ある翻訳家の取り憑かれた日常

第76回

2025/12/23-2026/01/05

2026年2月5日掲載

2025/12/23 火曜日

『全員悪人』文庫版、本日発売。
文庫化にあたって書いた補稿に、このようなシーンがある。

**********
「あれ、みっちゃんやないの。どうしたん?」
「どうしたって、今日、遊びに行く約束してたやないの?」
「あ、そっか。忘れてた。でもみっちゃん、宿題やったん?」
「宿題? そんなんやるわけないでしょ!」
「え〜、宿題、やらなくてええの? 先生に叱られてしまうよ」
「ねえ、まさか宿題なんて気にしてるん? そんなん、もう気にしなくてええんやよ。なんにも気にせず、好きなことしてええんやよ。早く川まで遊びに行こう! 魚を捕まえに行こう!」
「うん、わかった! でもちょっと待って、パジャマやから着替えないと」
「そんなん気にしなくていいってば。あなたは自由。あなたはもう、何をしてもいいの。誰の目を気にする必要もないの」
「わかった。じゃあ、川に行こう! 懐かしいわ、みんな元気にしてる?」
「当たり前やん! みんな、あなたが来るのを楽しみに待っているんやから」

私はみっちゃんの背中を追いかけながら、坂道を上っていきました。暮れかけた夕日に向かって、ただひたすら、みっちゃんの背中を見つめながら。
**********

徘徊がスタートする場面だ。
認知症とは、このような物語の連続なのではないか……そう思いたい自分がいる。

2025/12/24 水曜日

いろいろと血迷って、義父の住むグループホームにクリスマス・プレゼントのクッキーを持って行った。今となっては、なぜそのようなことをしたのか理由はわからない。気を抜いていたのだと思う。クリスマス気分で浮かれていたのか。

廊下の先で義父は待ち構えていた。その時すでに号泣状態で、杖を両手に持ち、大声で泣いており、職員さんも若干困った表情。私の名前を呼んでいる。居室に戻っても泣きやまず、捨てないで、どこにも行かないでと、私の手を握ろうとするので、後ずさりするように逃げた。

「アメリカに行かないで」(行かねえよ。特に最近は行きにくいだろ、いろいろあってよ)、「嫌だ、嫌だ」、「どうしたらいいの?」、「捨てないで」、「手を握って」、「イヤーッ!」(イヤはこっちだろ)など、恐ろしくて、引きまくって、あっさりと逃げ帰ってきた。

私はどうしても自分の好奇心に勝てず、義父という珍しい生き物を見学に行ってしまうのだが、そろそろやめておこうと思う。

2025/12/25 木曜日

昨日のショックから抜け出せないでいる。過去10年分くらいの暗い記憶が甦ってくる。義父による粘着の日々だ。

義母も義父の粘着には悩んでいた。私も時折愚痴を聞いていたが、ここまで酷いとは理解していなかった。義母もさぞ苦労してきただろう。離婚すればいいじゃないかと簡単に言う人もいるが、シングルマザーで子どもを育てるには、あまりにも厳しい時代だったのではないだろうか。だって昭和だもの。

義母の意識がはっきりしている時期に、「あいつ、今度一緒に張り倒しましょうよ」とか、チャゲアスみたいなことを言ってあげればよかった。

2025/12/26 金曜日

インターネット上の書評に、村井理子はXのインフルエンサーと書いてあった。あのねえ、私は「翻訳もやる、Xの弱小インフルエンサー」です。一応、翻訳もやってるからね。むしろ、めっちゃ翻訳やってるじゃん、毎日。どういうこと?

