中」の人から迫害されている人たちは喜んでくれてるんじゃないでしょうか(笑)。洛中の人はどうかな。数年前に井上章一さんの『京都ぎらい』が爆発的に売れましたけど、洛中出身者に話題を振ってみると、二分されていましたね。片方のグループは、洛中の人は「数奇者」というか、凝った趣味の人が多いから、「ああいうおもろい本は大好きや」みたいに余裕をかましてる。でももう片方のグループはもっと直情的というか、心底から苦々しく感じて、「井上章一ごとき洛外のやつがあんな偉そうに!」みたいに憤ってましたね。

高野 やっぱりそうですか。

横道 私の本もそういうふうな見方をされてるのかなと思いますけど(笑)。

高野 この本で紹介されている京都の人の発言って、なかなか強烈なものがありますよね。僕が驚いて笑ったのは、梅棹忠夫ですね。だって梅棹さんは国立民族学博物館の初代館長じゃないですか。それがね、京都の人形に比べたら、よそから来る人形はみんなデク、まあほとんどガラクタ、何の価値もないみたいなことを平然と言ってのけるっていうね。梅棹忠夫といえば、日本の文化人類学の草分けみたいな人じゃないですか。文化人類学っていうのは、基本的に文化に優劣はないんだっていうことを主張する学問なのに、その前提をまるっきり覆してしまうという、そこもすごい強烈ですよね。自分は文化人類学者である以前に京都人なんだっていう。そういう二面性があって、完全に矛盾しているのに気にしないっていう感じがしますよね。

横道 本当にそうですよね。海外のレベルで言うと、パリ出身の人とかが、一方では海外の研究をしながらも、一方ではパリ市民の誇りは絶対忘れない、「この街こそが世界の中心なんだ」みたいに思ってる「中華思想」に似てますね。

高野 横道さんは、この本を書くために相当フィールドワークをされて、その結果すごく京都が好きになってしまったって書かれてますよね。

横道 そうですね。長らく住んでいて、昔はやっぱりマニアックなものが好きというか。高野さんも辺境好きですけど、私もメジャーなものに対する、なんとなく反発とかがあったので。「ガチのメジャー」な京都の観光地を回るみたいな趣味は、乗り気になれなかった時期が長いんですよね。で、そうこうするうちにインバウンドの時代になって、どこに行くにもバスが大混雑とかになってしまったので、もはや観光も満足にできなくなっちゃったっていう状況がありまして。

高野 はい。

横道 それでずっと見送ってきたんですけど、やっぱりこれも年齢の問題か、だんだんと「険が取れてきた」っていうか。世の中で広く喜ばれたり評価されてるんだから、自分もその良さをわかった方が結局はいいんじゃない? みたいに丸くなってきて(笑)。発達障害とか依存症とかの診断を受けて、自分がいかに特殊かっていうことを思い知らされて、もうちょっと勉強した方がいいかなっていう謙虚な反省なんかが最近数年間いっぱいあったので、その影響もあると思います。で、実際に京都をあちこちめぐってみたら、やっぱりそれなりにいいものがたくさんあるわけですね(笑)。

高野 この本で横道さん、中島敦の『山月記』に登場する虎と化した李徴のように、「性、狷介、自ら恃むところ頗る厚くな一面がありつつ」って自分のことおっしゃってるでしょ。性、狷介っていうのはあまり心が広くないっていうことですよね。実は僕も中島敦の『山月記』が大好きなんですよ。この登場人物、李徴っていう人は、素質はあるんだけれども、切磋琢磨とかそういうことをしなくて、心が狭いから一流になれなかったっていう、まあそういう人ですよね。

横道 はい。

高野 僕は自分にもそういうところがあると思うんですよ。でも一面では横道さんが非常に単純で素直な一面もあるため、フィールドワークを重ねながら、「ぼく、京都やっぱり大好♡」と思うようになってしまったんだっていうところも、すっごい似てるなって思って、ちょっと笑ってしまいましたね。

