30歳過ぎたら、自然と「大人」になれると思っていた。
でも、結婚や出産もしていないし、会社では怒られてばかり。
友達を傷つけることもあるし、恋愛に一喜一憂しているし、やっぱり自分に自信が持てない。
「大人」って何なんだ。私ってこのままでいいのか。
わかりやすいステップを踏まなかった人間が、成熟するにはどうしたらいいのか。
35歳を迎えた兼業文筆家が、自意識と格闘しながらこの世で息継ぎしていく方法を探す等身大エッセイ。
ひとりでビューーン!
「目的地はお決まりですか?」
年が明けた。世間的には仕事始めとされている月曜日、私は、会社でも自宅でもない場所にいた。衝動的にねじこんだ一人旅だ。
大晦日の私は、猛烈に働いていた。何ならいつもより忙しかった。IT系企業でニュース運用業務に従事しており、年末年始の特別ニュースを発出したり、他部署が企画している特別キャンペーンの見守りをしたりする必要があったのだ。里帰りの予定もなかったので引き受けたものの、いざ大晦日にぶっ通しで働いてみると、かなり心がささくれた。ソーシャルメディアで楽しくNHK紅白歌合戦の実況をしている人たちが、ハプスブルグ帝国の有閑貴族か何かに見えた。私だけが平民に感じられるインターネット。仕事を納められたのは、23時のこと。そのうえ、年明けも1月2日から稼働の必要があった。国民の休日は元旦だけだって、皆様ご存知でしたでしょうか。このままだらーっと、2025年の労働に身を沈ませるのはしんどすぎる。体というより心が。有給をとってでもどうにかせねば。考えた結果、人々が仕事を始めるタイミングで、旅行に行くことにしたのだった。
一人旅に抵抗はない。見たい美術展があれば、国内どこへでもフラッと出かける。ネットで知り合った友人に会いに、その人の住んでいるところに行くのも好きだ。昨年、東京でできた恋人が実家に戻るという出来事があり、彼に会うための愛知行きも経験した。
しかし。いざ旅を予約しようとして、指が止まった。行きたい場所が全く決まらないのである。労働に次ぐ労働で、欲望が去勢されてしまったのかもしれない。どこでもいいからどこかに行きたいと思っていたはずなのに、行きたい場所が決まらなくて、本当に困った。
旅行情報サイトのトップページは「ここではないどこか」の写真であふれている。国内ホテルの検索サイトなら、沖縄、京都、北海道。海外行き航空券の検索サイトなら、ソウル、台北、バンコク。トップページにずらりと並ぶ「人気の旅行先」は、あれもこれもパラダイスに見える。私が働いている場所以外、地球上すべてパラダイス。
有給は、今年度まだ1日しか使っていない。具合が悪い日もリモート勤務だから休み休み働いていた。たまりにたまった有給を使って旅行に行く資格が、私にはある。法律上、年に5日以上の有給取得が定められているから、義務すらある。誰に文句を言われることもないし、猫の世話は家族に頼める。
何の障害もないはずなのに。スマホを繰る指は、なぜか「人気の旅行先」の上を素通りする。「一人で行くにはちょっと高いな」とか「そこまで行きたいかというと、家でごろごろしている方がリフレッシュできるかもな」とか、渋る気持ちがポップアップしてきて、タップを許さない。検索ウィンドウに表示された「目的地はお決まりですか?」のメッセージが、どんどん圧を増していく。
一人旅最大のハードルは、お金でも時間でもなく、「決める」ことの労力だと思う。あれこれ決める気力がないくらい疲れているからこそどこかに行きたいのに、あれこれ決める気力がないので、旅行先を決めることが困難だ。これまでは箱根と京都を定番の逃亡先としていたのだけど、どちらも、インバウンド需要で信じられない相場になってしまった。旅行情報サイトにたっぷりの宿泊先が提示されることもこの困難に拍車をかける。私がアクセスできるベストな選択肢はどのエリアのどこの宿なのだろう。考えるうちに「ベストでない選択肢を選んでしまう可能性」がよぎって、何も選びたくなくなる。ああ、同行者に決めてほしい。でも同行者を探すのも面倒くさい。独身って、気楽なようで面倒だ。
やっぱり家でゴロゴロしようかな。諦めかけたとき、一つのソリューションにたどり着いた。JR東日本の「どこかにビューーン!」というサービスだ。JALも「どこかにマイル」というサービスをやっており、そちらのほうが有名かもしれない。「どこかに」という名前が示す通り、旅行者は自分で旅先を選ぶことができない。旅行したい日時を指定すると、JR東日本やJALがランダムに旅行先を決定してくれるという趣向だ。どちらも対象のマイレージポイントを使って旅行する仕組みで、ランダムに旅先が決定されるぶん、消費されるポイントが通常のマイル利用より安く済むことが売りとなっている。「どこかにビューーン!」に必要なポイントは、6000JREポイント。JR東日本の運営する「えきねっと」にログインして自分のポイント数を調べたところ、ギリギリ足りていた。交通費がかからないことが最大の売りのはずだが、私にとっては、安く旅行できるうえに「決めてもらえる」ことがありがたい。
