ある翻訳家の取り憑かれた日常

第41回

2024/08/19-2024/09/02

2024年9月12日掲載

2024/08/19 月曜日

ここのところずっと訳している本が難しい。とりあえず難しい。一文が長いうえに、難しい単語が多い。:(コロン)で延々と文章が繋がっていく。原文にピリオドが見えると「そろそろ文章が終わるな」とか思って翻訳者はほっとするものだが、この本はきっと、ピリオドが極端に少ないのではないか。横に長い長方形の黒い塊が、ずらっと並んでいるようなページ構成なんだが、久々に、これはすごいのが来てしまったなと思う。内容は震え上がるほど怖い。こんなに怖いのは久しぶりだ。

私たちが生きる世界には怖いものがたくさんある。それをすべて知らずに生きることが幸せなのか、それとも。

2024/08/20 火曜日

延々と訳している。今日は、昨日訳した内容があまりにも怖かったので、別の担当本にチャレンジ。こちらは回顧録、それも女性で基本的に明るい人なので、スイスイ進む。単語の選び方に著者の人となりが出ていて素敵だ。彼女の曲をYouTubeで流しながら、明るい雰囲気で訳す。予定ではあと2週間ほどで終わるはずだ。とにかく前に進むしかない。一文字でも多く稼ぐことだ。できる、きっと。

2024/08/21 水曜日

仕事のあとにドライブをしたのだが、ついでに義父母の家に立ち寄る。午後7時だというのに、門はがっちり閉められ、カーテンが引かれ、家のなかの様子は見えない。しばらくピンポン鳴らして、窓をどんどん叩いたが反応なし。最近は合鍵を渡されているので、合鍵を使って中に入ると、家中がシーンと静まり返っている。蒸し暑い。外出しているのか? いや、まさか。夜に家を出るとは考えにくい。義母は18時過ぎにデイサービスから戻っているはずだから、家には二人がいるはずなのに……。

結局、二人は真っ暗な寝室にいた。義母はベッドの上で両目をぱっちり開いていて、義父は寝ていた。義母に声をかけると、「まだ眠くないのに寝なさいって言われて電気を消されちゃうのよ~」ということだった。

些細なことではあるのだけれど、午後7時に電気を全部消して寝かさなくてもいいのにと思った。管理の仕方がおかしいと思うのだけれど、こう思うのは私だけだろうか。リビングでテレビでもつけてさ、どうでもいいニュースでも見てさ、ちょっと寝てくるわ~でもいいし、ソファでうとうとするでもいいし、もうちょっと人生に余白ってものがあってもいいと思うのだけれど、義父には柔軟性というものが一切ないのだなと思った。軽くホラーだ。

2024/08/22 木曜日

義父におせち料理のパンフレットを手渡される。その瞬間、「そんなに先のスケジュールまで考える余裕が!」という思いが頭に浮かんでしまい、必死でかき消した。かろうじて出たのは「まだ8月ですよ」という言葉だった。私の横に座っていた夫は大きなため息をついていた。おせち料理の何が義父をここまでアグレッシブにするのか。もはや性癖か。

とりあえず写真撮影して、パンフレットはそこらへんに放り投げた。

2024/08/23 金曜日

次男「俺があまり傷つかない性格になったのは、母さんからの攻撃を受け続け、それに慣れたからだと思うわ!」と言っていた。私は息子たちに何を言われても、折れないときは決して折れないが、それを次男は「母さんは頑固だ」と言う。しかし、「頑固」の使い方が間違っているといつも指摘している。「頑固じゃなくて、あなたが間違ったことを言うから、それは違うんじゃないですか? と言っているだけです」と返す。息子たちは笑顔で「ハイハイ」と答えている。私の話など聞いていない。

2024/08/24    土曜日

朝から晩まで翻訳。難しい……。大きなブロックを一つ攻略したと思ったら、すぐに次のブロックだ。延々と続くタスクに息切れがしそう。一体この先何文字書けばいいのだ。どれだけここに座って訳し続ければゴールが見えてくるのか。どんどん悲しくなってくるのだけれど、目標の文字数に達すると、あっさり元気になる。また明日頑張ろうという気持ちになりながら、眠りにつくことができる。結局私は、翻訳さえできていれば、元気なのだ(肉体的にも精神的にも)。

