「怖がらずに進もう。わたしたち、きっとできるから」
パラグアイで自立生活を目指す団体「テコサソ」は、60代のスルマさんと50代のブランカさん、ふたりの女性が牽引している。スルマさんのお話はバスの中で聞かせてもらった。ブランカさんの半生も知りたいなぁと思っていたら、その機会がやってきた。
市場とスタジアムを堪能した日の午後、わたしたちはブランカさんのご自宅に招かれた。JICAの栄美さんも合流して6人で訪れたのは、風通しのいいすてきな一軒家。
「オ〜ラ〜!」
車椅子をスイスイ転がして出迎えてくれるブランカさん。うしろから娘さんもニコニコと顔を出す。二十歳前後だろうか。そういえばブランカさんは交流会で「わたしは自分でできないことを娘に手伝ってもらっています。でも娘には娘の人生があるから、できるだけ早くパラグアイでも介助者を育てて、自立生活をスタートさせたい」と語っていたっけ。たぶんこの娘さんがブランカさんの生活をサポートしているのだろう。
家を取り囲むようにマンゴー、レモン、アセロラ、ザボン、ビターオレンジ、チリモジャ、ウバプルーなど、さまざまなくだものの木が植わっていた。チリモジャはチェリモヤとも呼ばれ、「果肉はカスタードクリームみたいに甘くておいしい」とか。ウバプルーはジャボチカバのことで、甘酸っぱい果実が幹にへばりつくように成る。木の幹に黒いピンポン玉がうじゃうじゃと張り付いているような見た目は、ちょっとゾワッとする。
「さあさあ、みなさん、こちらへ」
中庭のテーブルに通された。そこにはエンパナーダ(ミートパイ)、パジャグァ(ひき肉とキャッサバを混ぜて揚げたもの)、チパソー(キャッサバ粉の生地で肉を包んで焼いたもの)など、パラグアイらしいスナックがずらりと並んでいた。飲み物はパラグアイ名物のテレレ(冷たいマテ茶)。ひとつひとつが味わい深い。わたしたちはもぐもぐ食べながらブランカさんの話を聞いた。
1970年、ブランカさんは農家の9人きょうだいの末っ子として生まれた。伝い歩きができるようになった生後9ヶ月のとき、ポリオを発症し足が動かなくなってしまった。それでもとにかくお転婆で、木登りが大好きだった。
「危ないからやめなさいって母に止められるんだけど、母が昼寝しているあいだに木の下まで這って行って、よじのぼってた」
活発な女の子の顔つきで、ブランカさんは回想する。両親はブランカさんのために病院探しに奔走し、11回も手術を受けさせ、家畜の豚を売って車椅子を買ってくれた。ブランカさんは大事に育てられたのだった。娘が大事だからこそ、両親は言った。その足で学校に通うのはむずかしい、スポーツは無理だ、車の運転なんてダメ、将来はお兄さんかお姉さんの家で暮らしなさい。
「でもわたしはことごとく、言われたことの正反対の道を進んだのよ。心配してくれる両親に歯向かうのはつらかった」
学校に通い、運転免許を取得し、20歳のときにはラテンアメリカの障害者集会に出席するために5000キロ以上離れたエクアドルに出かけた。そのとき両親は「あぁ、この子はつないでおけない」と悟ったらしい。車椅子バスケもやったし、プールでも泳いだ。20代半ばで、障害者に車椅子や杖や歩行器具を配る活動を始めた。
「自分の車に車椅子を7台積んで運んだこともあった。7台もどうやって積んだのかしらね。思い出せないわ」
とブランカさん、やっぱり活発な女の子の顔でケラケラ笑って、こう続けた。
「ちょうどその頃ね、「あなたの相談相手にピッタリの人がいる」とスルマさんを紹介されたのは」
スルマさんはブランカさんより13歳上、障害者の権利がほとんどなかった暗い道の、少し先を歩いている先輩だった。それから約30年、ふたりは「怖がらずに進もう。わたしたち、きっとできるから」と言い合って活動を続けてきたという。なんだか聞いていて涙が出る。
