美意識と感性を磨く アートな習慣

この連載について

日常的にホンモノに触れる生活が、美意識と感性を磨き上げる。世界中の美術品に接してきたプロの目利きが提案する、楽しく気軽なアート生活のススメ。

STEP1

アートとは鏡であり、窓である

2024年4月25日掲載

突然ですが、皆さんは「アート」と聞いて、何を思い浮かべますか?

美術史、難解な絵画技法、作品の意義や価値……そうしたものより、まず思いつくのは「自分が知っている作品」ではないでしょうか。

レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」や、クロード・モネの「睡蓮」、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」、また作品名は知らずとも、ピカソの絵や写楽の版画、草間彌生の「カボチャ」や奈良美智の「女の子」などを頭に思い浮かべる人も多いでしょう。

絵画以外にも、彫刻や焼物、埴輪や土偶、仏像や刀剣、書やポスターまで、人が「アート」と思うものはさまざまです。時には、切手やお茶漬け海苔の付録のカード、友人から貰った絵葉書、あるいは映画、雑誌や書籍で目にして心に残っている作品……そこまでもアートと呼ぶとすれば、「アート」とは、そもそもその人にとって非常にプライヴェートで、稀少な体験に基づくものだと言えるかもしれません。

昨今、アートに関しての「ビジネス書」が数多く出版されています。多くは「アート思考」とか「アート・シンキング」といった言葉がタイトルについた、ビジネス啓蒙本や自己啓発本の類ですが、本連載はそういったものではありません。先に述べたような「プライヴェートで、稀少な体験としてのアート」を、読者の皆さんが机上の空論ではなく、実際に「自分事」として体験していただくための指南書のようなものです。

その〝体験〟とは、アート作品を実際に「観て」、「触れ」、時には「買い」、「一緒に暮らす」ことによって、アートを自分の生活・人生の中に取り込み、消化して、美意識を高め、その歓びを知ることです。その過程においては、美術史や技法、作家の人生や思想に興味が湧くこともあると思いますが、まずは先入観や固定観念を捨てて、子どもの頃の心でアート作品と対峙してほしいと思います。なぜなら、そこからアートを「自分事」とすることが始まるからです。自分がどんなアートを好きか、どんなアートにドキドキするか、どんなアーティストの人生や思想に共感するか、そしてどんなアートと共に人生を送りたいか、その道のりの第一歩になるからです。

アートは自分をうつす鏡                                               

ここで少し自己紹介をしたいと思います。私は美術品のオークション会社「クリスティーズ」に、30年以上勤めています。クリスティーズは1766年にジェームズ・クリスティーという人が英国で創業した世界最古の美術品競売会社で、現在世界46ヵ国にオフィスを構え、10都市・年間約350回のオークションを開催しています。

オークションと聞くと、ニュースで「ピカソの絵が50億円で売れた」とか、「女優が持っていたダイヤモンドが5億円で売れた」など、高額商品が売却された時だけ目にするかもしれません。しかし、我々が日々売っている1点の作品の単価は、実は500ドルから1億ドルを超えるものまで、価格帯は多岐にわたります。

さらに、80を超える分野を扱っています。モネやピカソなどの印象派・近代絵画、バスキアや草間彌生など現代美術、日本・中国・韓国・東南アジアの美術、レンブラントなどの古典絵画、写真作品や版画作品などは想像がつくと思います。しかし、例えば宝石やハンドバッグ、時計やワインを売る「Luxury(ラグジュアリー)」、グーテンベルク聖書などの稀覯本やナポレオンの手紙などを扱う「Books and Munuscript」、恐竜の化石や月の石、アップル・コンピューター第1号機、人類史上初の顕微鏡などを扱う「Scientific」、そしてポップ・映画スター達のサイン入り写真や衣装などの「Memorabilia」といった部門などは、あまり知られていないのではないでしょうか。

多分野を扱うオークション・ハウスですが、その顧客は大きく3つに分けられます。

まずは美術館や博物館。世界的に有名なメトロポリタン美術館やボストン美術館をはじめとする海外の美術館は、オークションを通じて作品の購入・売却を頻繁に行っていますし、日本のいくつかの私立美術館も購入をしています。次に画商や古美術商、宝石商などに代表される「ディーラー」。彼らは自身の店のストックのため、あるいは顧客からの依頼によって、オークションを通じて作品を売買します。

そして最も重要、かつ興味深い第3の顧客が「コレクター」です。

コレクターには企業単位でのコレクターもいますが、私が最も会う回数も多いのが個人コレクターです。それはそれは個性的な人が多いのですが、何十年間もこのような人たちに会ってきて、一つ分かったことがあります。

それは「アートは自分を映す鏡である」ということです。

ここで、自分が好きだ、観てみたい、触れてみたい、欲しい、部屋の片隅に置いてみたい、と思うアートを思い浮かべてみて下さい。

当然、アートを手に入れる前のあなたの部屋には、「あなた好み」の色やデザイン、大きさの家具が置かれているはずです。ミニマルやモノトーンな部屋が好きな人、暖色系の家具を揃えた暖かい雰囲気が好きな人、大きな窓からの陽当たりや、物が適度に散らばったコージーな感じが必要な人など、「自分好み」の部屋に置くアートは、当然「自分好み」でなくてはなりません。

パートナーのようにアートと暮らす

私は20年近く海外(ロンドンとニューヨーク)に住んでいました。当然コロナ禍以前の話ですが、週末などは日本にいた時よりもかなり頻繁に、顧客のみならず友人や同僚の家にお邪魔していました。それは海外に、今では日本でもかなり少なくなってしまった「人を家に呼ぶ」文化があったからですが、そんな時には、必ず何らかのアートが目に留まりました。

