対話がこわい 孤立もこわい~つながりすぎる時代の関係の哲学

この連載について

私たちは不器用だ。つながろうとしてつながりすぎる。誰かを求めているのに突き放す。自分を見せようとして演出しすぎる。気に入ってほしいのに嫌われる。優しい言葉をかけてもいいのに沈黙する。理解したいのに誤解する。笑顔にしようとして傷つける。だが、私たちの言葉には力がある。平凡な言葉も、磨き上げさえすれば見違えた力で日常を語りだす。本連載では、新しい時代のコミュニケーション論を構想し、来るべきカンバセーション・ピース(団欒の姿)を想像することにしたい。

第8回

テイラー・スウィフトとデヴィッド・ボウイは、どのように「実存」をジャグリングしたか

2025年9月12日掲載

にしな「いっぱい気づかれる方は、大変なんだろうなとは思う」

 ミュージシャンの「くじら」と「にしな」が、外出中に他人に気づかれて声をかけられるかどうかについて話していたことがある。

くじら バレたことないな。

にしな バレそうなのに。髪の色も派手だし。

くじら 全くバレないの。この本当にこのままスーパーとかいるんだけど。

〔…〕

にしな 気づかれ……私もそんなに気づかれないけど、気づかれない方が楽では?

くじら そうなんだろうね。

にしな いっぱい気づかれる方は、大変なんだろうなとは思う。[1]

 多くの人が、ノータイムで二人の発言に同意するだろう。それにもかかわらず、私たちは自らを進んでウェブ上にさらし、生活の一瞬一瞬を切り売りするようにSNSに投稿していく。私たちは、常に「誰かに気づかれよう」と思ってSNSを触っている。

 だが、立ち止まって考えてみれば、他者に知られることの何が「大変」なのだろうか。プライバシーの問題? それはそうかもしれない。だが、ここで実際に問題となっているのは、これまで論じてきた〈社会と自己の解離〉だと考えることもできるだろう。

 フォロワーや世間に抱かれている「パブリックイメージ」と、SNSや仕事からは垣間見えない生活に根差した「私的自己」が齟齬をきたしていて、どこか苦しくなる。〈車窓からの視点〉や〈いい子〉を生きている——つまり、統制されたパブリックイメージを生きている——と思っている人が、急に私生活を垣間見られたとき、急遽自分を取り繕い、パブリックイメージに即した振る舞いをしなければならなくなり、自分で自分のギャップに戸惑う。今回は、この戸惑いをどう処理するかという論点について考えることにしたい。

誰でも「有名人」になれる時代の自己論

 星野源をはじめとする「有名人(celebrity)」は、パブリックイメージと私的自己の解離を先鋭化した形で経験することになる。見られる仕事をしている人は、自分をどう見せるかを注意深くコントロールしているし、ブランディングを行っている。しかし、パブリックイメージそのままの人間などいないため、そこに分離の兆しがある。このバランスはちょっとしたことで崩れてしまう。だが、SNSで当たり前に「自分の見せ方」を統制する社会になった今では、くじらやにしな、星野源のような芸能人だけの問題ではない。

 そもそも、社会的場面で提示した自己の様々なバージョンに他者がどんな反応を示すかを踏まえて、自己を形成している。たぶん、私が急に「ラップバトルで天下を獲る」と真顔で言いだせば、私の周囲の人は笑い出すか、苦笑いしつつ「へ、へぇ」と反応をするはずだ。このように、周囲の言語的・非言語的な反応から他者評価を読み取り、自分のあり方を調整している。[2]

 ここに今ではSNSが入り込む。SNSでは、(1)実生活の交流と違い、セルフイメージの入念なコントロールがしやすく、(2)より広範により速い社会的比較ができ、(3)「いいね」や「シェア」の数をチェックすることで、一目で他者評価を把握できる[3]。セルフコントロールと、大規模な他者比較、フィードバックの得やすさが相まって、いわゆるセレブリティ(芸能人)でなくても、有名人が経験するのと相似形の経験をしている。