横道 ははは。私たちの共通点ですよね。高野さんにしても「欧米」に対する反発があったりとか、「文学」に対する反発があったりとかの一方、すごくすなおで無邪気な一面がありますもんね。高野さんが写ってる写真、いつも子どもみたいなキュートな笑顔で笑ってますもんね。

高野 横道さんに言われてしまった!(笑)

横道 私も高野さんのそういう笑顔を見ながら、私とやっぱり似てるんだなといつも感じてしまいます。そういう無垢な一面があるから、「伝統的な京都人」にショックを受けるということもあるわけですね。京都の深く険しく狭い心の人が――伝統的な洛中出身であることを自慢に思ってる人たちだけに限った話ですけど――ドロリとした暗黒面を開示したりすると、ぎくっとしてショックを受けるんですよね。こんな絵に描いたような京都人、やっぱりまだまだいるんだよなって思って。

高野 さっき横道さんが、パリとか中華思想とかに似てるっておっしゃってましたけども。実は京都の人は、ちょっと違う感じもするんですよね。僕も、ある程度は中国とかパリのことを知ってるんですけども、中国の中華思想と、パリあるいはフランスの考え方って似ていて、文化至上主義だと思うんですよね。自分たちの文化が至上だ、最高だと思っていて、自分たちの文化を知らない人たちに対してはすごく冷たい。ただ逆に言うと、中国もフランス人も自分たちの文化を受け入れる人にはすごく寛容な気がするんですよ。要するに、出身がどうであってもあんまり頓着しない。たとえば中国人だと、中国語を話して、中国料理を食べて、中国人的な振る舞いをしていれば、別にそれがどこの民族だろうが、日本人だろうがあんまり頓着しない。フランス人も、フランス語を話せないとすごい嫌な顔するけども、フランス語を話してフランス人のように振る舞ってると、割と気にしない感じがあるんですよ。中国はかなり古い段階から科挙を導入して、身分とか出身地に囚われない人材抜擢とかやってるじゃないですか。だからそういう意味では、京都の人たちって、ちょっと中華思想とかパリの感じとは違うような気がするんですよね。むしろ、先住民の権利主張みたいな気もするんですよね。

横道 はい。

高野 洛中にいる人たちって、「一番最初に来ていた人たち」じゃないですか。古い時代に来てる人たちは、周りにからどんどん新しい人が加わって、ほうっておくと新参者に数で圧倒されちゃうわけですよね。だから黙ってると、自分たちの存在がなくなってしまうので、権利主張してる。そういう感じもしますよね。

横道 そうですね。ですから中華思想とか、パリ人の意識っていうのは、高野さんの整理を聞いていると、むしろ東京の人に近いわけですよね。東京の人は、「東京なんて所詮は地方出身者が集まってる街だから」なんて言うし、そういう一種の寛容性があるじゃないですか。京都に関しては、今回の本でひとつ非常に斬新な観点を提供していて、それはケア論的なものなんですね。つまり京都の人たちっていうのはものすごい没落を体験してきたので、非常に傷ついてる人々なのではないかということです。福祉の現場では、「困った人は困っている人だ」というリフレーミングするんですね。支援者でも厄介、面倒くさいと感じざるを得ないひねくれた支援対象者、たとえば犯罪歴があったりとか、利己的にわがままばかり言って手を焼かせる人たちがたくさんいるわけですけど、そういうふうな人たちって成人でも子どもでも、背景には傷ついてばかりの人生が広がっていて、その結果として「困った人」になってしまっているわけです。それは京都の人も同じではないかみたいな話を書いたんですね。高野さん、そこら辺はどのように思われますか?

高野 うん、ほんとそうだと思います。やっぱり没落してしまった、昔は栄光があったっていう人の自尊心はすごく大きいと思いますよね。でもそういう視点って、あんまり、いやあんまりというか、聞いたこと、見たことはないですよね。

横道 はい。私が初めて指摘したことかと思います。

高野 それは確かに鋭い視点だなと思いますね。

(後編に続く)