車椅子の斉藤さんとパラグアイへ

第15回

バスに揺られてマテ茶を飲む

2025年9月28日掲載

南米パラグアイの田舎をマイクロバスは行く。土が赤い。空も木々も、すべての色が濃い。 

道端に、もこっもこっと赤土の小さな盛り上がりがあって、聞けば蟻塚だという。「ときどきアリクイも見かけますよ」と通訳のエリカさんが言った。おぉ、野良猫ではなく野良アリクイがいるのだ、この国は。聞けば野良カピバラも野良アルマジロもいるらしい。ずいぶん遠くまで来たなぁ、とわたしはしみじみ思った。エリカさんは日系2世。この赤い土の国には、100年以上前から約1万人の日本人が移民している。日系移民も、ずいぶん遠くまで来たんだなぁ。 

感慨にふけるわたしの横で、斉藤さんは「アリクイとカピバラ、見てみたいっすねー」といつもの調子で言った。この人は、どこにいても楽しそう。軽やかに淡々と世界を受け止める。 

実際、パラグアイは遠かった。東京からは最低でも飛行機を3回乗り継がないとたどりつけない。斉藤さんは体の負担を考えて、大手航空会社の最短ルートでパラグアイを目指した。そういうチケットは値段が高い。ふたりの介助者を連れていくから旅費は3人分、かなりの額になるはずだ。それを自腹で負担して出かけちゃう、斉藤さんの旅はそういう旅だった。 

一方わたしは仕事の都合もあり、1日遅れで日本を発った。斉藤さんには悪いけど、最安値のエアチケットを検索しまくった。貧乏旅行者としていつも当たり前にやっていることだけど、格安便を乗り継いで旅ができるのはマジョリティの特権のひとつなのだと初めて意識した。途中ニューヨークとチリのサンティアゴでの無駄に長いトランジットを経て、2023年5月29日の夕方、わたしはついにパラグアイの首都アスンシオンの空港に降り立ったのだった。 

みんなが泊まっているホテルにたどり着くと、斉藤さんをまんなかに介助者の竜くん(竜聖人さん)と前ちゃん(前川湧さん)、写真家の柴田大輔さんがロビーでニコニコと迎えてくれた。 

「来ましたねー、金井さん」 
「ふふふ、来ちゃいました」 

5日間の濃密なパラグアイ旅が始まった。 

翌日は夜明け前に起きて朝食をとり、6時半にホテル玄関に集合。まず、この旅をアレンジしてくれたJICA(国際協力機構)の合澤栄美さんと通訳のエリカさんがやってきた。そのあと、ずんずんずんと立派なマイクロバスが横付けされた。パラグアイ国内に1台しかないという、車椅子ごと乗れるマイクロバスだ。2日かけて首都アスンシオンから150キロほど離れているふたつの街(グァイラ県の県都ビジャリカ、カアグアス県の県都コロネル・オビエド)をめぐる。行く先々で地元の障害者を集めての交流会が組まれていた。重度障害者の斉藤さんが地球の反対側からやってくる、その姿がパラグアイの障害者のみなさんをどれほど勇気づけるだろう。 

ホテルを出発したバスは、アスンシオン市内でメンバーを拾っていく。パラグアイで自立生活を目指す団体「テコサソ」を率いるスルマさんとブランカさんらが続々と乗り込んできた。スルマさんもブランカさんも車椅子ユーザーの中年女性で、とにかく明るくはつらつとしている。車内に「おはようございます」と「ブエノスディアス」が飛び交って、一気ににぎやかに。 

そして、朝の挨拶のあとに飛び交うのは朝のマテ茶!  