 今回の記事では、哲学者のアルフレッド・アーチャーとキャサリン・M・ロブによる「有名人であること:疎外、統合、不気味なもの」という論文——以降、アーチャーとロブを「著者たち」、文章を「有名人論文」と呼称する——に基づいて、この解離と向き合う方法について考えることにしたい[4]。論文紹介は多少込み入っているので、難しく感じた場合は、各節の最初と最後を重点的に読んで、途中は流し読みするといいだろう。

公的自己と私的自己を分離するとはどういうことか

 有名人論文では、〈社会と自己の解離〉に相当するものが、「公的自己と私的自己の断絶(the disconnection between the public and private self)」と呼ばれている。この論文では、まずこの断絶がどのような体験をもたらすのかについて詳しく説明している。

 まず、この断絶の経験について広範に著作を発表した最初の哲学者としてジャン=ジャック・ルソーを挙げ、さらにいくつかの文章を引用しながら、〈社会と自己の解離〉を生み出す主要因の一つを「モノ化(objectification)」、すなわち「自己を人々が流用し、獲得できる商品へと変容させること」に求めている。つまり、見られるレベルのセルフイメージが自分で統制できず、他人に好き勝手に扱われている状態である。

 自分が「モノ」になっていると感じるほど他人に飲み込まれているとき、人はしばしば「公的ペルソナ」を設け、それを別個の存在として切り離す。「他人にとっての私」を分離しておけば、他の私(=私的自己)の安全性を確保できるかもしれないからだ。

 この戦略は一見有効そうに思える。だが公的ペルソナは自律性を持ち、私的自己を侵食して「疎外(alienation)」に追いやりはじめる。

例えば、イギリスのファッションモデル、ケイト・モスは、モデルとして活動していた頃の自分の写真を見ても、そこに写っている人物が実際の「自分(her)」だとは認識できないと述べている。この解離は、モスの模範的な「自己」が、彼女自身の「実際の」姿にとって「異質(alien)」で「反対(other)」である公的なペルソナであるがゆえに生じている。場合によっては、公的なペルソナが著名人の私生活を支配してしまうと、疎外と解離はさらに強まる。

 多様な他者に見られる自分を「公的ペルソナ」として独立させると、メディア上に現れる姿を「実際の自分」として認識できず、自分がバラバラになった感覚に陥るのである。

 ただ、星野源や高瀬隼子の話を思い出せばわかるように、〈社会と自己の解離〉はそう単純な事態ではない。確かに自己の公私は解離・断絶しているが、実態としては分離しきれていないからだ。有名人論文では、イギリスの歌手であるリリー・アレンのフレーズが引かれている。

私は自分がリリー・アレンだってわかってる。〔…〕でも、彼女が私じゃないってわかっている。その意味で、私はかなり現実主義者でもあるんだ。

 アレンは、自分の公私を分離しながらも、それらが実際には分離しきっていないことを自覚する程度には冷静に自分を見つめている。

 この観察は正しいだろう。というのも、公的自己と私的自己が全然別物で、そこに連絡が本当に一切ないならば、公的自己がどのように扱われても、私的自己は何の影響もなく健康で平穏にすごせるはずだが、これまで扱ってきた高瀬隼子の小説や星野源の事例は明らかにそうではないからだ。以上で、解離の経験が実際どのようなものであるかを説明し終えた。以降では、この経験を哲学の観点からどのように論評できるかを考えていこう。

サルトルは、解離の経験を説明できるか

 公的自己と私的自己が解離しているにもかかわらず、それらが分離しきっていないからこそ、自己疎外が起こっている。この事態を分析するために、著者たちは「疎外の現象学」に取り組もうと考え、まずは、20世紀フランスの哲学者、サルトルの『存在と無』におけるウェイターの分析を参照している[5]

 人々は、ウェイターに特定の行動——ウェイターとしての役割に基づいた行動——を要求しており、その役割期待が、ウェイターの振る舞い方の特徴を規定している。誰一人として、この種の構造から逃れることはできない。しかし、単にそれに縛られるだけでなく、疎外や解離が生じるかどうかはまた別の問題である。つまり、役割期待が疎外や解離をもたらすわけではないのである。それなら、疎外の感覚をもたらす「何か」があるはずだ。それは何だろうか。

