2025/06/28-2025/07/11
2025/06/28 土曜日
窓辺にたたずんでる君を見てると
永い年月に触れたような気がする
……という、古い歌詞が浮かんでくる義母の小さくなった後ろ姿。以前は結っていた長い髪も、今となっては誰かに短く刈りこまれてしまった襟足、骨が目立つようになった肩のライン。家の外を警戒しながら、窓という窓を閉め、カーテンを引き、私が乗ってきた白い車をじっと見ながら「何人も乗っているけれども、いまからどこに行くのだろう」としきりと気にしている。
「地獄行きのバスなんちゃいますか」と言ったら、「またあんたはそんなことを言って」と大笑いしていた。こういう冗談はちゃんと通じる。しかし一方で、最近の義母は猜疑心が強くなってきたようで、口元に笑みを浮かべながらも私を見る目は笑っていない。常にどこかに連れ去られるのかもしれない恐怖と戦っているようだ。その恐怖は毎朝現実になる。彼女にとって、毎朝、白くて大きな車に乗って、知らない人たちと、まったくわけがわからないデイサービスと言う場所に通うということは、そういうことなのだろう。
2025/06/29 日曜日
運転免許証の更新手続きに行ってきた。マイナンバーカードと運転免許証が一体化できるというので、一体化してきた。一体化してきたので、これからはマイナ免許証ということになり、今まで持っていた免許証は返納してきた(これはマイナ免許証と運転免許証の二枚持ちを選択することもできる)。マイナ免許証にしたメリットはただひとつ、オンライン講習の受講ができることだ。保険証もまとめてしまったが、持たなくてはいけないものが減って、もの忘れが酷い私はとてもやりやすくなったと思う。マイナンバーカードを失くした日はもう、諦めて死ぬしかない。
2025/06/30 月曜日
京都新聞「現代のことば」の原稿を書く。確か、三期目に突入したのではないかと思う。今季でご苦労様と言われるとき、ちょっと辛いんだろうなと今から想像している。はじまりがあれば、終わりも必ずくる。そんなことは理解している。担当記者さんは何人も変わった。私の勝手な推測かもしれないが、定年退職後の記者のみなさんが担当されているのではないだろうか。以前担当して下さった方が、継続雇用で務め、それが満了になりますので、この原稿が最後になりますと書いて下さったことがある。私は最後のメールにこう書いていた。
いつも優しいお言葉をかけていただき、安心して原稿を送ることができました。
大変お世話になりました。少し寂しいです。
長い間、ありがとうございました。
2025/07/01 火曜日
『兄を持ち運べるサイズに』の特報映像が公開された。オダギリジョーさん演じる兄が、母の葬式で木魚を連打しつつ「かあちゃーーーーーん」と泣き叫んでいる様子を、柴咲コウさん演じる私が醒めた目で見ているというシーンからスタートする。
実際の実母の葬式で兄の様子がどうだったかというと、あのオダギリさんの姿とそう大差ないということが驚きである。さすがに木漁連打はしていなかったが、兄は棺に向かって大声を出して泣いていた。「かあちゃん、ごめんな!! かあちゃん、ありがとう!」と泣いていた。「そりゃあ、ありがとうだよね〜」と私は親戚の叔母さんたちと言い合っていた。そういう意味においては、彼は感情の発散の仕方が上手(というか派手)な人だった。もちろん、私は通常営業で泣いてはいなかった。ただただ、ここの支払どうするのという気持ちだけであたまがいっぱいだった。斎場を去って、葬儀場にもどるとちょっとした食事が出されていて、アルコールも置いてあった。親戚全員が去ったあとも、彼はひとりでそこに残って、最後の一滴までアルコールを飲み続けた。さきほど、「彼はひとりでそこに残って」と書いたが、当然、柱の陰からその様子を観察しつつ、メモしていた女がいる。私だ。
2025/07/02 水曜日
美容院。最近頭のなかが空っぽ過ぎて、彼女に言えることが少なくなってきた。彼女もそんな私に気づいているようで、あまり話をしなくなった。いつもありがとう。
2025/07/03 木曜日
高齢者施設と利用者を結ぶマッチング企業なるものが存在すると聞き、すぐに面談を取り付けた。私がかなり積極的に入所に向けて動いている理由は多くあって、ひとつはインシデントの発生が多いということ。骨折2回は十分な入所検討理由になるでしょう。それから私が最も心配しているのは、徘徊だ。義父はあまり言わないが、義母が家の外に頻繁に出てしまうことは私も知っている。それをなんとか阻止するための週に5日というハードスケジュールでデイサービスに通っているわけだが、夜中だけはどうすることもできない。書きたくはないが、夫と義父の入所に関する動きの鈍さが予想できる。金を用意してから手続きするとか、もう少し先にできないかと言い出すに違いない。義父に至っては抵抗するだろう。まあ、そのあたりは二人に任せるが、私はもう疲れたので勝手にやってくれという気持ちだ。
