私たちは不器用だ。つながろうとしてつながりすぎる。誰かを求めているのに突き放す。自分を見せようとして演出しすぎる。気に入ってほしいのに嫌われる。優しい言葉をかけてもいいのに沈黙する。理解したいのに誤解する。笑顔にしようとして傷つける。だが、私たちの言葉には力がある。平凡な言葉も、磨き上げさえすれば見違えた力で日常を語りだす。本連載では、新しい時代のコミュニケーション論を構想し、来るべきカンバセーション・ピース(団欒の姿)を想像することにしたい。
〈車窓〉というガラス越しの視点で世界を生きること、あるいは、心と言葉の解離——星野源『いのちの車窓から』を読む(1)
心(内面)と言葉(コミュニケーション)の解離
前回からしばらく間があいてしまったので、振り返ることからはじめよう。自分の趣味とは別に社交のための趣味を持つことが珍しいことではなくなっている。社交としての趣味の代表格が、エンタメ作品である。なぜエンタメ作品が社交の話題に上がりやすいかというと、「政治や仕事、家庭などの衝突を引き起こしかねない話題に比べて」炎上しにくく、SNSで安心して話題できるからだ。
フィリップ・コトラーの教え子であるアーロン・アフーヴィアは、「ミーカテゴリー(me category)」という見方を提案している。ある存在や事柄が「ミーカテゴリー」に入るということは、それらに対して人は冷静でいられなくなり、自尊心に関わる情動が刺激されるという[1]。たとえば、自分の家族や大好きな音楽、手作りの洋服を褒められたり、けなされたりしたとき、人はそれが自分自身でないにもかかわらず、誇りや自信、あるいは逆に裏切りや憤慨を感じる。
ヒットしているエンタメ作品——「マンダロリアン」(2019)、「イカゲーム」(2021)、「地面師たち」(2024)、「アドレッセンス」(2025)など——は、「ミーカテゴリー」に入るような題材では(ひとまず)ない。強烈なファンか制作関係者でもない限りは、単なるコミュニケーションのネタとして、日常の会話に盛り上がりを添えるものとして扱うことができる。エンタメ作品は、軽い気持ちで観て、それを気楽に話題にできるところに(社交上の)よさがあるわけだ。その意味で、エンタメ作品は、互いに「自分の趣味」を開示できなくなったり、「いい子」になって言葉と内面が解離し始めたりしているときに、欠かすことができないものになっている[2]。
第四回では、「いい子」の中で、言葉(コミュニケーション)と内面(心)が分裂する様を跡づけた。そして第五回では、SNSの円滑なやりとりのために、社交のための趣味(会話のネタ)と自分のための趣味(個人の好み)が分極化していくさまを確認した。これらはいずれも、〈社会と自己の解離〉の存在を意味している。社会と自己が連絡を失い解離している状態である。この分断状況を越える手がかりになるのが、「無為」、つまり何もしないことなのではないか。以上が、ここ2回で話してきたことである。
当の「無為」なるあり方がどこからやってきたかというと、歌手・俳優・文筆家と多方面で活躍している星野源のエッセイ『いのちの車窓から2』だった。今回は、前作『いのちの車窓から』を含めた彼の連載「いのちの車窓から」を紐解くことで、社会と自己を分裂させる状況に抵抗する方途を紐解き、抵抗する方法を模索することにしたい[3]。
〈車窓からの視点〉とはどういうものか
「いのちの車窓から」は、KADOKAWAの雑誌『ダヴィンチ』で2014年から連載されていたエッセイシリーズで、単行本としては『いのちの車窓から』(2017)と『いのちの車窓から2』(2024)の二冊が刊行され、シリーズ全体で60万部を突破するヒット作となっている。
まず確認しておきたいのは、この連載タイトルが持っている含意である。『いのちの車窓から』の冒頭では、重度の近視だが度の強いレンズをつけると具合が悪くなるので、「遠くがぼやける軽めのレンズを付けている」と述べた上で、彼はこう語っている。
