真空ジェシカ ガクの文字しぼり

この連載について

お笑い芸人ではあるはずなんだけど、ネタは考えてないし普段から全然頭を使ってない。
そんな奴が、その場で一言振られて一瞬で頭を巡らせて面白い事を返すなんてのは難しすぎる。
一旦、じっくり考えて文章をしぼりだすことから始めたい。
僕が生きていくなかで自然に吸い取った経験をしぼった汁がすすれる連載です。

第2回

学祭でしぼる

2023年11月10日掲載

11月。学祭シーズンだ。
今年は色んな学祭に呼んで頂いた。これはかなりありがたい。
行ったことのない地域や、本来入るはずのない学校に行けるのは楽しい。
学校によって学祭の規模が違ったり、ライブをやる場所も全然違って色々な経験ができる。
体育館でやったり、屋外でやったり、学食でやったりした。初めて麺を茹でる機械の上に進行台本を置いた。

屋外のステージであいにくの雨だった日もあった。青森の学校で、その日は気温も低かった。
お客さんがいる所には屋根がなくて、傘をさして震えながら見てくれていた。
僕らには屋根もあるのに「寒い、寒い!」と舞台上で文句を言っていて、そしたらスタッフさんが舞台上に小さいストーブを持ってきて下さった。
ストーブとマイクの間に少し距離があったので、どちらにも行き来できるように足を広げ腰を落として盗塁みたいな姿勢でネタをやった。
青森では盗塁漫才師として名が広まっているだろう。もしくは単純に我儘漫才師と思われたか。
そうだったら反省しなければいけない。
普段テレビでは見れない不思議な光景を少しでも楽しんでくれてたら嬉しいんだけど。

僕が学生の時も何回か芸人が来てくれた事があって、めちゃ嬉しかったのを覚えている。
地元に”来てくれる”っていうのが良い所だ。
来る人を選ぶ事はできないけど、来てくれた経験の後に選んで見に行く事ができるようになる気がする。

初めて生の芸人を見たのは、確か中学2年の時。
学祭が終わった次の月曜日に、生徒だけが体育館に集められて開催される後夜祭があって、そこにスピードワゴンさんが来てくれた。
「テレビの中の人って本当に居るんだ…!」と知り、芸能人と自分の生きる世界線が繋がった事に興奮した。
そしてネタは顔の形が変わるくらい笑った。当時、僕はクラスでほぼ誰とも喋ってなかったので、あの場で初めて僕の声を聞いた人も多かったと思う。

生で見るネタはテレビで見るより断然面白く感じた。今でもはっきりどんなネタをやってたか覚えてるくらいに衝撃的だった。
芸人になって嬉しかったことの一つに、スピードワゴンさんと営業でご一緒して、あの時客席で見たネタを袖で見れたというのがある。
「ウワー!あの時のネタだ!!」と思って興奮して小沢さんに伝えたら、「ガクが中学生の時と同じネタをしていて恥ずかしい」と仰っていた。
ミスった。恥ずかしめてしまった。あの時あれだけ面白かったのだから、何年やり続けたっていいネタだと僕は思っていた。

高校の時も芸人が来てくれた事があった。
クラスの友達の家の近くの小学校でお祭りがあって、そこに芸人が来るというので見に行った。
そこにいらっしゃっていたのはアホマイルドさんとキャベツ確認中さんだった。
当時は「あまり知らない人だけど、生で芸人を見れて嬉しい!」と思ってまっすぐキラキラした目で見に行ったけど、今考えるとすごい人選だ。
小学校で行われる祭りの営業としては攻めすぎている。お客さんはほぼ小学生だ。
それでもドカドカと笑いをとっていて、「知らない人だけどめちゃくちゃ面白くてすごい!」と感動した。
テレビにたくさん出ている芸人だけが全てじゃない事を初めて知った。
この時の事もいまだに鮮明に覚えている。

あれ?って事は、僕らの学祭も見に来てくれた人の記憶にずっと残るってこと!?と思ったら急に怖くなってきた。
雨の日の盗塁漫才がずっと記憶の中に残り続けてしまうのか!?
記憶の中の真空ジェシカがずっとストーブとマイクを行き来し続けるのか…!?
もちろん楽しんでもらえると思ってやったことではあるんだけど、一つ一つの舞台をしっかり考えてやんないとなと、今、背筋が伸びた。

今や僕らにとって学祭は、呼ばれたら行って学校の盛り上げを手伝う役割なわけで、主役はもちろん学生だ。
そして僕にも主役側だった時代がある。
中学の時は、正直学校に馴染めてなさすぎて学祭に参加した記憶が全くない。
クラスにようやく少し馴染めた高2の時から、学祭の物心がようやくつき始めた。

