日常的にホンモノに触れる生活が、美意識と感性を磨き上げる。世界中の美術品に接してきたプロの目利きが提案する、楽しく気軽なアート生活のススメ。
アートは美術館だけじゃない
日本の伝統芸能にトライ!
前回は「映画とアート」についてお話ししましたが、今回は「美意識を高める『他の芸術』」について書きたいと思います。美術と他の分野の芸術は、言うまでもなく密接な関係にありますが、ここでは先ずは「舞台芸術」をお勧めしたい。それは直接的な「舞台美術」や「衣裳」の分野のみならず、その舞台芸術のコンセプトそのものからも皆さんの「美意識」を育てるモノが多く含まれているからです。
さて皆さんが舞台芸術と聞いて先ず頭に浮かぶのは、何でしょうか?「バレエ」「演劇」「オペラ」「ダンス」など世界の舞台芸術は多々ありますが、今回は日本で日常的に観る事の出来る伝統芸能、特に「歌舞伎」と「能楽」を中心にお話をしたいと思います。
世界のアートにつながる「歌舞伎」
皆さんの中で歌舞伎を実際に観た事のある方は、どれ位いらっしゃるでしょうか? 歌舞伎の公演は、東京の歌舞伎座や新橋演舞場、浅草公会堂、名古屋の御園座、京都南座、大阪松竹座、博多の博多座などで開催されていますが、その他の地方でも舞踊公演等があったりします。また大都市圏以外で私が是非お勧めしたいのが、4月に香川県の琴平町で開催される「四国こんぴら歌舞伎大芝居」で、これは江戸時代の雰囲気そのままの歌舞伎を鑑賞できるとても稀な機会です。人生で一度は観たい舞台です。
歌舞伎の演目には、古くは古代神話物から、『源氏物語』や『平家物語』の古典文学から派生した作品、後で述べる能や狂言、人形浄瑠璃(文楽)など他の舞台芸術から題材を取ったもの、或いは「忠臣蔵」や「心中物」等、江戸時代に実際に起きた事件を基に作られた芝居、明治時代以降の近代日本を舞台にしたもの、そして最近では『ワンピース』や『鬼滅の刃』、ジブリ作品等のアニメや漫画を原作としたものまで、年齢性別を問わず楽しめる作品に溢れています。
ではこの歌舞伎という舞台芸術で顕れる美意識は、我々日本人だけが理解できる日本伝統文化の中だけのものでしょうか?
例えば今我々が眼にする「市松紋様」は、佐野川市松という役者の名から来ていますし、他にも「十八番」「御曹司」「修羅場」「花道」など、今の社会で普通に使われる言葉をあげれば枚挙に暇が有りません。ですが、歌舞伎は日本だけでなく、世界の人々を虜にし、世界のアーティスト達に影響を与えて続けているのです。
豪華絢爛な衣装や隈取、舞踊、破天荒なストーリー、女形、見得、身体表現、「廻り舞台」などの舞台美術は、外国人を魅了し続けています。例えば「歌舞伎化粧」……2016年に惜しくも亡くなったロック界の大スター、デヴィッド・ボウイは坂東玉三郎の舞台を見て、自身で中性的なステージメイクを考えたそうですし、私世代の洋楽ファンなら忘れられないハード・ロック・バンド「KISS」のジーン・シモンズも、あの有名なフェイス・メイクは彼が歌舞伎ファンだったからとも言われています。
また世界映画史上名高い旧ソ連時代の名作、「戦艦ポチョムキン」の映画監督エイゼンシュタインも歌舞伎の「見得」に大きな影響を受け、あたかも「見得を切る」ような効果を映画に持ち込み、それを登場人物の顔の「クローズアップ」や、動作の「ストップ・モーション」として自身の映画に活用しました。
また歌舞伎の語源でもある「傾く(かぶく)」や、元来歌舞伎という演劇の持つ「当世風」(その当時流行りの風俗や事象を取り上げる)というコンセプトも、ある意味現代美術に深く繋がる部分であり、「伝統とは革新の連続である」という真理を知ることが出来ます。是非歌舞伎を観てみて下さい!