2024/08/25 日曜日

朝から晩まで翻訳。ものすごく集中しているときに限って、「お昼なに?」とか聞かれて猛烈に腹が立つ。やはり仕事場が必要なのではないか。そう言えば、一年ぐらい前は躍起になって仕事部屋を作ろうと思っていた。その仕事部屋には犬用のスペースを作って……などと夢を抱いていた。ハリーが死んでしまい、すっかりその夢もどこかへ消えた。残ったのは鬼のような仕事量ということで、今日も諦めずに訳すしかないのであった。日曜日だけど。

2024/08/26 月曜日

今日は依頼された原稿の締め切りだった。今年は連載が増えて月9本になってしまった。なってしまったと書いているが、無理だったらお断りするという選択肢もあったわけで、それをしなかったのだから自分が悪い。文字数が少ない連載がほとんどなので、翻訳と平行させて地道に書けば大丈夫だ。できるできるできる。

2024/08/27 火曜日

原稿の締め切り。まずは締め切りの厳格な原稿を書いて、それから翻訳をやるという流れだが、原稿が難しくてパワーを使い切ってしまった場合、昼寝を挟むことにしている。昼寝って言っても、本格的に寝てしまうとダメなので、涼しい部屋でTikTok三昧、ショッピング三昧、ドキュメンタリー三昧をするという意味だ。一時間程度遊ぶと、頭のなかがスッキリして、それじゃあ次は翻訳やろうか! という元気が戻ってくる。これで家事がなかったら完璧なんやけどなあ~。家事がなあ~。

2024/08/28 水曜日

メンタルクリニック。ちょっと日にちが空いてしまった。最近不眠症が改善してきたような気がする。眠剤を飲まずに寝る日も増えた。それはどうして? と先生に聞かれたので、たぶん、夜に配信を見て楽しんでるからじゃないですかねえ……と答えたら、先生は「いろいろな人がいるから」と笑っていた。

どういう意味だろう。

2024/08/29 木曜日

台風接近中。

テオはめちゃくちゃ賢い。ドッグスクールで暮らしていたから、しっかりと訓練が入っている。リードをこれっぽっちも引っ張ることなく、横にぴたっとついて歩くことができる。呼べばやってくる。お座りと言うと、さっと座る。お手もすぐにやる。性格も良い。ゴールデン・レトリバーが人気犬種なのはよくわかる。

賢いなあ~、さすがだな~と言いながら、そういや、ハリーは幼犬の頃からめちゃくちゃ力が強くて振り回されていたななどと思い出す。

2024/08/30 金曜日

来る来ると言われている台風、一向に来ない。翻訳して、原稿書いて、午後に買い物行って、あっという間に一日が過ぎる。台風もどこかに行ったようだ。

2024/08/31 土曜日

高校三年生にもなると、夏休みだからってべったり面倒を見なくてもいいから楽なんだけど、P活(PayPayでおこづかいを送ってと頼まれる)が激しくなる。ただ、二人とも勝手に外出してくれて、時には友人たちと外でごはんを食べてきてくれて、ついでに庭の草を刈ってくれたり(P払いあり)、おつかいしてきてくれたり、立派なアシスタントとして活躍してくれた。ああ、夏休みが終わってしまった。残念。もっと息子たちと遊びたかった。

2024/09/01 日曜日

コンビニに行ったら息子たちの同級生がレジにいた。「どう? 受験勉強がんばってる?」と聞いたら、「英語やってるっス。単語、めっちゃ覚えてるっス。でも、英単語って、前後に何があるかで意味が変わるじゃないスか? 絶望っス」ということだった。

2024/09/02 月曜日

翻訳。出てくる単語の分析をしていた。早い段階でそうしておかないと、あとから大変になるぞと気づいたのだ。その結果、Self-xxxという形式の単語が55種類あった。絶望っス。

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。