2025/07/04 金曜日
リビングで息子が友人とLINE通話をしており、なぜだか私も加わって話をしていた。大学生活、どうしようかなということだった。「え? 辞めるって事?」と聞くと、「うん、まあ、そうですね」ということだった。私も大学一年であっさり休学しちゃった人間なのでなにも偉そうなことは言えず、「せっかく入った文学部なんだから、がんばってね」などと震える声で言っておいた。「最初は退屈だって思えた文学もさ、一年ぐらい読んでみると急に面白くなったりもするしねえ、えへへへ」と私が言うと、息子が「でも文学だと潰しがきかねえよな」などと口を挟む。潰しなんて気にする年代かよ。それなのに返す言葉が咄嗟にはでなかった。
2025/07/05 土曜日
とあるグループホームから「見学に来られますか?」との連絡を頂く。大喜びで見に行く。認知症専門のグループホームで、できたばかりのようだった。一階はデイサービスで二階、三階がグループホームという作り。町中にはあるが静かな雰囲気で、学生寮のよう。義母は問題なく入居できるだろう。義父が要介護3の状態だったと仮定して、グループホームで集団生活ができるかというと、無理。無理なので、義父は一階のデイサービスに連日通い、同じ建物内にいる義母と交流できるのではないかと夢見た。夢見つつ、「そんなに会いたいもの!?」とふと思った。私が義母の立場だったら、「いやべつに、そこまで会いたくないのだが」とか考えそうなんだけど。
2025/07/06 日曜日
日曜日ぐらい休みたいと思いつつも、老人ホームの見学に行って来た。サ高住とグループホーム合体型と、普通の老人ホームの二箇所だ。まあ、正直なところ、きれいなところなのか、そうでないのか、人は優しそうか、そうでもなさそうなのか、どのような設備が整っているのかなど、確認するところは色々とあるものの、当の家族が(私以外の男たちが)気持ちが固まっていないのだから、見学だけしても全く意味がないと思った。
2025/07/07 月曜日
体調が悪く、謎にお腹が痛い。いつも通っている内科で観てもらうと、年齢も年齢なんで、造影剤を入れたCTを撮りましょうということになった。造影剤を入れたのなんて、心臓病の手術以来だった。すっかり完璧に診て頂いて、どこにも異常がなかった。これってもう、人間ドッグを受けたということでよかったでしょうか。
2025/07/08 火曜日
メンタルクリニック。
「先生、琵琶湖の水位が下がっているのにお気づきですか。今年は梅雨がわずか18日間で明けてしまって、私はそれについて非常に心配しているんですよね」
先生はだまってカルテに書き込んでいる。
「毎日水位を観察しているんですが、この一センチっていうのがなかなかくせ者で、リットルで表すと68億リットルあまりなんです。1994年には−1.23メートルを記録して取水制限があったりしたんですよね」
「あなたは渇水が怖いの?」
「いや、渇水が怖いというか、コンスタントにしっかり降らないのが怖いのかと思います」
「それでも今年も渇水はすると思いますよ」
「ですから、備えることにしました」
「どんな備えを?」
「見たこともないような大きなバッテリーを買いました(自分でも色々と矛盾しているのはわかっています)」
ここで先生が下を見て笑ったような気がする。
「なので渇水は怖くなくなりました。そしてひとつ、結論に達しました」
「その結論を教えてください」
「人間、健康であればそれで100点です」
「あなたの言う通りです。おたがい、その心で夏を乗り越えましょうね」
「ハイッ!」
2025/07/09 火曜日
老人ホームのマッチング会社の人と電話で話す。いろいろな施設を見て回られるのがいいですよと言われて、本当に優しくていい方なのだが、もうだめだ、俺は疲れている。原稿が遅れているのがとても気になる。
2025/07/10 木曜日
この死ぬほど忙しいときに、生協さんから総代になってくれないかと頼まれる。
ため息しか出ない。
2025/07/11 金曜日
無。
翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『ある翻訳家の取り憑かれた日常』(2巻まで刊行、大和書房)、『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。