スルマさんがマテ茶の茶器と大きなポットを取り出し、バスの中の南米度がぐっと高まった。ひとつの茶器に入ったマテ茶をみんなで回し飲むのがこちらの流儀だ。自分の番が来たら茶器を受け取り、ボンビージャと呼ばれる専用ストローでお茶を吸う。 

「わたしがボンビージャをちょうどいい位置に差して渡すから、動かさないでそのまま飲んでね。動かすと茶葉が詰まるから気をつけて」 
とスルマさん。介助者の竜くんが茶器を受け取って、斉藤さんの口元に近づけた。斉藤さんは唇を突き出してボンビージャの先をそっとくわえようとするが、バスが揺れてなかなかうまくいかない。 
「あぁ、自分で持てないとむずかしいですね」 
とわたしは言った。言いながら「ん?」と思ったが、口から流れ出たことばは途中で止められない。斉藤さんをフォローするつもりで咄嗟に口をついたことばだったけど、わざわざ「自分で持てないと」なんて言う必要はなかった。静かに反省する。 

わたしにも茶器がまわってきた。マテ茶は少し苦くて草っぽい、クセになる味だ。とりわけスルマさんが用意してくれたマテ茶はミント入りで、飲みやすかった。 
「おいしい〜。グラシアス(ありがとう!)」 
と茶器を返すと、スルマさんはいたずらっぽい笑顔をつくって言った。 
「グラシアスと言ったら「2杯目はいらない」って意味なのよ。おかわりしたい時は、グラシアスは言わないの」 
グラシアスを言わない限り、南米人は延々とマテ茶をまわし飲みし続けるのである。何杯も、何杯も、おしゃべりしながら。 

スルマさんは1957年生まれ。おじいちゃんとお父さんは畑仕事をして、牛を飼い、ミルクやチーズをつくって売っていた。長女だったスルマさんは3歳でポリオを発症し、以来足に力が入らなくなった。当時のパラグアイではーーじつは現在でもーー障害者は何もできないから家にいるしかないと考える人が圧倒的だった。そんななかスルマさんの両親は「なんでもひとりでできるようになりなさい」と言って娘を育てたという。スルマさんは義足と杖を使ってひとりで学校に通い、やがて大学にも進学し、ついには心理学の博士号をとった。 

「若い頃はもちろん恋もしたわ。23歳で出会った人とは、10年くらいつきあってた。ウルグアイ人の彼氏と結婚しようと思ったこともあったし」 
なんて恋バナを挟みつつ、スルマさんの半世が熱く語られる。スルマさんが世界の障害者運動について知ったのは1980年代初頭のこと。 
「当時この国に障害者の権利なんてなかった。障害者は家族から邪魔者扱いされるか、甘やかされて依存するか。どっちにしても障害者が自立できるなんて誰も思ってなかったのよ」 

スルマさんは暗中模索しながら障害者団体を立ち上げ、日本をはじめ各国の障害者施設を視察しに行ってはパラグアイにないものを吸収した。車椅子のタイヤを軋ませながら、パラグアイの障害者運動の先頭を走り続けてきた人なのだ。現在は国家障害者人権庁(SENADIS)に籍を置き、忙しい毎日を送っている。今回、無理やり休みを捻出して、斉藤さんの旅に同行しているらしい。 

バスは一本道をひた走る。道端にはときどき売店が出ている。売っているのはマテ茶、野菜、ペットボトルに詰めたガソリン。犬は寝ている。ニワトリはうろついている。土はどこまでも赤い。 

(つづく) 

著者プロフィール
金井真紀

1974 年、千葉県生まれ。文筆家・イラストレーター。著書に『パリのすてきなおじさん』(柏書房)、『テヘランのすてきな女』(晶文社)、『世界はフムフムで満ちている』(ちくま文庫)、『聞き書き 世界のサッカー民 スタジアムに転がる愛と差別と移民のはなし 』(カンゼン)、『日本に住んでる世界のひと 』(大和書房)、『おばあちゃんは猫でテーブルを拭きながら言った 世界ことわざ紀行』(岩波書店)など多数。「多様性をおもしろがる」を任務とする。難民・移民フェス実行委員。