2025/12/27 土曜日

弱小インフルエンサー、今日も翻訳。
こんなに時間がかかるとは誰が予想していただろう。たっぷり一年、かかってしまった。いつまで続くのやら。

昨日から耳が痛いので、仕事終わりに耳鼻科に行った。中耳炎らしい。夕方になると、両耳が痛くなってくる。この年で中耳炎になるとは……。

2025/12/28 日曜日

日曜日、ゆったりとした気分で翻訳。

私自身は、星占い、血液型占い、性格診断とか、そのあたりを一切信じていなくて、まったく興味もなかったし、今もあまり興味がない。霊感とかオーラの類いも何かの勘違いだと思っている。そんな私が、ここのところ一年ぐらいかけてMBTIの起源についての本を訳しているが、本気で唖然としている。ここまで世界中に広がり、利用者の人生に大きな影響を与えている謎診断システムが、こんな過去を持つのか。調べてみれば、大きなムーブメントの裏には必ずこんな話があるのね。本当に気を抜けない世の中だわ。

2025/12/29 月曜日

ずっとずっと訳していたMBTIの本、とうとう初稿が出来上がった。出来上がったとはいえ、今から訳抜けがないかどうか、単語の統一ができているかどうかのチェックに入るので、まだまだ時間はかかる。なにせ200ページぐらいある。文字数も26万を超えている。どうしたらいいんだ。最後までやるしかないが、さすがに疲れてきた。内容が、抜群に面白いというのが救い。

しかし両耳が痛い。

2025/12/30 火曜日

義母、突然の大量下血という連絡があり、グループホームから市内の総合病院に搬送するので、今から来てくれと連絡が!

急いで病院に向かうと、グループホームの看護師さんはすでに到着しており、入院を見越して義母の衣類や必要な書類などをすべて大きなバッグに入れて持って来てくれた。そのうえ、下血直後のベッドの写真など、医師に説明するためのデータをすべて揃えていた。す、す、すごい現場だった。これは殺人事件……? と言いそうになった。

様々な検査が行われたが、医師によると原因は小腸にできた潰瘍からの出血だそうだ。寝たきりが長くなると、体の同じ場所に圧がかかりはじめ、そこに潰瘍ができて……ということらしい。急変もあるので、今日はこのまま入院ですということだった。

縁起でも無いことを考えて、大変混乱して家に戻った。

2025/12/31 水曜日

日本で年越しをするという外国人観光客のみなさんが、ストゼロの洗礼を受けている動画が大量にあって面白い。ストゼロにウコンの力をプラスするカクテルが人気だそうで、ストゼロを飲むけど一応内臓も大事なんだとか思ったりする。日本では二十四時間営業のこんなに楽しいコンビニで、こんなに安く、こんなに素晴らしいアルコール飲料を購入することができる、日本ヤバいと皆さん大喜びだが、確かに日本はアルコールに対して寛容過ぎると思う。息子たちのことが心配だ(自分はいいのか)。

2025/01/01 木曜日

決めた。今年は休む。

3月までには、今、翻訳をしている書籍の仕事は完全に終わるはずだ。そこからは少し休んで、ゆっくりと原稿を書こうと思う。何を書こうか……。決めかねている。昨年はいろいろとあって、忙しかった。今年こそは、ちゃんと休みつつ暮らそう。

2025/01/02 金曜日

夢のなかでメンタルクリニックの先生と話をした。先生が、「あなた、このあたりにマンション買うたらどないですのん? だって、いいところでしょ? 生活も楽になるでしょう?」と言った。目を覚ましてから「それもいいな」と思った。年始に、とてもいい夢だ。早速インターネットの物件サイトでいろいろと探してみたが、当たり前ですけど、高いですね。琵琶湖の真ん前はやはり高いな。絶対に無理だが、目標にして生きていこう。できる、オレなら。

2025/01/03 土曜日

両耳が痛くて、めまいがしてきた。寝る。

2025/01/04 日曜日

薬でめまいはよくなったが、耳の圧迫感がすごい。とりあえず蟹でも食べるか。

2025/01/05 月曜日

義父のグループホームから年賀状が届いた。要約すると、「ワシの体のことは心配するな」ということだった。心配なのはフィジカルじゃなくて、メンタルなんだよ!!!!

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『ある翻訳家の取り憑かれた日常』(2巻まで刊行、大和書房)、『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。