といっても完全ブラインドのガチャではない。絞り込み手前の4候補を、申し込み前に教えてもらえる。対象となる駅がある程度決まっているようで、日程と時間帯を調整しながら仮申し込みを繰り返すと、似たような、しかし微妙に違う候補パターンが表示されていく。あまりにも移動時間が長い場所は疲れそうなので、片道3時間の駅だけが候補になっているパターンに巡り合ってから、本申し込みした。
3日後、「行き先決定のご案内」メールが届いた。マイページに飛んで、仰々しい「行き先決定」動画を鑑賞させられる。現れたのは……「かみのやま温泉駅」の文字。し、知らない子だ。
調べると、山形県上山(かみのやま)市にある駅で、歌人・斎藤茂吉の出生地だとのこと。「温泉」とついているのだから、温泉地であることには間違いないだろう。すぐに楽しみになった。旅程が数日後だから、宿選びもスムーズだ。「一休」で「かみのやま温泉」と検索すると、空室があったのは3施設。3つから1つを選ぶ程度の気力は残っていた。
迎えた当日。9時に東京駅を出発した「つばさ」はかなり空いていた。ある程度空席がある路線だからこそ、「どこかにビューーン!」の対象なのだろう。隣の席も空席だ。ゆったりとした心持ちで、読書に没頭することができた。車窓の外はどんどんと、雪景色に変わっていく。当然のことながら「どこかにビューーン!」で行ける場所はJR東日本の駅に限られる。つまり、東京より北である。冬に太陽を求める人には向かないだろうが、私はごみごみしているのが嫌いなので、ちょうどよかった。寒いときに寒いところに行くの、けっこう好き。
かみのやま温泉駅には昼ごろ到着した。駅前にガラス張りの建物がある。観光案内所だ。ワインがずらっと並んでいるのが見えたので思わず入ると、「山形ワインカーヴ」と書いてあった。上山やその他近隣の山形ワインがグラスで飲める、ボトルが買えるお店だった。なんと上山では古くから果樹栽培が盛んで、ワイナリーも複数あるらしい。日本ワインは好きでよく飲むが、細かい知識がなかったので、全然知らなかった。抜栓されている9種類のワインから3種類を選べる試飲セットと、あんぽ柿にチーズを挟んだおつまみをのんびり味わう。その後、Google Mapで調べた近隣の喫茶店でケーキセットを食べてから、タクシーで宿へと向かった。
泊まったのは「おやど 森の音」。かみのやま温泉で長く経営している旅館グループが、買い取った企業保養所をリノベーションしてできたホテルだ。
この手のリノベ系宿が、私は地味に好きである。
まず、施設がきれいでおしゃれなことが多い。森の音は名前の通り、館内のあちらこちらに緑が配置されており、居心地がよかった。
次に、食事の量がちょうどいい。リノベーションホテルとオーガニック、SDGsは、大体セット売りになっている。SDGsといえばフードロス対策。この手の宿の料理で「多すぎて食べきれない」という経験をしたことがない。今回も、ちょうどいい量のポーションのちょうどやさしい味の夕食で、完食後にひとっ風呂浴びることができた。
そして、おひとりさま女性客がいる率が高い! 一人旅では、夕食どきに人目が気になることがある。「森の音」は全14組というかなりこじんまりした宿だったのだが、願っていたとおり、もう1組おひとりさま女性客がおり、とても心強かった。なんなら話しかけそうなところをグッと我慢した。旅館はそもそも一人客を受け入れてないところが多いし、泊まれてもなかなかいいお値段とられる場合も多い。別に「一人ですが何か?」という気を発して過ごすことはできるのだが、あまりにもカップルや家族連れに取り巻かれていると、寂しいのも事実だ。リノベ系ホテルのほうが、おひとりさまや女子旅の率が高く、疎外感がない。
最後に重要なのが……Wi-Fiの安定率が高いこと! 老舗旅館やホテルではそもそもWi-Fiが通っていないところや、導入はされているけれど動作が不安定なところに当たる率がそこそこある。この点、SNSに力を入れインターネット経由の客を意識しているリノベ系宿のWi-Fiが弱かった記憶は全くない。今回もきわめて快適な回線速度で、ネットサーフィンや原稿執筆、メール送信などをこなすことができた。日曜の夜に急遽発生した職場インシデントにも対応することができたほどだ。あれ、休めてないな……?
ワインを楽しみ、温泉でくつろぎ、ぼーっとした1日目。2日目も、斎藤茂吉記念館とワイナリーに立ち寄ったらあっという間に終わっていた。観光のオンシーズンではなかったことで開いている施設が限られていたのも、滞在中の意思決定コストを下げてくれた。
JREポイントは今回の旅行で使い切ってしまった。次に6000ポイントがたまるのはかなり先になるだろう。適度に決めてもらえて、いい感じにぼーっとできる一人旅のソリューション、この他にもあったら、ぜひ耳打ちしてください。
平成元年、東京生まれ。女子校とボーイズラブで育った文筆家。オタク女子ユニット「劇団雌猫」のメンバーとして活動。オタク文化、BL、美意識、消費などに関するエッセイ、インタビュー、レビューなどを執筆する。単著に『沼で溺れてみたけれど』(講談社)、『それでも女をやっていく』(ワニブックス)など。