ある翻訳家の取り憑かれた日常

第62回

2025/06/15-2025/06/28

2025年7月17日掲載

2025/06/15 日曜日

あの頃の私は、周囲からは一応大人の扱いをうけているというのに、中身は完全に子どもの状態で、わかっているようで何もわかっていない19歳だった。毎日、理由もなく寂しくて仕方がなかった。大学に行けば、そんな気持ちを抱えているのは私だけではないとわかった。というのも、留学生も多かったし、まだ幼い表情をした地方出身の子も多かったからだ。

一方で、地元出身の生徒たちはきらきらして見えた。車で通学している人もいたし、いかにも大学生といった風貌(ミニスカートにヒールに茶髪みたいな)の人たちも多かったし、華やかな雰囲気があった。こっちは田舎から出てきたばかりの頭でっかちな人間で、華やかさのかけらもなく、学食の隅で焼そば定食食べつつ暗い目をしているタイプだったよ。

なぜ自分の若かりし日を思い出してハラハラしているのかというと、日々、息子たちの姿を見て、自分のあの頃のどうしようもない状況を重ねてしまうからだ。目の前に19歳が三人いるような気持ちになる。あの頃の私は、こんなにも幼かったのかと思うと、自分で自分が気の毒で泣けてくる。あの時代を一人で乗り越えてこそ、今があるのかもしれないと考えつつ、必要のない苦労はすべきではないとも思う。

今まで通ってきたでこぼこ道も、振り返ってみれば冒険の一部だったと思えるのは、ずいぶん後になってからだからね。

2025/06/16 月曜日

夫が義父の通院に付き添う。夫と義父の間は一触即発なので、何が起きるのかワクワクして報告を待っていたのだが、案の定、事件は起きたようだった。通院が終わり、レストランに行きトンカツを注文して待つ間にケータイにケアマネさんから連絡が入ったので、夫は席を立ち、店外に出た。しばらく話して戻って来ると、店内の様子が少しおかしかった。見ると、義父が店の女性と話をしており、そしてその女性が憮然とした表情をしていたそうだ。義父に理由を聞くと、皿が汚れているとクレームしたらしい。めちゃくちゃ素早い。この勢いで、家にやってくるヘルパーの一挙手一投足を見て、クレームしているのかと納得がいった。ヒマというか、元気なのだな。

息子と父親の間には、多くの地雷が埋められているらしい。気をつけないといつか大爆発しそう。

2025/06/17 火曜日

以前、義父母の家の庭には巨大な桜の木があった。庭のちょうど中央部分に、枝振りのとても良い、それは立派な木があった。シンボルツリーらしい迫力のある姿で、花を咲かせる時期になると家全体を幻想的な雰囲気に包んだ。近所の人たちも、わざわざ桜の姿を撮影しに来るほどだった。私もその桜の木が大好きで、この木は宝物だなあ〜なんて呑気に思っていたのだが、義父が突然その巨木の枝をすべて切り落としてしまった。それが去年だったと記憶する。理由は未だにわからない。最初は、長い枝を落としてくれという要求から始まり、夫がかなり枝を落とすと一旦は満足したのだが、もっともっと落としてくれと言うようになった。夫がそんなに落としたらダメだろと返すと、義父は憮然とした表情になったらしい。

そして翌日庭師を何人か呼んで、幹だけ残してすべて切り落とした。近所の人たちも驚いたし、私も驚いたし、夫は激怒するしで、大事件だったのだが、これは高齢者あるあるらしい。ケアマネさんによると、庭の木を突然切り倒すのは、男性の終活によくあることなのだそう。

この桜の幹からは、今でも葉っぱが出てくるのだが、それも義父はすべて刈り取ってしまう(今日、刈り取ったあとの葉がビニール袋に入れられていた)。その執念たるやすごい。

2025/06/18 水曜日

毎日忙しくて、なかなか自分の時間が取れない。ようやく時間が取れたとゆったりしていると、義父電の着信音に設定した尺八のメロディーが、固定電話からユラユラと聞こえてくる。軽く殺意。

2025/06/19 木曜日

最近、単発の原稿依頼が多くて、ほぼ毎日何かを書いているような気がする。こんな生活は長続きしないのはわかっているので、ある程度セーブしていこうと決める……というか、決めたはずなのに新しい連載が決まってしまった。本当に懲りない私。でも、介護がなくなったら、まったく問題なくこなせるスケジュールなんだけどな……介護がなくなったら……

2025/06/20 金曜日

日経新聞の連載「プロムナード」を書く。毎週金曜日が締め切りで、公開が翌翌週の火曜日となる。書いている内容は高齢者介護のことで、そこだけはネタが尽きないので安心だ。義母の怪我がとても多くなり、在宅介護に限界が来た。在宅介護から施設介護への転換期にきていると感じている。手続きとしてはあくまで事務的に進めることはできるが、あとは本人と義父の説得という段階だ。これがもっとも厄介。

