車椅子の斉藤さんとパラグアイへ

第23回

不良は焼きそばにマヨネーズをかける

2026年2月13日掲載

弘前の繁華街にあかりが灯り始める時間帯。路上で4人のおじさんが斉藤さんの車椅子を取り囲んだ。

「おう新吾、しばらく!」
「元気そだな!」

かつて県立青森第三養護学校(現・青森第一高等養護学校)で斉藤新吾さんを教えていた4人の先生だった。大きくて朗らかな声はいかにも先生っぽい。対する斉藤さんは、先生たちの熱量をいなすように「ども」「お久しぶりっす」といつものトーンだ。なんだか斉藤さんが高校生に戻って照れているみたいな気がして、わたしはニヤニヤしながらその光景を見ていた。

再開の挨拶のあと、店を探してしばし彷徨う。もともと目星をつけていた小料理屋さんは入り口に段差があるうえ、「小上がりしか空いてない」と言われて断念した。先生たちと斉藤さん、介助者の竜くん、野溝さんとわたし、合計8人。この人数で入れる店を手分けして探し、結局「笑笑」のテーブル席に落ち着いた。はるばる東北の古都にやってきて全国チェーンの居酒屋で飲むのはちょっと悔しいけど、車椅子で入れる店の選択肢が少ないのは今に始まったことじゃない。大事なのはみんなで機嫌よく飲むことだ。わたしたちは気を取り直して、ビールで乾杯した。

斉藤さんが4人の先生を順番に紹介してくれた。奈良岡先生(体育)、菊池先生(社会)、成田先生(英語)、村上先生(数学)。「すごいよね」「自分に置き換えたら、ありえない」と、わたしと野溝さんはうなずきあった。30年前に卒業した生徒ひとりのために、先生が4人も集まってくれるなんて。

「なんも。養護学校は生徒と距離が近いのさ」
「一学年30人くらいで」
「ほとんどみんな寮に入ってたし」
先生たちは口々に言った。

青森第三養護学校、通称「三養」は肢体不自由の生徒を対象にした高校で、青森市のはずれにあった。わたしはこのとき肢体不自由ということばを初めて聞いた。文部科学省のホームページには「肢体不自由とは、身体の動きに関する器官が、病気やけがで損なわれ、歩行や筆記などの日常生活動作が困難な状態をいいます」とある。生徒たちの障害のタイプや程度はさまざまだが、ほぼ全員が寄宿舎生活。斉藤さんも入学と同時に弘前の実家を離れて、寮に入った。

担任だった菊池先生がビールをぐびっと飲んで言った。
「新吾、最初は歩いてたんだよな」
「うん、歩いてた」
「新吾は頑固だからさ、「もう歩くのやめろ」って言いにくくてさ」

まわりの先生たちが一斉に「そうだったなぁ」とうなずく。三養には車椅子の生徒もいたが、斉藤さんは高校に入ってしばらくは自力で歩いていたのだった。手足が動かなくなる病気は徐々に進行しており、斉藤さんの歩行は危なっかしかった。菊池先生は心配しながらも、本人が決断するまで見守ろうと決めていた。ある朝、斉藤さんは転んで頭を床に打ち付け救急搬送される。その一件があったあと「先生、やっぱおれ車椅子に乗るわ」と斉藤さんに告げられて、ホッとしたという。

奈良岡先生がニコニコ顔で回想する。
「新吾たちの学年は元気な子が多かった。足が使えなくても懸垂が得意だったり、腕相撲が強かったりな」

もともとバスケットボールの選手だった奈良岡先生は、体育教師になって部活指導をバリバリやるのが夢だった。ところが採用された勤務先が三養で、障害がある子どもたちに体育を教えるという予想外の仕事が待っていた。奈良岡先生は張り切って、肢体不自由な高校生ができるスポーツをどんどん考案したという。車椅子に乗ったままできる卓球や、やわらかいボールを使って頭でトスをあげるバレーボールなど。日本にボッチャ(ボールをつかった障害者スポーツ)が導入される前だったが、似たような競技を編み出したりもした。
「三養に8年勤めたあと盲学校に赴任して、そこでもまたいろいろ工夫したんだ。体育はおもしろいよ」
奈良岡先生は弘前に住んでいたので、同じ市内に実家がある斉藤さんと映画を見に行くこともあったとか。
「休みんとき新吾から電話きて「先生、映画行きませんか」って言うから「いいよー」ってな」

