美意識と感性を磨く アートな習慣

この連載について

日常的にホンモノに触れる生活が、美意識と感性を磨き上げる。世界中の美術品に接してきたプロの目利きが提案する、楽しく気軽なアート生活のススメ。

STEP4

アートな街の歩き方

2024年9月6日掲載

さて今回は、皆さんがもし「アート習慣」を身につけたいならば是非トライして頂きたい、私も実践している「アートな街の歩き方」をお話ししたいと思います。

アートな街歩き① 建築さんぽ

散歩をしていると、それほど有名でなくとも、アート感満載の建築物が目に留まる事が良くあります。ここではそんな例を幾つか挙げてみましょう。

私は東京下町の神田近辺に住んでいますが、会食のない夜や、海外出張から帰国後の時差ボケの朝に、良く近所を小一時間散歩します。JR御茶ノ水駅界隈も散歩コースに入っているのですが、そのコース設定には理由があって、それは興味深い「建築」をウォッチ出来るからなのです。

例えばニコライ堂。聖橋のすぐ側にあるこのロシア正教の教会の正式名称は、「日本ハリストス正教教団 東京復活大聖堂」です。ジョサイア・コンドルによって実質設計されたこの教会は1891年に竣工されましたが、関東大震災で倒壊、1929年に復興したものが現在残っている建築です。東京の街並みから突如現れる、建築面積800平米、緑のドーム屋根を持つビザンティン様式の教会の姿を散歩中に見ると、思わず息を呑まずにはいられません。

また駿河台下の交差点から始まる「すずらん通り」には、前回述べた美術書専門の古書店や額縁屋さん、行列にできる美味しい洋食屋や文豪も通った天麩羅屋などが並びますが、その中で一際目立つ古いビルが「文房堂」です。明治20(1887)創業の老舗画材店である文房堂の建築は、手塚亀太郎による鉄筋コンクリート建造物で、1922年に竣工。1990年に建て替えがありましたが、現在でもオリジナルのファサードが残っていて、アーチ窓やスクラッチタイル、壁面の装飾彫刻など、何とも味のある建物です。

今度は西に向かい、九段の方に行ってみましょう。靖国通りを九段坂上に向かって登り、靖国神社の手前を右に曲がると「九段ハウス」があります。この九段ハウスは1927年に建築された、長岡出身の財界人山口萬吉氏の旧邸で、スパニッシュ様式の洋館建ての素晴らしい建物です。ここでは多くのアートイベントが開催されていますので、外から観るだけでなく是非一度は中にも訪れて頂きたい場所です。またもう少し歩くと、もう一件スペイン風の素晴らしい建築物が現れます…それは「駐日フィリピン大使館公邸」。こちらは1935年横河時介によって、元は安田財閥の安田岩次郎も住まいとして建てられました。岩次郎の姪の彼女オノ・ヨーコも幼少期をここで過ごしたと言われている、色々な意味で歴史的な建築です。

また最近では麻布台ヒルズなどに行った時にブラブラする飯倉の交差点には、私の大好きな「ノアビル」があります。この黒い円筒形の異様なビルは、建築家白井晟一によるもので、煉瓦や御影石が使われ、硫酸銅によって黒く処理された外観は、アーチ型の入口や縦長の窓の造形も美しく近未来感満載です。最近その近所にできた麻布台ヒルズとは一線を画する、個性豊かな一見の価値のある建物です。

この様に、建築物は街を歩いて簡単に触れられるアートなのです。そして「建築散歩」は、歩きながら自分がアートを発見するという、稀な機会でもあるのです。

アートな街歩き② パブリック・アート

建築といえば、私が勤めるクリスティーズのジャパン・オフィスは、丸の内の「明治生命館」にあります。上に述べた「ニコライ堂」の改修工事をした岡田信一郎によって設計されたこの明治生命館は、1934年に竣工した古典様式の重厚な建築物で、1945年から56年までの間はアメリカ空軍総司令部として接収され、連合軍の対日理事会が開催された事から、マッカーサーも何度も来ている歴史的建造物です。さて、このビルに空き部屋が出た時にクリスティーズが入った大きな理由の一つは、皇居が見える最高の立地もさる事ながら、この明治生命館が1997年に昭和の建築物として初めて国の重要文化財に指定されたからです。重要文化財の中で仕事が、しかもアートの仕事ができるなんて、至福過ぎます…。