 サルトルに沿って考えれば、〈他者からの制約で規定される自己〉(=即自存在)か、〈他者がまなざす仕方とは違う何かになる自由を受け入れ、それに基づいて行為する自己〉(=対自存在)かによって、疎外が生じるかどうかが決まると言える。専門用語が出てきて混乱したかもしれないが、何も複雑な話ではない。周囲が期待・想像する通りの人間であるか、それから逸脱しているかという対比だと思えばいい。そして、人々からの役割期待——人々が課すパブリックイメージ——に流されるだけだと、自己はまるで人格も反省性もない「モノ」になるので解離や疎外が生まれる、というわけだ。

 この話に「なるほど」と納得しかけるかもしれないが、サルトル流の説明には変なところがある。公的自己と私的自己の区別なく、とにもかくにも他者に流されているばかりの人間こそが、疎外を経験することになるからだ。この見解は、次のような不合理な結論を導き出してしまう。有名人のように、公的自己と私的自己を分離し、パブリックイメージとは違う自分を確保しなければならない人は、私的自己を持っている点で、他者に流されるばかりではない。だから、有名人には疎外が生じない可能性が高い。これは明らかにおかしい。

 サルトルに従って考えれば、有名人は無名の人よりも疎外を経験しづらいということになるわけだ。しかし実際には、疎外や解離のつらさについての痛切な報告があるのは、有名人の方である。どうやらサルトルの議論は〈社会と自己の解離〉を扱うのに向いていない。こんな不合理な見解を導き出す説明を避け、別の説明を見つける必要があるだろう。代わりに、著者たちが有望視するのは、サルトルと親交があり、しかしサルトルとは違った仕方で思索を重ねた、モーリス・メルロ=ポンティの哲学である。

公的自己と私的自己は解離しているにもかかわらず、つながっている

 他人に見られる自己が肥大化していってしんどくなる経験を考える上で大事な問題を振り返っておこう。まず、公的自己(コミュニケーション)が、私的自己(内面)にとって異質で、他者によってモノ化されていると感じている。解離と疎外を経験しているわけだ。しかし、リリー・アレンが述べたように、私的自己にとっては異質に思える自分もまた、やはり自分の生活とつながっている、自分の一部であるという感覚がある。だからこそ、公的ペルソナが受ける毀誉褒貶や認知などの影響が、プラスとマイナスの別なく、私生活に浸透していくのである。

 この絡まり合いを分析するにあたって、著者たちはメルロ=ポンティの身体論を援用する。彼によると、身体は私に属していると同時に、私にとって異質であるような存在である[6]。それと同じように、自己とは「異質なのに親密で、自分に属するのに不気味な(intimately alien, strangely mine)」ものだ。

 この議論を踏まえて、著者たちはこう総括している。

身体の痛みや病気が悪化するほど、主体と客体の断絶の感覚が増すのと同じように、セレブリティ経験をするとなると、私的自己と公的自己の関係がうまくいかない可能性が高い。セレブリティは公的な目に晒される機会が多く、ファンからの強い憧れや執着を招くため、その公的イメージは本人の統制を超えた形で流用される可能性が高く、しばしば自律的な主体性や私的な自己の意思決定を完全に制限してしまうからだ。

 強く他者の目に晒されることを病いや痛みに喩えているのが面白い。身体が病いや痛みで統制が効かなくなると、身体はモノのようになり、「うまく動かせない」「うまくいかない」という感覚を増大させるように、自己が他者からの強いまなざしに晒されるとき、自己はモノのようになり、「何かが違和感がある」「うまくいかない」という感覚を増大させるのだ。