それは時には友人が描いた絵だったり、どこかの美術館の展覧会ポスター、蚤の市で買った焼物だったりしましたが、金額や作家にかかわらず、彼らが大切にしていたのは、自分の好きな作品と暮らすことでした。

そのディスプレイ(飾り方)は時にさり気なく、時にはアイディアにあふれたものでした。禅語の掛軸を本棚と本棚の間の空間に掛け、その下に台を置いて花を活けている人、浮世絵版画をあえて現代的なミニマルな額装をして飾る人、抽象現代美術の下に白磁の壺を置いて楽しむ人……アートの国籍やジャンル、時代にとらわれずにセンスよく合わせて楽しむ様子は、アート・コレクターだけではなく、一般の人々の生活にもよく見られる風景でした。それはさながら「共に過ごすパートナーとしてのアート」とでも呼べるものでした。

もしあなたが賃貸住宅に住んでいたら、家具や部屋の間取り、色合いなどは簡単には変えられないかもしれませんが、もし絵や版画を1つ2つ持っていたなら、それを掛けることによって部屋の雰囲気が一変し、落ち込んだ気分が明るくなったり、気分が落ち着いたりするかもしれません。また或るアートとの出逢いによって、逆にその作品に合わせて、部屋の雰囲気を変えたくなることもあるかもしれません。その意味でアートは、あなたの心や好みを映す「鏡」となり得るのです。

アートは、あなたを知らない世界へ誘う「窓」にもなります。例えば、ある小さな壺を骨董市で見つけ、家に持ち帰る……すると、この焼物の産地はどこなのか、いつの時代のものなのか、またどんな花が似合うのか考えはじめるでしょう。今まで自分が知らなかった、興味がなかった世界がアートを通して見え始め、自分の世界が広がっていくのを実感できると思います。

日常に美を見出してきた日本人

海外はパートナーのようにアートと暮らしている、などと聞くと、日本にはそんな習慣はないように思えるかもしれませんが、そんなことはありません。

むしろ、歴史的に見ても、日本人はあまりにも自然に、アートと共に生活してきたと言えます。それは日本の古美術をときに「道具」、古美術商を「道具商」、また茶碗や茶入を今でも「お茶道具」と呼ぶように、日本の美術品の大概が元来「道具」として使用されてきたことに因ります。

日本美術と一口に言っても、絵画・彫刻・漆器・陶磁器・版画・金工品など多岐に分かれます。その中でも茶道具は言わずもがなですが、例えば屏風は、大きな部屋の間仕切りや風除けとして、硯箱や印籠、文机などの漆器や焼物は日々の生活で使われる物ですし、武具甲冑も武家の日常で使用されてきた物です。

驚くべきは、日本人は、そのような日常で使用する物に、機能のみならず美しいデザインを施し、愛でて後世に残してきたことです。それは今では「用の美」として語られますが、日本人はいつの時代でも日常生活の中に美を携えて生きてきました。それがあまりに自然であったがゆえに、現代に生きる我々は改めて「アート」と聞くと、かえって何となく恥ずかしいような、贅沢なような気がしてしまうのかもしれません。

日本美術の特性の一つに、「アジ(味)」というものがあります。「あの俳優の演技にはアジがある」という時と同じ意味合いのもので、「味わい深い」とか「趣がある」といった意味なのですが、日本美術品に対して使う場合には、ある種の「経年劣化」を指す場合が多いのです。

昔、骨董屋さんに聞いた面白い話があります。その方はもう何十年も有名古美術商に勤めている有名な目利きなのですが、まだ入店したての丁稚時代、番頭さんに毎日の店の掃除をやるように申し渡されました。元来生真面目な気質のその方は、掃除番のお役目の初日、朝早く店に来ると店の隅から隅までを掃き清め、ショウケースも階段の手摺りもピカピカに磨き上げました。しばらくして番頭さんが店に出てくると、その方は「どうです?」と誇らしげに番頭さんに掃除した店内を見せました。

すると番頭さんは、彼を褒めるどころか、「お前、何やってんだ!」と怒鳴りつけたのです。その理由は、真鍮で出来た階段の手摺りでした。番頭さんは「磨き過ぎて、アジが失くなっちまったじゃないか!」と憤懣やり方ない状態だったそうです。

この話のポイントは、新品や綺麗にしすぎた物にはない〝綺麗な使用感〟こそが「アジ」であり、その「アジ」は残さねばならない、ということです。この「使用感」は、普通は経年劣化と呼ばれます。ひび割れの出た漆器やヒビや欠けのある陶磁器、薄汚れた掛軸の経年劣化などですが、美しい金継ぎによる表面の「景色」や、根来塗りの赤が剥がれて黒の下地が見えてくるなど、それらに「アジ」があれば、時に完品を超える魅力を放ちます。

このことからも分かるように、日本人は日常生活に使う物、時には経年劣化した物にさえ「美」を見出してきたのです。

以上から、歴史的に我々日本人が日常生活に美を見出して来たということ、またいかにアートと暮らす習慣があったかを再認識できるのではないでしょうか。

こうしたことをこの連載では皆さんにお伝えして行こうと思っています。

著者プロフィール
山口桂

1963年東京都生まれ。世界最古の美術品オークションハウス「クリスティーズ」の日本支社、クリスティーズジャパン代表取締役社長。92年クリスティーズに入社、19年間ニューヨーク等で日本・東洋美術のスペシャリストとして活動。伝運慶の仏像のセール、伊藤若冲の作品で知られるジョー・プライス・コレクションの出光美術館へのプライベートセール等で実績を残す。著書に『美意識の値段』『死ぬまでに知っておきたい日本美術』(集英社新書)、『美意識を磨く』(平凡社新書)、『若冲のひみつ』(PHP新書)。