30歳過ぎたら、自然と「大人」になれると思っていた。
でも、結婚や出産もしていないし、会社では怒られてばかり。
友達を傷つけることもあるし、恋愛に一喜一憂しているし、やっぱり自分に自信が持てない。
「大人」って何なんだ。私ってこのままでいいのか。
わかりやすいステップを踏まなかった人間が、成熟するにはどうしたらいいのか。
35歳を迎えた兼業文筆家が、自意識と格闘しながらこの世で息継ぎしていく方法を探す等身大エッセイ。
マインドフルネスとしての川
東京都江東区に住んでいる。郵便番号の割り当ては135と136。衆議院小選挙区選出でいうと東京15区。PRキャラクターは水鳥の女の子コトミちゃん。水辺のアイドルという設定でなかなか可愛い。地図で見るとどの区よりも東京湾にせりだしている──南側の大部分が東京湾を埋め立ててつくられたので当たり前なのだが──この区のことを詠んだ短歌があると、友人が教えてくれた。
江東区を初めて地図で見たときのよう このひとを護らなくては/雪舟えま『たんぽるぽる』
江東区のつかみどころのなさがみごとに生かされた歌だと思う。コトミちゃんも、区のホームページで「いろんな顔が楽しめる不思議タウン」と評している、この区の。
東京都で生まれ、人生の大半を東京都内を転々として暮らしてきた。しかし、江東区に住むのは今回が初めて。2024年中古マンションを購入しようと思い立ち、予算・住環境・物件のポテンシャルをかんがみて、悩みに悩んで、いま住む物件にした。中古不動産を買う人は、馴染みがあって気に入っているエリアや実家に近いエリアで、ライフステージの変化に合わせて広い家を探し、結果として賃貸から購入に移行するパターンが多いと聞く。私の場合、縁もゆかりも職場もなく、仲のいい友達とも離れた江東区に家を買ったため、周囲からかなり怪訝な顔をされた。しかも、江東区のなかでも、清澄白河とか門前仲町とか豊洲とかではないのだ。駅名を言った相手からは、100パーセント「どこ?」と返される。東京出身者であってもだ。
そう、本当は清澄白河に住みたかったんです。清澄白河だいすき。まず名前がかっこいい。そして、東京都現代美術館(MOMA)とブルーボトルコーヒー日本1号店があり、それに伴い雨後の筍のようにあらわれた、おしゃれショップやレストランがある。現代アートが好きで東京都現代美術館の企画展にいそいそと通っている私にとって、清澄白河は「馴染みがあって気に入っているエリア」だった。
しかし。独身ミドサーのヒラ会社員が買うには高かった。多少手が届きそうな予算の部屋は爆速で売り切れ、間取りや条件に難ある物件のみが検索結果にとどまっていた。清澄白河、バブルすぎる。清澄白河(そしてカルチャー的憧れで候補にしていた台東区蔵前)を諦め、しかし、清澄白河によってなんとなく培われた区のイメージに背中を押されて、ついでに「同じ区だしMOMAにも行きやすそう〜」と安易に思い、江東区X駅物件の購入を決断したのだった。蓋を開けてみれば、江東区は広く、縦移動の交通が不便で、MOMAにはみじんも近くなかったのだが……。かくして、人気も知名度もおしゃれスポットもないほうの江東区で、ニューライフが始まった。
X駅は、お世話になった不動産仲介エージェントの提案で知った。エージェントもX駅に詳しかったわけではない。過去にこのマンションの1部屋を仲介したそうで、エリアよりは物件を推す形で紹介してくれたところがあった。とはいえ、「駅前がゴミゴミしていないほうがいい」とか「公園があるほうがいい」といった要望を私から出していて、それに合うエリアという経緯だった。たしかに条件には沿っていたのだが……訪れたX駅は、生まれて初めて見た江東区が清澄白河であり文京区在住中だった私の目からすると、何もなさ過ぎた。「こんなところに家買っても、誰も来てくれなさそう〜」と弱音を吐いたほどだ。エージェントからは苦笑いとともに「私が遊びに来ますよ!」という励ましが返ってきた。
その日は、新宿御苑前駅や代々木駅そばの物件を見た直後だったため、X駅は、なおさら茫漠とした土地に思えた。そう、街というか、土地。駅に駅ビルはないし、カルディもないし、成城石井もない。スターバックスもない。ミスタードーナツとモスバーガーはあるが、マクドナルドは閉店済み。洋菓子チェーンの直営店はあるが、個人営業のパティスリーみたいなものはない。私の生まれ年からここにあるという某スーパーを取り囲むようにマンションと団地の群れが広がり、その中を走る大通り沿いに、コンビニの看板が点在している。住宅はどれもビッグコミュニティなうえ見渡す限りびっしり集中しているので、「郊外」ともちょっと違う感じだ。地球に住めなくなった人類たちが作り上げたコロニーに降り立った、宇宙旅行者の気分だった。