そのせいか、だいたい何が起きていても、何となく窓の内側に自分がいる気がする。内側から外側を眺め、ただ見ている感覚。『パシフィック・リム』のロボットのように頭部のコックピットにもう一人自分がいて、自分を操ったり、勝手に動く自分の手足や股間を見たりしている、よそ者の気分。[4]
『パシフィック・リム』(2013)は、モンスターに対抗する巨大ロボットの映画だ。ロボットの巨大さもあってパイロットの顔を外から確認することはできない。外からは中の様子が窺い知りがたいにもかかわらず、中にいるパイロットは、コックピットの窓からぼんやり見える範囲で外の様子を観察することができる。
何かガラスのようなものを介して世界と関わっている。世界との接触は常に間接的である。私がそれに直接触れているわけではない。ここにあるのは、いくらか離人症的な感覚である。本人が自覚しているかどうかはさておき、高いストレスを常態的に経験しているからこそ、自分がそのストレスを直接受け止めなくて済むように、ゲームのプレイヤーがキャラクターと自分を区別しながらモニターを眺めるときのように、分離的に状況を見つめているわけだ。
実際、慢性的なストレスが原因の一つと思われる、くも膜下出血を経験し、「2013年の夏に開頭手術をして以来、その気分はさらに強ま」っていると語られている[5]。とはいえ、病理的側面を強調したいわけではないので、こうした離人的感覚で世界と向き合う状態を、連載タイトルから借りて〈車窓からの視点〉と呼んでおこう。
〈車窓からの視点〉は、星野の趣味であるゲームのプレイスタイルにも表れている。『メタルギアソリッドV ファントムペイン』(2015)を遊ぶ際に、表立って敵を倒して攻略することもできるが、徹底して「かくれんぼ」プレイを貫くのだという。
とにかく隠れているのが好きだ。一つの敵拠点を攻める時、まずは敷地の端にいる敵兵から隠れながらゆっくりと時間をかけて近づき、後ろから羽交い絞めにし、ナイフで脅しながら他の敵兵に見つからない場所まで移動させ、そこで尋問し、資源アイテムや捕虜、機密文書などのターゲットのありかを吐かせ、ついでに他の兵士のいる場所も喋らせてから気絶させ、フルトン回収する。[6]
隠れているため、自分は完全な視界を保ってはいない。しかし、こちらが向こうを見ていることを知らないまま、こちらは向こうを見つめることができる。見え方に一方向性があるわけだ。
〈社会と自己の解離〉を抱えたテクスト
家族との思い出を振り返るときにも、同様の一方向的な視点が見いだせる。
寝たふりをするのが好きだった。親同士が自分の子守から少し解放され、話し出す会話をこっそり聞くのが好きだった。
小学校低学年、元気な子供ではあったが、夜遊びも深い時間になると少し眠くなり目を閉じる。すると「あ、寝た」と両親は自分を気にせず話を始めるのだ。[7]
この体験は、「透明人間のように、こちらを認識されず」に、「子供にはわからない会話をこっそりと聞く」ことだとも言い換えられている。やはり、向こうはこちらが知覚していることを知らないが、自分の方も完全に状況を理解できるわけではないという構図である。
「メタルギアソリッドV」をプレイするとき、星野源は、困って惑う敵兵たちを、「かわいそうだがとてもかわい」いと思いつつ、「熱いコーヒーを淹れ、それを飲みながらニコニコ眺めるという、とても趣味の悪い楽しみ方」をしてしまう。そうした楽しみ方の背景を、子供時代のかくれんぼに見出している。
もちろんもっと素早い方法や効率的な方法はいくらでもあるのだろうけど、息を潜めてゆっくり時間をかけ、見つからないように行動するこの遊び方は、子供の頃初めてやったかくれんぼと同じようなドキドキと楽しさがある。そんな時間を過ごすのがとても好きだ。[8]
寝たふりやかくれんぼのような形で元々持っていた〈車窓からの視点〉から眺める性向[9]が、大人になってから高ストレス環境で先鋭化し、「よそ者の気分」を味わうほどの離人的な感覚をもたらしたのだと思われる。