そしてこの明治生命館には、最近三菱財閥を興した岩崎家の美術品を収蔵する「静嘉堂文庫美術館」が一階にオープンし、隣の「三菱一号館美術館」、少し先の「出光美術館」と共に、丸の内の美術館群としてアート好きの来訪を増やしています。ですが、丸の内にあるのは美術館だけではありません…散歩ついでに是非行って観て頂きたいのが、「丸の内仲通り」に点在する「パブリック・アート」です。

「丸の内仲通り」はいつもビジネスマンで溢れ、活気のある通りですが、この通りには国内外の近現代作家の彫刻作品が点在して、道ゆく人の目を楽しませています。このパブリック・アートは正式に「丸の内STREET GALLERY」と呼ばれ、三菱地所株式会社と公益財団法人彫刻の森芸術文化財団が、芸術的街づくりを目指して共同運営しているものです。現在19点が展示されていますが、作品展示はパーマネント(常設)ではなく、数年に一度替えられるので、散歩で見慣れる悦びのみならず、ある日行ってみたら作品が変わっているといった驚きもある、素晴らしいパブリック・アートだと思います。

その他にも東京には多くのパブリック・アートがありますが、幾つかオススメをさせて頂く事としましょう。例えば貴方が銀座界隈に行って人混みに疲れたら、ちょっと足を休める為に、数寄屋橋交差点のすぐ近くにある「中央区立数寄屋橋公園」に立ち寄ってみて下さい。そこには、あの「太陽の塔」で有名な爆発する芸術家、岡本太郎作の「若い時計台」が立っています。顔の部分が時計になっているこの8m高の作品は、1966年に製作され、何度かの修復を経て、未だ銀座の街に君臨しています。夜はライトアップもされているので、夜訪れるのも一興です。

また六本木ヒルズに行った事のある方なら、一度は目にした事のある筈なのが、フランス人アーティスト、ルイーズ・ブルジョワの大作「ママン」です。この10mになんなんとする巨大な蜘蛛の彫刻は、織物屋だった作家の「母親(ママン)」の強さを暗示していると言われている、インパクト満点の作品です。因みにこの六本木ヒルズにある森美術館では、2024年9月25日〜2025年1月19日まで、「ルイーズ・ブルジョワ展 地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」が開催されます。この巨大彫刻の作家の仕事の全貌を見る事の出来るまたとないチャンスだと思いますので、一挙に観ては如何でしょうか。

もう一つ、今度はパブリック・アートを「作家」でオススメしましょう。現代美術家杉本博司氏の作品です。杉本氏は元来写真家ですが、写真家として生活が困難だった若い頃は、ニューヨークで日本古美術店を開き、当時ニューヨークで活躍していたドナルド・ジャッドやダン・フレイヴィンといった現代美術家や、美術館関係者を顧客に持って日本の民藝や仏教美術などを売っていました。そんな特異な経歴を持つ杉本氏は、今ではインスタレーション、彫刻や建築、書や舞台芸術まで幅広い活動をしている、世界的に評価の高いマルチ・アーティストです。

その杉本氏の作品は、神奈川県の根府川にある彼の芸術の集大成とも言える施設「江之浦測候所」でも観る事が出来ますが、都心では美術館以外でも観る事が可能なのです。先ずは大手町に行き、「大手町プレイス」を訪ねてみましょう。その1階オフィス・エントランスに設置された高さ12mの巨大彫刻が、三次関数の数式を立体表現した数理模型シリーズの「Sun Dial」です。この作品はそのタイトル通り「日時計」の役割を持ち、春分・秋分の昼が等分された南中時を影を通じて感じる事が出来ます。因みに大手町では、私も大好きな作家、レアンドロ・エルリッヒの「Cloud」も「飯野ビルディング」で鑑賞できるので、是非訪れてみて下さい。

では今度は、表参道に杉本作品を観に行ってみましょう。表参道にある複合商業施設「オーク表参道」のエントランスには、この数理模型が今度は逆さ吊りされ、「究竟頂(くっきょうちょう)」と名付けられたアートとして天井から貴方を見下ろします。この「オーク表参道」には、有名料亭「金田中」のカフェスタイルのお店「茶洒 金田中」がありますが、この店の内装も杉本氏によるもので、特にその椅子のデザインも数理模型を元にしたものなので、一見、いや一座の価値ありです。これらを手掛けた杉本氏と建築家榊田倫之氏による建築事務所、「新素材研究所」の仕事は、例えば日本料理の名店「かんだ」や「清田 はなれ」などの飲食店、「伊勢丹サローネ」や「銀座和光」などの販売店舗、MOA美術館やIZU PHOTO MUSEUMなどの美術館でも観る事が出来ます。

