トラブルを歓迎する心意気!
ラグビーの事故で障害者になった男性と、ひょんなことから知り合った馬場真美さん。その後ヘルパーとして彼の家に出入りしていたある日、「自立生活センターを立ち上げたいので、手伝ってくれませんか」と頼まれる。1992年、全国にぽつりぽつりと自立生活センターができはじめていた時期だった。
「まだ24時間介助がなかった時代でね。わたしの最初の仕事は行政と交渉することだった」
と馬場さん。もともとの制度では、重度障害者の一人暮らしなんて想定されていなかった。だからヘルパーが派遣されるのは1日せいぜい8時間くらいで、あとは無償のボランティアが交代で入って24時間を埋める綱渡りが続いていた。それでは持続可能な自立はむずかしい、システムを変更してほしい、と馬場さんたちは何度も何度も役所を訪ねて交渉したのだ。
「市の担当者に「24時間の介助を付けないと死んじゃうんですよ」と訴えても、「これまでそんな要求をしてきた障害者はいない」「みんな我慢してるんだから、あなたたちも我慢しなきゃ」なんて言われるばかりでねぇ」
当時、「24時間介助を勝ち取る闘い」は各地で展開されていた。いまだって障害者がごく当たり前の要望を口にしただけで「わがままだ」などといちゃもんをつけてくる人がいるのだから、当時はどれだけ大変だっただろう。
馬場さんらは、国のホームヘルパー制度、東京都の介護人派遣事業、それに生活保護の他人介護料を組み合わせて24時間の介助を可能にするという作戦で交渉を続けた。そしてついに「前例がない」の壁を突破する。日本で初めての24時間介助を獲得したのだ。ぶらぼー!
そのニュースは全国のたくさんの同志を励ました。そして馬場さんのもとには「変人」が集結するようになる。
まず高知からやってきたのは、障害者介助のボランティアをしていた直さん。
「最初に会ったとき彼は学生で、卒業旅行中だった。障害者を何人か引き連れて、大型バスで全国の自立生活センターをめぐる旅をしてた。バスのなかに布団を敷いて寝られるようにしてね」
って、なんだその大学生は。バスが運転できる人材を欲していた馬場さんが「うちに来ない?」と誘ったら、直さんは「就職試験に落ちたら来ます」と答えたらしい。馬場さんはうれしそうに回想する。
「ありがたいことに落ちたのよ! それで直さんはうちに来たの」
そのあと、筋ジストロフィー患者の川元恭子さんが香川から上京してきた。「障害者職員募集、社員寮完備、社保あり」という広告を見て応募してきたという。
「わたしたちね、募集広告を出すときに「社員寮なんてどこにあるの?」「誰か来たら探せばいいじゃん」とか適当なこと言ってたの。そしたら、ほんとに来ちゃった。あとから川元は「だまされた」って言ってましたけど、あはは」
川元さんは小豆島の生まれ。若いころは自力で歩けて家事もできたため、高松で縫製の仕事をしながら一人暮らしをしていた。障害者が自分の意思をもって暮らせる社会にしたい、という夢を抱いての転職だった。
「東京に出てきたとき川元は40歳になるかならないかで、わたしは40代後半だったかな。地方の自立生活をサポートするために、まずは自分たちでゼロからセンターをつくってみたいって川元が言い出して、一緒に始めたわけ」
川元さんと馬場さんの最強タッグが組まれ、96年4月に「自立生活センター・小平」を開設。そこは熱い人間たちの溜まり場となっていく。ふたりは体当たりで人を育てた。馬場さんが語る当時のエピソードはどれも愛があり、過激で、いつまでも聞いていたい話ばかりだった。
「介助のバイトに入った大学生が遅刻や無断欠勤を繰り返すから「どうしたの」って聞いたら「やめたい」って。だからわたし言ったのよ。「そんな状態でお前を社会に出すわけにはいかない。外に出して恥ずかしくない人間になるまでこの仕事をやめてはいかん!」って」
「介助者が「障害者に命令されるのがつらい」って泣くのね。でも言語障害がある人は「お水ください」と言えないから「水!」って乱暴な言い方になるのかもしれない。だから介助者は不満やつらさを相手に伝えて、ちゃんと話し合うべきなの。でもなかには「当事者と話し合うのはいやです」なんて言う介助者もいる。わたしは心の中で叫ぶのよ。「話し合いができないんだったら、その不満を死ぬまで相手に気付かれるな。そのまま一人で抱えて、生きて、死ね!」って」
わたしと斉藤さんはゲラゲラ笑い転げた。
馬場さんと川元さんに育てられた若者たちは、いまでは立派な介助者になって、みんなから頼りにされる存在だという。自立生活センター・小平に出会って人生が変わった三澤さんも「毎晩のように事務所に行って、ふたりと話してたんですよ。朝の5時、6時まで。もう楽しくて楽しくて」と言っていたっけ(連載第2回 https://daiwa-log.com/magazine/maki-kanai/saitosan2/)。
わたしは改めて馬場さんに質問してみた。
「川元さんて、どんな人だったんですか?」
「愛情深い人だった。朝から晩まで人のために走り回ってた」
「そう言う馬場さんも走り回っていたんですよね?」
「そうね。ふたりだったからできたのよね」
2014年に旅立った盟友を追想する馬場さんにちょっとしんみり……しそうになったら、横から斉藤さんが言った。
「川元さん、迫力ありましたよね。極道の姉御って感じで」
ご、極道?
「そう、極道っぽいんすよ。カリスマ性がありました。いつ電話しても出てくれる。ちょっと怖いんだけど、いつもビシッと気合を入れてもらいました」
斉藤さんのことばに、馬場さんもうんうん、と笑った。
「本気で怒って「川元は許さん!」とか言うのよね。負けず嫌いなところもあって、障害者だからできないと言われるのが何より悔しいって。「川元は人前で涙は見せん!」て言いながら、隠れて悔し泣きしてた」
人の熱は伝播し続ける。小平から全国に。次の世代、そのまた次の世代に。
最後にとっておきの馬場さん語録を紹介したい。
「トラブルが起きてやっと本当のことがわかる。トラブルが起きないと、いいことも悪いことも表面化しない。だからトラブルをいやがってたらダメなのよ」
カーッ。たまらない。トラブルを回避するどころか、歓迎する。なんという心意気だろう。
わたしも日々、そこかしこでトラブルに遭遇している。家族や友人とのあいだでも、仕事でも遊びでもトラブルは起きる。「なんでこんなことになっちゃんだろう」とうんざりするし、他人も自分も責めて落ち込む。でも馬場さんに会って、すこし変わった。トラブルが起きてはじめて、いいことも悪いことも見えてくる。なるほど、そうかもしれないなぁ。
1974 年、千葉県生まれ。文筆家・イラストレーター。著書に『パリのすてきなおじさん』(柏書房)、『テヘランのすてきな女』(晶文社)、『世界はフムフムで満ちている』(ちくま文庫)、『聞き書き 世界のサッカー民 スタジアムに転がる愛と差別と移民のはなし 』(カンゼン)、『日本に住んでる世界のひと 』(大和書房)、『おばあちゃんは猫でテーブルを拭きながら言った 世界ことわざ紀行』(岩波書店)など多数。「多様性をおもしろがる」を任務とする。難民・移民フェス実行委員。