〈車窓からの視点〉のありようを観察すると、「いい子」の心と言葉が分裂しているメンタリティと構造的に似ていることに気づかされる。キャラクターやロボット、列車として表象される世界との界面は、自分そのものではないが、そうであるがゆえに、周囲と滞りなく関わることができる。しかし、自分の心は、そうした世界との円滑な交流(社交のレベル)から分離されていて、窓から外界を窺うように内側に潜んでいる。このような感覚は、明らかに〈社会と自己の解離〉の一つのあり方であり、言葉と心、会話向きの趣味と個人的な趣味を分裂させる「いい子」のメンタリティである。要するに、『いのちの車窓から』は、〈社会と自己の解離〉を抱えながら、それを越えていくテクストだからこそ、読み解く意味があるわけだ。
誰かの心と「繋がる」エモさ
だが、『いのちの車窓から』を読んでいると、単に分離された対象をプレイヤー(ないしパイロット、列車の乗客)の目線で、隠れて楽しむというだけで終わらない描き方がなされていることもわかる。〈車窓からの視点〉で眺めているはずの星野は、ときに分離している状況とつながってしまうのである。デンマークのPCゲーム『INSIDE』(2016)と『LIMBO』(2017)という連作に言及した箇所が参考になる。 次の文章は、『LIMBO』に言及したものである。
ある場所に捕らえられた少年は、そこを命からがら抜け出し、自分がいる場所がどのようなものなのか知る。追っ手に襲われながらゲームを進めるにつれて、主人公の少年が置かれている状況と実際にプレイしている自分がリンクしていく。[10]
主人公(キャラクター)と星野源(プレイヤー)は別の存在であり、切り取られた限定的な画角で——『INSIDE』と『LIMBO』は横スクロールという非常に限定的な視野しか与えられていない——眺めている。それにもかかわらず、何かのきっかけで「主人公」と「自分の心」が「繋がった」。
これと同じように、重ならないはずのものが重なることのエモさを星野は度々取り上げている。たとえば、マイケル・ジャクソンへの思いを忍ばせた歌詞を一部入れた『SUN』を作曲し、それを音楽番組で歌ったときのこと。
ミュージックステーションに出演したとき、「月の上も」と歌いながら、ふと思い付いてムーンウォークをした。マイケルをブラウン管の中に観た日と、今が繋がった気がした。[11]
『SUN』の中には、「月の上も」という言葉が出てくる。このフレーズと、音楽番組で即興で行った「ムーン」ウォークの重なりに、彼は自分で驚いている。
もう一例挙げておこう。コサキン(小堺一機と関根勤)のテレビ番組と、自分が新たに始めたレギュラー番組の重なりである。星野は、「人を馬鹿にせず自分が馬鹿になること、競争をしたってつまらないということ」、「カッコつけたりごまかしたりせず、自分に正直に、まっすぐ素直であれということ」をコサキンの番組から受け取ったという。
もちろんそんなことをお二人が言葉にしたわけではなく、ただ、その姿勢から勝手にそう受け取っただけだ。すぐには無理かもしれないけど、いつかそういう人間になりたいと思った。
20年後、AMラジオで深夜のレギュラー番組を持った。
『星野源のオールナイトニッポン』。マイクの向こう側にいるのは、ツイッターもしない、誰にも感想を言わない、ただ聴いている、あの時の自分のような、そこのあなただ。[12]
かつては、一視聴者として限られた画角からブラウン管越しに眺めていた——〈車窓からの視点〉で見ていた——のだが、自分がそちらの側に立ったとき、心揺さぶられる重なりが生まれる。
以上から、『いのちの車窓から』には、二つの関連するパターンが生じていることがわかる。〈車窓からの視点〉で事態を隠れて眺めること。そして、通常見ている私は車窓の向こうと解離したまま事態が進行するのだが、ふとしたきっかけで「自分の心」が向こう側と「繋がる」ことがある。普段は〈社会と自己の解離〉を経験しているからこそ、時折生じる「繋がり」「重なり」の貴重さに心揺さぶられる。〈車窓からの視点〉と、つながるエモさというパターンが継起する形で『いのちの車窓から』は織りなされているのだ。