〈社会と自己の解離〉に対処するための三つの戦略

 論文の最後では、〈社会と自己の解離〉、あるいは〈公的自己と私的自己の断絶〉を超える上で、三つの戦略を検討している。(1)公私の隔たりを埋め、公的ペルソナを自分にすること。(2)公的ペルソナから完全に距離を置くこと。(3)公的自己と私的自己の緊張関係に批判的に直面すること。

 まず一つ目。テイラー・スウィフトは初期のキャリアで取り組んだのもこのアプローチで、彼女は「私はみんなが私に望むような人間になった」と表現している。公的自己が演じるべき役割に完全に沿って生きることができれば、たしかに疎外は起こらない。だが、有名人が周囲からの期待に従うとき、周囲の人々は、有名人が自分の想像や期待とは異なりうる存在であることを理解することができない。しかも期待は場当たり的なので、演じるよう期待される役割は無軌道に変わり、公的ペルソナは完全に制御を失ってしまう。そして何より、たとえ断絶していると感じていても、公的自己と私的自己がどこかでつながっているという事実を見逃している。

 二つ目。人々がパブリックイメージに対して、「本来の自分」「本当の自分」「プライベートな生活」を守るという観点からコメントするとき、この種のアプローチを採用していると考えることができる。しかし、メルロ=ポンティの哲学に触れたときに指摘した通り、完璧にそれらを無関係なものにすることはできない。結局、疎外のしんどさを逃れるためにしていることにフラストレーションを感じるばかりだろう。

 これらのアプローチのもたらす有害さについて、著者たちは「統合された生(integrated life)」、つまり「高潔(integrity)」の観点からも論じている。バラバラで断片化した生とは異なり、様々な自己が統合されていることの有徳性を見失うべきではないとの視点から、著者たちはこう述べる。

公的なペルソナを完全に受け入れることも、完全に距離を置くことも、うまくいかないか、あるいは統合された自己の欠如につながることを考えると、有名人はむしろ私的な自己と公的なペルソナのアイデンティティ間の緊張を受け入れ、その葛藤を創造的に調停するよう努めるべきだと我々は提案する。

 公的イメージと私的自己の緊張関係を、ドナ・ロックウェルとデビッド・ジャイルズは、「実存的ジャグリング(existential juggling act)」と呼んでいる[7]。大道芸人がジャグリングをするときのように、分裂しつつもつながった複数の自己とぐるぐる向き合っているわけだ。

実存的ジャグリングを実践するための、いくつかの方法

 実存的ジャグリングの方法は一通りではない。たとえば、テイラー・スウィフトが2021年に以前のアルバム『フィアレス(テイラーズ・バージョン)』を再レコーディングしてリリースした。レコーディング音源の権利をめぐる争いをきっかけとしたものだが、「テイラーズ・バージョン」という表記からわかる通り、これは自身のパブリックイメージに対する介入でもある。

スウィフトが10代の頃に制作した楽曲を再録音することで、彼女はファンに二つの認識を突きつけた。一つ目は、彼女のパブリックイメージが商品化されていることが、彼女の私生活に深く影響を与えていること。二つ目は、彼女が歳を重ね、その結果、彼女のパブリックイメージとそれに寄せられる期待も変化しなければならないということだ。

 たとえば、過去の公的自己を語り直すことは、解離や緊張関係と付き合う有効な方法だと考えられる。

 もう一つは、キャリアの様々な段階で異なるペルソナを採用すること。著者たちは、デヴィッド・ボウイがアルバムごとにフィクショナルな人格を立て、パブリックイメージをズラし続けたことに言及し、それがボウイの実存的ジャグリングの方法だったと指摘する。

公的自己と私的自己の親密な関係から生じる不思議な緊張を認識し、注意を払うことで、有名人はかつて疎外感を与えていた関係を、創造的で力強いものへと変容させることができる。

 私たちも中学・高校の頃と現在とでは多少とも周囲から「こういう人間だ」と思われているイメージは違っているはずで、有名人でなくともこの種のアプローチを採用している。

 いずれの場合も、単一で一貫した自己ではなく、ゆるやかに統合された自己を目指すことが大事だと著者たちは指摘している。

多様な存在は、二つの自己が互いに対話し、どちらも他方を弱めるような行動を取らない限り、統合性を持ちうる。〔…〕つまり、有名人は、自らの多様なアイデンティティの二つの異なる部分を同時に持ちつつ、それらが批判的に相互作用し、その結果生じる緊張に対応する方法を見つけるのである。

