ある翻訳家の取り憑かれた日常

第64回

2025/07/12-2025/07/25

2025年8月14日掲載

2025/07/12 土曜日

窮屈な二車線道路をしばらく走ると、鬱蒼とした森の入り口に辿りついた。砂埃の立つ、ぐねぐねと曲がりくねった山道を登り切るとその先に小さな集落があり、その一角に立派な木造の建物があった。横は木工所の建物のようだった。

目指していたのは、認知症対応型グループホーム「K」。森を抜けた先の集落の、小高い丘の上に建ち、玄関先から見下ろすと左手に森、右手に棚田が見える。昼に見れば素晴らしい景色だが、夜は真っ暗なのではないかと想像して、『モチモチの木』という児童書を思い出した。何度も読んだが(読み聞かされたが)主人公の少年豆田が、泣きながら裸足で下った、あの暗い山道。

この施設の前にトチノキの巨木はなかったが、庭はきれいに整えられていた。夕暮れ時はさぞ美しいだろう。一転、日が暮れてしまえば漆黒の闇が待っているはずだ。月に照らされる山々の黒い影。あたしには無理かなあ……と、そんなことを考えながら待っていると、玄関が開いた。とても明るい女性が出迎えてくれた。この施設のケアマネさんだという。

建物自体、ゆったりとした和風建築で、玄関がとても広く、解放的な雰囲気があった。ただし、脱走防止のためのセキュリティー対策は万全だろう。夜間に抜けだそうと思ったら、いくつ、ドアをくぐり抜けねばならないのか、数えていく。玄関だけでたぶん3つぐらい鍵がある。

それならば、半年ぐらいゆっくりと計画を練って、職員さんの隙を突く。ナースコールが多い日の夜、あっという間に山道を下る。靴なんてなくていい。足を怪我してもいい。とにかく、先へ、先へ。施設の明かりが見えなくなったところで、右手に握りしめていた100円ショップで買ったスリッパをようやく履いて、そして再びゆっくりと山を下る。

山を下りきった先にはマクドナルドがある。ズボンの内側に縫い付けておいた小さな袋から千円札を出して、フィレオフィッシュセットを買う。ドリンクはMサイズのコーラだ。腹を満たしたら国道沿いを真っ直ぐ北へ進め。あらかじめ契約しておいたアパートの一室に辿りつくはずだ。鍵は郵便受けにある……。

うっかり脱走計画を練ってしまった。

先日からお世話になっている、介護を必要とする家族と施設をマッチングする会社の担当者から電話があって、「とあるグループホームに空きがでるようですので、行かれてみては」と言われていたのだった。あまり乗り気ではない夫を半ば無理矢理連れて行き、話を聞いた。定員19名。各個室冷暖房完備。トイレは各階に三箇所、お風呂は各階に一箇所。24時間介護で、通院介助あり、お看取りまでしますということだった。利用料金はだいたい毎月27万円程度だという。全体的にゆったりとした雰囲気で、私はいいとは思ったが、自分がここに来ると思うと、複雑な気持ちになるのであった(脱走するだろうから)。

2025/07/13 日曜日

サ高住+グループホーム一体型という珍しい施設を見学する。町中にあって、いかにも高級施設といった感じのコンクリート打ちっぱなしの建物だった。ロビーに入ると観葉植物がたくさん置いてあり、自動販売機などもある。ロビーでは軽快な音楽がかかっていた。

妖精たちが 夏を刺激する ナマ足 魅惑のマーメイド!

ああ、滋賀だから? 西川さん? という顔をした私に、マネジャーだというスーパー早口な男性が

ウチハジュウギョウインニモ、タノシクハタライテモライタインデェ、オンガクモ、ジユウニエラバセテモロテマスウ!

と言った。なるほど。壁紙はハワイの風景だった。

最初に見せて頂いたサ高住エリアは、ほとんど居住者が滞在しておらず、「皆さんお出かけ中です」ということだった。しばらく空きは出ないでしょうということで、納得だった。みんな元気だもんね。ここで義母が暮らすのは無理だ。

「なんかギラギラしてるよね。ギラついた施設だね」と私が言うと、夫が「確かに……」と言っていた。

2025/07/14 月曜日

以前は総合病院だったという、特別養護老人ホームの見学に行く。山の中腹にある、かなり規模の大きな施設だった。基本、四人部屋だそうで、私たちが見せてもらった部屋には二人しかおられなかったが、あまったスペースにポータブルトイレが山ほど置いてあってびびった。昼に食べたであろう食事の載ったカートが廊下の至る所に置かれたままで、人手が足りていないのは明らかだった。職員の皆さんはとても感じがよかったが、「ここはちょっとどうだろう」と私が言うと、「ここは母さんが寂しがるだろう」と夫は言っていた。まあ、確かに、少し遠いし、建物全体が薄暗かったから。あと、説明してくれた施設の女性の話がとんでもなく長かった(ありがとうございました)。

2025/07/15 火曜日

仕事が忙しいので、施設の見学は一旦中断。夫と、義父をどう説得するかで話しあう。説得、無理じゃない? と言うと、「でも、騙すというのも後から遺恨が残るからなあ……」となる。とりあえず、「検査入院があるので二週間程度施設に行きます……ってな感じで、義父本人は連日デイに行ってもらうということにしましょうか」と提案したが、「いや、ちゃんと話をしたほうがいいと思う」ということだった。その、「ちゃんと」が難しいんだがと思いつつ、「じゃあ、任せるわ」と夫に丸投げ。