日本独自の芸術表現を学べる「能楽」
能楽は室町時代に神事から誕生した芸能ですが、狂言はともかく、能はその詞章などを含めて歌舞伎よりも難しく感じ、「食わず嫌い」な方も多いのではないでしょうか?
歌舞伎に比べると静かで、非常にゆっくりとしたテンポで進む舞台は、素晴らしい囃子の演奏と共に時に余りに心地良く、つい5分ほど居眠りをして仕舞っても、舞台の上は何一つ変わっていない事も良くあります……が、前もって演目の内容(大半は源氏物語や平家物語、中国の故事などから採られています)を少し予習して臨めば、十分に楽しめる舞台芸術だと思います。
能の舞台は歌舞伎に比べると極めてシンプルで、いわゆる「ミニマル」な舞台です。能舞台には正面に老松が描かれる「鏡板」と、六本の柱(目付・仕手・後見・笛・脇と各々名が付いています)のある舞台と揚げ幕、その内側にある能役者が面をつける部屋である「鏡の間」、その部屋と舞台とを繋ぐ「橋掛かり」、その橋掛かりの前に置かれる一の松から三の松、後は舞台と客席の間の白洲と梯子くらいしか有りません。演目によっては例えば「道成寺」では大きな鐘が、また「野宮」では鳥居が、「熊野」では物見車などが舞台に運ばれて設置されますが、それでも簡素な物です。そしてこの能舞台のミニマルさは、日本文化が持つ他国と異なる芸術表現を具現化するのに最適なのです。
例えばこの簡素さは、「水墨画」に近い物があります。日本の水墨画は西洋絵画、また他のアジアの国の絵画と比較しても「余白」が多く、日本の水墨画を見慣れない西洋人などは「手抜き」であるとか「描き忘れ」と判断する人もいる位ですが、勿論そうではなく、画面上の余白とその空間感で、描かれた絵をより引き立たせるテクニックなのです。
そしてこの事は、時に能の演出にも現れます。「葵上」という源氏物語を題材とした能では、何とタイトルとなっている光源氏の正妻である「葵上」本人役の役者は登場せず、この舞台のシテ(主人公)は愛人である六条御息所です。では葵上はこの能に全く登場しないのかと言えば、そうではありません……彼女は一枚の小袖として舞台に置かれるのです。この演出の意味は、葵上が無抵抗のまま六条御息所の怨霊に取り憑かれている様を表現している演出で、いわば「不在の在」を表しているのです。
この「不在の在」は、特に桃山〜江戸期の屏風絵に観られる画題の一つである「誰ヶ袖図」にも共通したコンセプトで、その画面には人物は一人も描かれず、ただ着物や印籠が掛かった衣桁のみが描かれています。この「誰ヶ袖」とは「誰の着物?」という意味ですが、衣桁に掛かる着物は男女が一夜を共にしたという事実の暗示で、その事実を際立たせるために、「敢えて」人物を描かないという「不在の在」の表現の典型的な手法です。能からは、こう言った日本独特の芸術表現も学ぶことが出来るのです。
キリストにショパンまで登場する「新作能」
能を観ることは、言うまでも無く日本古典文学や和歌などの勉強にもなりますが、能にも「新作能」という分野があり、ここでは歌舞伎同様に現代アート的な発想を知ることができます。
例を挙げれば、私はつい昨年(2024年)末に、「聖パウロの回心」という新作能を観ました。この能は国文学者の林望氏が台本を手掛けた、新約聖書「使徒言行録」第九章「パウロの回心」を能として劇化した作品で、演出は観世流二十六世宗家の観世清和師が担当しました。この能には通常の能の囃子の他に、何とオルガンが使われ、イエス・キリストも最後に登場します。これだけ聞くと荒唐無稽のように思われるかも知れませんが、私には本当にイエスが降臨したように感じられた程、完成度の高い舞台でした。
また嘗て「調律師〜ショパンの能」という舞台も観た事があります。この作品は、能の実技を学んだ元駐日ポーランド大使が書いた能で、節付と作舞は観世銕之丞師、シテは調律師とショパンの霊、ワキ(脇役)はショパンと親交のあった画家ドラクロワです。能舞台の下にはグランドピアノが置かれ、著名ピアニストによって、劇中夜想曲などのショパンの名曲が弾かれます。この舞台も観る前は「能としてどうなんだろう?」と懐疑の念を持っていましたが、演出の素晴らしさもあって、意外にも能の持つ静けさとショパンの曲がマッチし、幽玄の世界を作り出していました。
能はこう言った新作能において、他分野・他文化の芸術とも融合して新しい試みを行っていますが、私自身にも「これを『能』と呼んで良いのか?」という疑問がいつも湧いてきます。ですが、「『伝統』とは『革新』の連続である」以上、その試みを頭から否定するのではなく、私たち自身もそこから新しい美意識を学びとる事が肝要なのだと考えています。皆さんにも是非「能」を体験してみて欲しいと思います。
クラシック・コンサートは如何?