スルマさんとブランカさんは、この国でもっとも早く自立生活センターの仕組みと意義を知ったふたりかもしれない。日本やコスタリカに出向いてその実態を視察し、パラグアイでの自立生活センター設立を悲願として仲間を集めてきた。2021年に「テコサソ」を結成。初代代表がスルマさん、いまはブランカさんが2代目の代表に就いている。月に2回オンラインミーティングを開催し、国会に法整備を働きかけるなど一歩ずつ一歩ずつ進んでいるところだ。彼女たちに並走し、後押しをしてきたJICAの栄美さんもすごい。
「テコサソはグアラニー語で、意味は「しばられない生活」よ」
ブランカさんが晴れやかな表情で言った。パラグアイの暮らしのことばはスペイン語だが、屋号や商品名にはグアラニー語を用いることも多いらしい。しばられない生活。なんて軽やかで、同時になんて重いことばだろう。
その夜、わたしは軽い頭痛に見舞われた。重いスロープを持って炎天下を散歩したせいだろうか。ベッドに入っても1、2時間おきに目が覚めるので、そのたびに裸になってシャワーを浴びた。一人部屋だから、誰に遠慮することもない。熱いシャワーを後頭部に当てると頭痛が和らぐ気がした。夜中に3回もシャワーを浴びながら、「もし自分が自立生活をしている障害者だったら、こんなに何度もシャワーを浴びたいって介助者に頼めるだろうか」と考えた。うーん、きっと遠慮して言い出せないだろうなぁ。
あるいは、わたしが介助者だったらどうだろう。「え!? さっきシャワー入ったのに、また入るんですか?」と言ってしまいそうだ。せっかく着せたシャツをまた脱がせるなんてめんどくさいなぁ、と思ってしまいそうだ。でも、それじゃだめなのだ。頭が痛くてシャワーを何度も浴びたいならば、障害があろうとなかろうと、浴びたらいい、浴びるべきだ。それが自立生活の考えだ。そんなことを思いながらまどろんで、明け方、頭痛は消えていた。
元気になったので、朝ごはんの前にひとりでホテル周辺の住宅街を散策した。夜が明けたばかりで空気はひんやり。街はまだ寝静まっている。誰もいない道をすたすた歩いていると、数ブロックおきに設置されているゴミの集積所が気になり始めた。ときどき段ボールが捨ててあるのだ。ゴミになっているくらいだから大半は汚れたり潰れたりしているのだが、かろうじてきれいな段ボールを見つけると、つい手が伸びる。がさごそとゴミを漁って、まるで不審者。もし住民に見咎められたら、「これで財布をつくるんです」と説明するしかない。スペイン語もグアラニー語もできないから、ジェスチャーで伝えるしかない。
日付が6月3日に変わった夜中の12時過ぎ、わたしたちはパラグアイを去った。遅い時間にもかかわらず、スルマさん、ブランカさん、栄美さんが空港まで見送りにきてくれた。3人と強くハグ。どうかお元気で。パラグアイの障害者の前途が明るいものでありますように。
アルミの重たいスロープはテコサソのみなさんへの置き土産となり、斉藤さん一行の荷物はぐっと軽くなった。代わりにスーツケースに詰め込まれたのは段ボール。わたしがゴミ箱から拾ってきたそれを見た斉藤さんはニヤリと笑い、日本に持って帰って財布にすると約束してくれた。
そして、われわれは大谷翔平選手が待つアメリカ合衆国へと駒を進めた。待たせたな、翔平。
1974 年、千葉県生まれ。文筆家・イラストレーター。著書に『パリのすてきなおじさん』(柏書房)、『テヘランのすてきな女』(晶文社)、『世界はフムフムで満ちている』(ちくま文庫)、『聞き書き 世界のサッカー民 スタジアムに転がる愛と差別と移民のはなし 』(カンゼン)、『日本に住んでる世界のひと 』(大和書房)、『おばあちゃんは猫でテーブルを拭きながら言った 世界ことわざ紀行』(岩波書店)など多数。「多様性をおもしろがる」を任務とする。難民・移民フェス実行委員。