2025/07/16 水曜日

仕事が押しているので、早朝から原稿を書いて、入稿した。来年は少し連載を減らそう。そうでないとダメな気がしてきた。だって水位が気になってきたから。そうこうしているうちに、義父から電話。「なんですか」と冷たく返してしまったのだが、義母が庭のベンチに座ってもう何時間も動かないのだと泣きながら説明する。何を話しかけても返事をせず、だそうだ。「家から出ていないんだから、自由にさせてあげてください」とぶっきらぼうに答えて電話を切る。タイムリミットは近い。

2025/07/17 木曜日

次男が夏休みの短期バイトということで、警備員の仕事をしている。それも祇園祭の警備をしている。夜間になにをしているかというと、鉾を守っているらしい。毎日早朝に戻ってくるが、さすが十代、まったく疲れも見せず、飄々とした顔をしている。

2025/07/18 金曜日

一階のトイレがいきなり故障。もうこの家も建ててそろそろ20年だから、あらゆる場所にメンテナンスが必要になってきた。先日は、エアコンを二台入れ替えたが、今度はトイレか。どれだけ稼いだとしても、すぐに無くなってしまう。これで介護費用がかかってくるとなると……考えるだけで恐ろしい。介護費用、用意しないと本当に詰みますよ。人生設計、大事ですよ。

ああ、恐ろしいと思いながら、日経新聞の「プロムナード」の原稿を仕上げた。

2025/07/19 土曜日

トイレはタンクレスよりも、タンクありのほうがいいらしい。構造がシンプルで、故障しても直すのが楽なのだとか。ということでタンクありを選ぶ。26万円。昨今のタンク有りトイレ、デザインがかなり変わっていいねえ〜

2025/07/20 日曜日

ケアマネさんから連絡があり、秘策があるという。義父を連日デイサービスに行かせることで、義母が施設に入所したとしても、寂しいと感じなくなるだろうし、義母のいる施設に凸ることもないだろうし(これってよくある問題なんですって。奥さんがいる施設に夫が凸って大問題)、清潔な暮らしを保つことができるし、食事もきちんと食べることができるはず。今、ようやく通い出したデイサービス(新しい場所で義父が気に入っている)の担当者に相談して、ちょっと義父のご機嫌を取ってもらいますねということだった。

2025/07/21 月曜日

佐川美術館にベルナール・ビュフェの作品が多く来ているということで見てきた。私はビュフェの落ち着いた色合いの絵が好きなんだが、展示のなかにはめちゃくちゃ激しい絵も多くて、疲労した。一番気に入ったのは、ビュフェが描いた大乃国(来日時に相撲を見に行ったんだって)で、ハガキを何枚か購入した。大乃国狙いで。

2025/07/22 火曜日

夫が義父に義母の入所について考えていることを伝えた。義父は最初大抵抗して「そんな金額を支払うぐらいなら、家にいたほうがいい」と言ったらしい。ちょっと一発、張り倒してもいいかなと思ったが、最後の最後には納得したそうなので安心した。一刻も早く義母を施設に入れてあげなければ安全の確保ができない。とにかく手続きを急ぐ。

2025/07/23 水曜日

私はソロ活が好きだけれど、気が合う人との活動ももちろん好きだ。でもそこに「助け合う」という精神はあまり存在しないような気がする。楽しいから時折会う、ごはんを食べる、飲む……ぐらいの感覚だ。助け合い、相互理解、ケア、すべて素晴らしいことだと思う。しかし昨今のブームには疲れてきた。いい本がたくさんあるのに、ただただ、「やさしさ」だとか「マイルドさ」を前面に押し出す本は退屈極まりない。激しい本が好きなんだろうな。

2025/07/24 木曜日

今日は撮影。ワニブックスの岡田さんとカメラマンさんが来た。すごい押し寿司を持って来てくれて、テンションがあがりまくる。ワニブックスの岡田さんは根回しが本当にすごい人で、若いのにすごく優秀だなと思う。かわいいしね。鬼のようにモテるんじゃないかな。わが家のものをたくさん撮影して、次の撮影場に向かった。

夜、義父からうれしそうな電話がかかってきた。デイサービスに行くと、しきりと職員さんが、「もっと来てくれればいいのに(だって義父さんって楽しいから)」、「ごはんを食べて帰ればいいのに(ここのごはん、おいしいんですよ)」と言うんだとか(今のところ午前中で戻って来ている)。そして、とある職員さんがごはんについてみんなで話をしていたときに、「そう言えば、こちらの村井さんって、インターナショナルな料理家さんらしいですよ!」と言ったんだとか。

「へえ〜! インターナショナル!? すごい!」
「インターナショナルなんだあ!」

という会話が繰り広げられたということで、義父ご満悦だった。
どこがインターナショナルやねん。何がインターナショナルなんや。しかしこれはたぶんケアマネさんの作戦であって、大成功した模様。

「ワシのことをインターナショナルやと言うてくれてなあ……」と、うれしくなってしまった義父は、すっかりデイサービスが好きになった。

インターナショナル。それは魔法の言葉。

2025/07/25 金曜日

取材日。なんと兵庫県美方郡香美町まで行って参りました。本当に美しい場所だった。
https://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/index.html

往復六時間の旅だったんだけど、ワニブックスの岡田さん、話題が豊富でずっと話してくれていたので、めちゃくちゃ楽しかったよ。岡田さん、ほんとうにすごいと思うよ。

そして、私が毎年注文しまくる蟹を販売しているマルニ竹内商店さんに行って、竹内さんとお話するという機会を得ました。竹内さん、かっこいい。詳細は今年末に発売予定の書籍で。

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『ある翻訳家の取り憑かれた日常』(2巻まで刊行、大和書房)、『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。