もう一つ、美意識を高める日常に不可欠なのが、音楽です。勿論ポップスやロック、私も大好きなソウル・ミュージックや演歌まで、人それぞれ好きな音楽があると思いますが、私がオススメしたいのは、何と言ってもクラシック・ミュージックです。
クラシック音楽の背景には基本的に歴史があり、その背景がとても勉強になりますし、楽器そのものにもストラディヴァリウスやグァルネリ等、オークションで売買されるような美術品的価値の高い物も有ります。また「ショパン能」では有りませんが、例えばショパンとドラクロワ、或いはドビュッシーと北斎に代表されるような、異芸術間のアーティストたちの直接的・間接的な交流や影響も、知れば知るほど面白いものです。
またクラシック音楽をCDや配信で聴くのも良いですが、やはりライヴをオススメしたい。それは、絵を画集で見るのが美術館で実物を観るのと全く違う行為であるのと同様にで、コンサート会場に身を運び、生音を聴く事が重要だと思うからです。真の美意識は「生の体験」から最も育つと私は信じていますし、生の楽器の音はその時の自分の心の状態に深く入り込む為、私も何度か自分自身で驚いた事があります。
例えば私のNY生活時代に聴いた、カーネギー・ホールでのピアニスト辻井伸行さんのコンサート……打鍵の強いピアニスト全盛の中、彼の余りにも優しいタッチと音色は、私から涙を絞り出させました。またロシア・ウクライナ戦争の影響ですっかり来日しなくなって仕舞いましたが、十数年前に聴いたマリインスキー管弦楽団と名指揮者ゲルギエフによるマーラーの「交響曲第五番」も、今でも私の心に残っています。この曲はまるで一人の人の人生の様で、特に第四楽章「アダージェット」では、愛と静謐に包まれて死にゆくかのように、静かに涙を流したものです。演奏家たちの演奏には魂が込められます。そしてそこで生まれるクラシック音楽は、人の心を揺さぶる事間違いありません。そんなクラシックを心の潤いにして、そこから学びを得てみませんか?
この様に美意識を高める生活は、須く皆さんの「行動」に掛かっています。家を出て美術館や博物館に行く。建築を見ながら散歩をする。舞台や音楽会に出かける。ポスターやカードを買って来て、部屋をアレンジする……全てちょっとした勇気と行動力で、皆さんの生活はアート化されて行くのです。
1963年東京都生まれ。世界最古の美術品オークションハウス「クリスティーズ」の日本支社、クリスティーズジャパン代表取締役社長。92年クリスティーズに入社、19年間ニューヨーク等で日本・東洋美術のスペシャリストとして活動。伝運慶の仏像のセール、伊藤若冲の作品で知られるジョー・プライス・コレクションの出光美術館へのプライベートセール等で実績を残す。著書に『美意識の値段』『死ぬまでに知っておきたい日本美術』(集英社新書)、『美意識を磨く』(平凡社新書)、『若冲のひみつ』(PHP新書)。