なるほど先生と生徒の距離が近い。そういう時代だったんだろうし、斉藤さんは当時から人間に対して積極的だったんだと思う。迷惑だったらどうしよう、断られたらどうしよう、なんてうじうじ悩まないで、まずは誘ってみる。わたしに初めて連絡をくれたときもそうだった、と思い出す。あの夏の斉藤さんの強引さのおかげで、いまわたしは一緒に弘前を旅しているのだった。

竜くんの介助で唐揚げをもぐもぐ食べていた斉藤さんは、ビールで流し込むと言った。
「菊池先生とは都はるみのコンサートに行ったよね。あれは卒業したあとか」
「行ったなぁ。岩木山のなぁ」
目を細める菊池先生。1993年、岩木山の麓で開かれた都はるみ伝説の野外ライブのことらしい。そういう機会を斉藤さんは逃さない。ミーハーなところも昔から変わってないなぁ。

「菊池先生に言われておぼえているのはさぁ」
と斉藤さんが語り出す。
「寮で、消灯時間がとっくに過ぎた夜中に腹減っちゃって。カップ焼きそばのU. F. O. を食べようってことになった。そしたら先輩が「U. F. O. はマヨネーズかけたらうまいんだよ」って言い出して、ぼくが食堂に忍び込んで冷蔵庫からマヨネーズを盗った。それは当時の寄宿舎生活では誰もやったことがない重大犯罪だった」

ふふふ、かわいい不良だ。それでも寮のルールを破った斉藤さんはこっぴどく叱られたらしい。

「そんとき、菊池先生が「ま、いいよ。正しいことだけが大事じゃないよ」って言ってくれて、それすごくおぼえてる」

先生たちは飲むほどに熱く語った。

「夏休みになりゃあ、お前たち連れてキャンプに行ったよな。先生たちの自家用車4、5台に生徒をを分乗させてな。今じゃそんなこと考えられないけど」
「要するに、三養の先生たちはハチャメチャだったのさ。この子たちが……48歳になった新吾を「この子」って呼ぶのもヘンだけどさ……やりたいって言ったら、じゃあやろうって応える先生が揃ってた」
「生徒も先生もおもしろいことがやりたがったんだよな。あの頃はブレーキを踏む人がいなかった。みんなでアクセルを踏んだのさ」

だんだんわかってきた。斉藤少年を育んだ学校は、先生たちがそもそもぶっとんでいたのだ。

1時間半くらい経ったとき、斉藤さんが介助者の竜くんを連れてトイレに行った。残されたわたしと野溝さんに、先生たちがしんみりと言った。

「新吾は長く生きらんないじゃないかって思ってた」
「んだな」

にぎやかだったテーブルの空気が少し変わった。

(つづく)

著者プロフィール
金井真紀

1974 年、千葉県生まれ。文筆家・イラストレーター。著書に『パリのすてきなおじさん』(柏書房)、『テヘランのすてきな女』(晶文社)、『世界はフムフムで満ちている』(ちくま文庫)、『聞き書き 世界のサッカー民 スタジアムに転がる愛と差別と移民のはなし 』(カンゼン)、『日本に住んでる世界のひと 』(大和書房)、『おばあちゃんは猫でテーブルを拭きながら言った 世界ことわざ紀行』(岩波書店)など多数。「多様性をおもしろがる」を任務とする。難民・移民フェス実行委員。