2025/06/21 土曜日

梅田のラテラルで『ルポ 秀和幡ヶ谷レジデンス』刊行記念イベントが開催された。著者栗田シメイさんにお会いできたのもうれしかったが(ちなみにシメイさんは男性)、長年にわたる理事会との闘争の中心となった秀和幡ヶ谷レジデンス住民の方もリモート参加されて、とても充実した時間を過ごした。途中で二回ほど、最前列に座っていたお客さんの男性が(酔っ払って意識なくして)真横にぶっ倒れるという事件があり、さすが大阪の繁華街と、妙に納得したのだった(そして誰もそんなこと気にしない)。

2025/06/22 日曜日

久々の休み。最近忙しくて、なかなか自分の時間が取れない……と言いつつ、夜中にめちゃくちゃインターネットショッピングをしている。そろそろデスク周りを断捨離しないといけない。本、本、本……。この積ん読山をどうすればいいのか。ああ、庭に小さな家を建てたい。

2025/06/23 月曜日

私が19で親元を離れたとき、母は54歳だった。私と息子たちの年齢差によく似ている。53歳で夫に先立たれ、翌年、娘は家の財政状況を無視して大学進学をすると言い故郷を離れ、母の心のざわつきは相当のものではなかっただろうか。兄は母と一緒に暮らし続けたとはいえ、心が安まる日々ではなかったはず。私が琵琶湖の水不足で狼狽えるなんて程度の狼狽えでは済まなかっただろう。母は家族全員の将来を憂い、資金不足に悩み、なにより私の巣立ちに寂しさを感じていたに違いない。そして私は京都で順調に転落してゆき……色々考えていくと、母の人生も波瀾万丈だ。

2025/06/24 火曜日

先日、大津市主催のイベントへの登壇を依頼された私。今日は大津市の職員さんとミーティングだった。最近、市からご依頼を受けることが多く、西川貴教さんもこんな感じで忙しいのかなと、いきなりすごい有名人と自分を比べたりする。

2025/06/25 水曜日

疲れが溜まっているからだろう、感情が凪だ。こういうときには、あまり文章は書けない。どちらかというと、心が騒いでいるぐらいが、文章を書くにはちょうどいいコンディションだ。感情が激しく揺れているときこそ、文字数を稼ぐことができる。五月の終わりから調子が出ない状態になっているけれど、これには理由があって、翻訳作業が思うように進んでいないことがダメージなのだと思う。翻訳が進めばなにもかもがうまくいくので、翻訳に力を入れたい。

2025/06/26 木曜日

大変久しぶりになる、鈴木智彦さんとのお祝いトークをXのスペースで。なぜお祝いなのかというと、鈴木さんの『ヤクザときどきピアノ』と『兄の終い』は実は同時発売なのです。それもコロナ禍の5年前で、ちょうど外出が自粛となり、様々な店舗が営業時間を短くしたりなんてことが始まった時期と重なっており、イベントなどできなかったという経緯がある。本を売り出す側からすると、これ以上のアウェイはなく、私も、かなりがっかりしたのを記憶している。そして状況は変わり、私も鈴木さんも無事で元気に生きているということもあって、スペースでお話しました。多くの人が聞いて下さっていた。楽しかったです。

2025/06/27 金曜日

なんと、西日本各地で梅雨明けだそうだ。この前始まったばかりじゃん!? と思って調べたら、なんと20日足らずで梅雨明けしてしまっている。心に暗雲が立ちこめる。今まで深刻な水不足を一度も経験したことがないというのに、幼少期のある時点で植え付けられた水の怖さが、この年になってもまったくなくなる気配がない。海やプールは怖くない。私が怖いのは、川、湖、ダムのあたりだ。これからしばらく、水位だとか貯水量が気になる日々が続く。庭の木々も暑そうで気の毒だが、単に水が減っただけで怖い自分も気の毒。

2025/06/28 土曜日

最近、お試しで行ってみたデイサービス(新しい、若くて元気な職員さんがたくさんいる)を弊義父がたいそう気に入った様子だ。週一回から週三回まで回数を増やすことに成功、ゆくゆくは週五回まで増やしたろやないかと思っている。後期高齢者夫婦で、夫が90歳オーバー、妻が重度認知症というケースで在宅介護をしようと思うと、デイサービスに連日通い、ヘルパーさんにも連日通って頂き、そして週二回の訪問介護をお願いするという、介護フルコースになってくる。そこまでしても、転倒による怪我は免れず、義母は右手を骨折している。これが何を示すかというと、在宅介護の限界は超えているということだろうと思う。ということで、村井はスナイパーの目線で施設探しを開始している。

著者プロフィール
村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。