 というより、こうした緩やかな統合性の中で、自分の中にいる複数の自己の緊張関係と対峙する方法が見つかるのである。そして、すでに挙げた二つのアプローチからわかる通り、その「方法」は、パブリックイメージを自分なり創造的に介入し、公的自己と私的自己の関係性を(再)構築することなのである。

今回までにわかったこと

 以上が、有名人論文の概要である。星野源の提示した「素直に感じること」を取り戻すという方法は、パブリックイメージに縮減されてしまった私的自己を賦活し、公的自己と私的自己の関係を再構築するための方法だったと言えるかもしれない。また、遡れば「ざらざらした触り心地」(第三回)や「対話のこわさを感じる」(第一回)といった論点は、公的自己の構築が人々の期待に従うだけでは済まず、自分として公的自己に創造的に介入し、再構築するときに生じるコンフリクトの感触や不安のことを指していると理解することができる。このように、有名人論文は、これまでの議論を別の仕方で整理するためのよい視点を与えてくれるものだったと言える。

 まとめておこう。〈社会と自己の解離〉あるいは〈公的自己と私的自己の断絶〉を超克するために、パブリックイメージに完全に依拠したり、それらを完全に分離したりすることはできず、葛藤や緊張関係を抱えながら、それらのあり方や関係性をうまく再構築する必要がある。そのための方法として、ボウイ(様々なペルソナを時期ごとに新たに立てる)やテイラー・スウィフト(過去の自分の語り直し)、星野源(感じることの回復)などのやり方を例示した。たぶん、ほかにもやり方はあるのだろう。

 有名人論文は、これまでの議論を別の仕方で整理するためのよい視点を与えてくれるものだったと言えるだろう。次回は、難波優輝の『物語化批判の哲学』と田村正資の『独自性のつくり方』という2025年に出た二つの一般向け哲学書を手がかりに、解離あるいは断絶を超克した自己のあり方について考えてみたいと思う。


[1] 純喫茶くじら – Guest にしな https://youtu.be/Tan7Q47tTuw?si=a3otHwn3DVHjFFq2

[2] 谷川嘉浩『増補改訂版 スマホ時代の哲学』ディスカヴァー携書, pp.351-2に基づく記述。

[3] クリス・ベイル(松井信彦訳)『ソーシャルメディア・プリズム:SNSはなぜヒトを過激にするのか?』みすず書房, 2022, p.55

[4] Archer A. & Robb C. M., “Being a Celebrity: Alienation, Integrity, and the Uncanny,” Journal of the American Philosophical Association, 9(4), 2023, pp.597-615. doi:10.1017/apa.2022.28 以下特に言及しないが、論文の内容をアレンジしながら紹介している。また、引用の際には文献表記を削除している。

[5] サルトル自身は、公的自己と私的自己の葛藤を取り上げておらず、それらを貫いて「自己」に関して成立することを語っていることに注意されたい。しかし、本文では単純化して、サルトルが公的自己について議論しているものとして紹介している。

[6] 自分の両手で握手をするように手を握ってみれば、この感覚は直感的にわかるだろう。私が主体であると同時に客体であり、それらが絡まり合って成立している感覚が得られるはずだ。

[7] Rockwell, D. & Giles, D. C., ‘Being a Celebrity: A Phenomenology of Fame,’ Journal of Phenomenological Psychology, vol.40, 2009, p.203

著者プロフィール
谷川嘉浩

1990年生まれ。京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。哲学だけでなく、社会学や文学、デザイン、ゲームなど多領域にわたって研究を行う。
著書に『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)、『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)がある。共著に『読書会の教室』(晶文社)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)、『〈京大発〉専門分野の越え方』(ナカニシヤ出版)などがある。