高2のクラスの出し物はすごろくだった。
サイコロをふって出た目のマスに書かれたミニゲームに挑戦して、ゴールするまでの合計得点が高ければ景品がもらえるみたいな催しだったと思う。
射的とか輪投げとかのマスがある中で僕が担当したのは『モノボケ』のマスだった。
1分間生徒がひたすらモノボケをして、お客さんが笑いをこらえられたらクリアという、芸人でも進んでやりたがらないゲームだ。
誰かが悪ノリでこのマスを作って、誰もやりたがらないからクラスのいじられキャラたちが無理やりやらされた。
僕も流れでモノボケの担当になってしまって、人生で初めて人前でお笑いをやった。
学祭が行われる2日間、モノボケ担当の人は朝から夕方までずっとモノボケをし続けなければならない。
お笑い芸人としてご飯を食べている今でも、1日3回とかステージに立ったら結構疲れる。
しかしこの時は1日6、7時間×2日間モノボケをやり続けなければいけなかった。地獄すぎる。
なんかこの時の洗脳で芸人の道を選んでしまったんじゃないかと今になって思う。

しかも、校内に知り合いが多いわけじゃないのでお客さんが生徒の場合でも相当恥ずかしい上に、訪れるお客さんの半分くらいは親御さんだった。
もちろんウケない。笑いをこらえる事もなく、1分間モノボケをしている姿をひたすら真顔で見られる時間。
僕以外のモノボケ担当の人はみんな逃げ出してしまって、途中から僕だけがやっていた。
なぜ僕は最後までできたかというと、自分が考えたモノボケじゃなかったからだ。
クラスの明るい奴が「こんなんどう?笑」とか言って提案してくれたやつをやっていた。
この頃から僕は人が考えたネタをやっていて、誰かが考えてくれたネタなら無抵抗でいくらでもできた。
”ネタを作ってない側”の能力が目覚める瞬間というのもちゃんとあるらしい。

その次の年、高校3年の時の学祭でも僕は人前に立つことになる。
生徒だけで行う後夜祭でミュージカルをする事になった。
今度は全校生徒の前でやらなきゃいけない。モノボケの経験はあったとはいえ、クラスの隅っこでやるのとはわけがちがう 。
しかも、後夜祭の出し物に出るのは基本的にクラスの明るい人たちだけだ。みんな他のクラスにもたくさん友達がいる。
僕は同じクラスになった事がある人しか知らない存在。かなりアウェイな中で挑まなければいけなかった。

僕のクラスがやるミュージカルは、クラスの男子が好きな女子を誘ってペアになって踊るみたいな話だった。
その中で僕は、一人だけ女の子とペアを作る事ができないオタクくんの役。そして、この話の中の唯一のボケ役だった。
こんな誰にも知られていない僕がボケて、笑いが起きるわけないだろと思いながらやった。
しかし、本当に誰も知らない奴がオタク役をやるリアルさがハマったみたいで、えげつないくらいウケた。
もしかしたら笑われてる感じのウケ方だったのかもしれないけど、僕にはそれがめちゃくちゃ嬉しかった。

そして何より嬉しかったのはその数時間後。
後夜祭が終わって、僕は教室で席に座って帰りの準備をしていた。
すると廊下からすごい勢いで僕の元に走ってくる奴がいた。僕にはほぼ友達のいなかった中学時代からずっと仲の良い友達が一人いて、そいつだった。
すごい焦ってる様子で、「どうしたの?」と聞くと彼は答えた。
「初めて川俣がいない所で、川俣の話をしてる人がいた!!」
純粋に僕のことを話してくれた人がいたんだ。という喜びと、僕の話をしてる人がいたことがそんなに衝撃的だったんだ。という切なさが入り混じった。
というか、いくら目立たないといっても一回くらいは陰で僕の話をされてるもんだと思ってた。ただの一度もされてなかったなんて。
けど嬉しかった。誰かの記憶に残る事の嬉しさを知った出来事だった。

誰かの記憶に強く残るって、すごい事だ。昨日やった事すら全然覚えてらんないのに。
昨日のことで覚えてるのは、夜ミスドに行ったらフレンチクルーラーとココナッツチョコレートのみの陳列になっていて、半ば強制的にこの2つを買うことになってしまった事だけだ。こんなの覚えてない方が良い。

今、僕は芸人になって学祭とか営業とかで、記憶残しチャンスを多くいただけている。
今のところは下ネタ言って怒られるとか、東京からはるばる来て20分滑り続けるとか、そんな記憶の残り方ばっかりしてる。
せっかくならいい記憶の残り方をしなきゃと思った。

著者プロフィール
真空ジェシカ ガク

プロダクション人力舎所属のお笑いコンビ真空ジェシカのツッコミ担当。相方は川北茂澄。2011年にコンビ結成。2021年、2022年M-1グランプリ2年連続ファイナリスト。
真空ジェシカ初の冠番組テレビ朝日「ジェシカ美術部」が放送中。
「千原ジュニアの座王」や「まいにち大喜利」など大喜利番組やドッキリ番組に出演し、個人でも活躍。「真空ジェシカのラジオ父ちゃん」や「真空ジェシカのギガラジオ」が定期配信。