最後にもう一つ付け加えさせて貰えば、上で述べた明治生命館にあるクリスティーズジャパンのオフィスの内装デザインも、「新素研」による物なのです。アート・ラヴァーである私が、「重文建築内にある、世界的現代美術家によるミニマル・デザインのオフィスで働く悦び」を噛み締めているのを、皆さんにも想像して頂けるのではないでしょうか?

アートな街歩き③ 画廊・骨董屋さんに入ってみよう!

街を歩いていると、ふと画廊の前を通る事があります。そんな時、ウィンドウの中の絵や画廊の中に展示されている作品を眺め、何となく気に入ったとしても、中々画廊にドアを開けて中に入る勇気は、現在プロのアート・パーソンとして生きているこの私にも、若い頃はなかったものです。

私がこの仕事を始めた頃、例えば銀座の並木通りの路面店の一流画廊や、日本橋や京橋の老舗古美術店の門構えはとても重厚で、閉店中に閉じられた鉄門や、見るからに押すと重そうなドア、たまに開くそのドアの隙間から見える重厚な店内と怖そうな店員さん…どれを取っても「素人は入って来るな」感満載で、仕事でそんな店を訪れなければならなかった新人の私などは、店の前で震え上がっていました。

ですが、敢えて言わせてください…「叩けよ、さらば開かれん」です!もちろん、最初から老舗画廊に行く必要はありません。先ずは散歩の途中で街のギャラリーを覗き、面白そうな作品があったら、迷わずドアを開けてみて下さい。そして作品をじっくり観察し、質問があったら遠慮なく店員さんに声を掛けてみましょう。これを繰り返す内に、段々とギャラリーに身体が慣れて来て、最初はギャラリー空間に自分の身の置き場がないと思った人でも「場慣れ」して来る筈です。

この散歩中の思いがけない「ギャラリー体験」は、貴方に色々な事を運んで来るでしょう。先ずは、アート関係の知り合いが増えます。もちろん世の中にはどの業界にも悪徳業者も存在するので、注意をするに越した事はありませんが、ギャラリストと話をするのは大概は楽しい物で、彼らからアートに関する色々な情報もゲット出来る筈です。また私が最も楽しく思うのは、自分の知らないアーティストの作品を観る事です。こんな作品を作る作家が居たのか!という驚きは、30年以上業界にいる私ですら感じる悦びですので、「アート習慣」初心者の方なら尚更でしょう。

こうして「フラッと入る習慣」が出来ると、骨董店に立ち寄るのも我慢できなくなり、私などは外から見て、時に怪しげで時に愛おしく見える古物たちに、「おいで、おいで」と誘われて仕舞います。私が日頃扱っている商品は、美術館・博物館クラスのものが多いのですが、自分事となると値段も何も関係なくなり、珍しい物などがあると思わず手に取ってみたくなります。また骨董店のご主人と話すのも、楽しいものです。

この様に街を歩くだけでも、色々なアートに出会う事が出来るのですが、肝要なのは「アートを感じる意識」を持ち、アンテナを張る事です。そうすれば貴方も、散歩中に街にある多様なアートに気付き、興味を持ち、好きになり、もっと知りたいという楽しみを覚える事と思います。

さぁ「叩けよ、さらば開かれん」を胸に、アートを探しに街に出掛けましょう!

著者プロフィール
山口桂

1963年東京都生まれ。世界最古の美術品オークションハウス「クリスティーズ」の日本支社、クリスティーズジャパン代表取締役社長。92年クリスティーズに入社、19年間ニューヨーク等で日本・東洋美術のスペシャリストとして活動。伝運慶の仏像のセール、伊藤若冲の作品で知られるジョー・プライス・コレクションの出光美術館へのプライベートセール等で実績を残す。著書に『美意識の値段』『死ぬまでに知っておきたい日本美術』(集英社新書)、『美意識を磨く』(平凡社新書)、『若冲のひみつ』(PHP新書)。