しかし、これは〈社会と自己の解離〉を治癒するものではない。その傷を慰めるものではあるが、時折生じる他者の心との「繋がり」や「重なり」が偶然的で得難いものとして描かれていることからわかるように、窓の内側に潜んでいる自分の心は、単にその瞬間を待ち構えるしかない。だが、そうだとしても、誰かの心と自分の心が重なったときの興奮や驚きは、解離の不安を一時的に忘れさせることができるのだ。
後編では、〈車窓からの視点〉と、心がつながるエモさで、自分の機嫌をとるアプローチが機能しなくなる経緯、そして、その状況をどう脱するのかを『いのちの車窓から』に即して確認することにしたい。
[1] 「『自己参照的情動テスト』は、自分の自己概念にどんなものが含まれているかをいくらか知ることのできる興味深い手段だ。誇らしさ、立腹、羞恥、罪悪感は、自己参照的な情動である。つまり、私たちがこれらの情動を抱くのは、自分のした何か、あるいは自分について言われたことや自分に対してされたことに反応したときだけだ。」それにもかかわらず、ある種のモノや事柄が褒められたりけなされたりしたとき、私たちは「誇らしさ、立腹、羞恥、罪悪感」を抱く。それは、そうしたものが(無意識のうちに)アイデンティティの一部になっているからだ。アーロン・アフーヴィア『人はなぜ物を愛するのか』田沢恭子訳, 白揚社, p.130
[2] だが、みなが同じ話題を話し始めれば飽きるというもの。エンタメ作品はあっという間に消費し尽くされ、次のエンタメ作品が社交のネタとして求められる。そうして作品の「消費速度」は上がっていく。
[3] 『いのちの車窓から』シリーズについては、次の動画で三宅香帆、吉田大助らと対話している。【星野源の最新エッセイ集】書評家・哲学者が語る『いのちの車窓から 2』座談会【累計58万部突破】 https://youtu.be/axEKDRb-6uw?si=_RHETe0wxY3fGqvF
[4] 星野源『いのちの車窓から』角川文庫, p.8
[5] 同書, p.8
[6] 同書, pp.127-128 フルトン回収とは、気球で兵士などを飛ばし、上空にいる航空機に回収させるシステムのこと。
[7] 同書, p.80
[8] 同書, p.129
[9] 「食卓」というエッセイの冒頭に記されているエピソードは、〈車窓からの視点〉を獲得した背景であるように見える。「友達を見ると駆け寄って抱きついたり、体当たりしたりしてしまう。人との距離がとても近い子供だった。そうしていくうちに『こいつうぜえ』と友達は減っていった。幼稚園の頃はまだ良かったが、小学2年生、3年生と進級し、要求される社会性の精度が増すにつれ、学校という場に馴染むことができなくなっていった。だったらとにかく嫌われない様に、ウザがられない様に黙り、静かになった。だんだんと内気になり、元気をなくしていった。そしてその様子からさらに友達はいなくなり、コミュニケーションは苦手になり、順調に暗い人間になっていった。」星野源『いのちの車窓から2』KADOKAWA, pp.143-144
[10] 星野源『いのちの車窓から』角川文庫, p.165
[11] 同書, p.62
[12] 同書, pp.141-142
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1990年生まれ。京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。哲学だけでなく、社会学や文学、デザイン、ゲームなど多領域にわたって研究を行う。
著書に『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)、『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)がある。共著に『読書会の教室』(晶文社)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)、『〈京大発〉専門分野の越え方』(ナカニシヤ出版)などがある。