物件のたたずまいはたしかに素晴らしく、エージェントさんが推す理由はよくわかった。二度内見し、契約を決断。それでも、本当にここでいいのか悩みに悩んだ。契約当日、四ツ谷にあるエージェントの事務所で手続きを済ませた直後も「ローン審査がとおらなければ、ここに住まないこともあり得る……」「あと手付金を放棄して解除するという手がある……」とぐじぐじ考え、X駅に足を向けた。天気が良かったので、駅のそばにある川に行ってみることにした。目を見張った。紫、ピンク、黄色。川の脇に、色とりどりの花が咲き乱れていたのである。そういえば、季節は春のさかり。コミュニティガーデンというもので、地域のボランティアのみなさんが川沿いの緑地で花を植え育てているのが、ちょうど満開になったらしい。契約前に内見した時とは印象が全く変わっていた。はなやかな色に囲まれて、川の水面もいきいきと見えた。
よく考えたら、川のこと、好きだ。かなり好感を持っている。大学から住んでいる実家が荒川のそばにあり、在学時は、何も持たずに荒川まで歩き、荒川を見たら折り返して帰ってくる、という形で運動をしていた。ロンドン留学中も、1ヶ月だけ川のそばに暮らしたのを思い出した。学生寮に住める期間が滞在期間よりも短く、差分を埋める形でのマンスリーステイ先に選んだのが、川の真横だった。東ロンドンにあるブロムリーバイボウという駅のSpringer Courtというフラットで、リー川というテムズ川の支流と、そこからさらに枝分かれしたボウクリークに挟まれた、股のような場所にちょこんと建っていた。まさに郊外という感じのエリアで、遊ぶような場所は何もなかったけれど、駅に行く途中、水面や川沿いの木、係留された舟を眺めるのが心地よかった。西ロンドンで映画を見ていて終電を逃してしまったロンドン最終日、Google Mapに指示されるまま、細くてうねうねした真っ暗なクリークの間をシェアサイクルで疾走したのはめちゃくちゃ怖かったけど。
川のどういうところが好きなのだろう。ちょっと見ているだけでも、時間の経過が感じられる風景がいいという気がする。方丈記に「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」とあるけれど、まさにその通りだなあと思う。ゆっくりと確実に時間が過ぎていること。何ひとつ同じままとどまってはいないこと。それを、急かすのでも脅すのでもない形でじんわり教えてくれるのが、川だ。なんか焦ってたなーという時には落ち着くことができるし、悩んでても仕方がないなーという時に背中を押してくれた記憶がある。川に「チェックイン」することは、私にとって、とびきり手軽なマインドフルネスだ。ソウル、京都、ベルリン、パリ、ロンドン。そういえば、繰り返し旅行に行っている都市は、どこも中心に、大きな川を擁している。
そうか、江東区の「江」って、川のことじゃん。住むと、川の東の民になれる。橋をくぐると、「江東区立中学校カヌー部」と書かれた横断幕がはられたカヌー置き場があった。マンションと川の間にある公園には、小さな子供連れのインド系の家族がひと組きり、ピクニックシートに寝っ転がって、半裸で日光浴を楽しんでいた。人が少ない、「ないほうの」江東区だからこその、牧歌的な光景。マンションに入り部屋に上がって、リビングの窓から外を見る。さやさやと音が聞こえてきそうなほどの、一面の緑が広がっていた。
住んでまもなく半年を迎える。たまに心もとなさはあるものの、きちんと気に入っている自分がいる。物件の契約直後、「どうしよう、Google Mapで調べたら、近所に眉サロンがない!!!」と親にパニックLINEしていたのが微笑ましく思える。
まず、とにかく駅から近い。駅徒歩5分というふれこみだが、私の部屋の位置からだと、青信号のタイミング次第では、3分で着く。こんな駅近に程よい予算で物件を買えたのは、X駅が人気すぎないゆえである。
駅前に人が少ないのもありがたい。住んでいる人間はかなり多いし、朝の電車はそれなりに混んでいるのだが、人が渋滞しているような光景は一度も見ていない。駅前に商業施設がないため、一箇所に人が集中しないのだ。パチンコ屋がないのもかなりいい。パチンコ屋があると、なんとなく騒がしいし、駅のそばにアニメキャラとゴテゴテしたフォントを多用したポスターが貼られるしで、移動中の視界ががちゃがちゃして苦手だ。もちろん、観光客もほぼいない。最近は新宿、渋谷、池袋といったターミナル駅に出向くと、あまりの人の多さに具合が悪くなることが増えてきたので、この選択は本当に正解だったなと思う。人混みに遭遇することなく生活が成り立つのは、江東区の美点である。
そして、やはり川はいい。暮らすうち、最寄りの川以外にも、3つほどの川が徒歩圏内にあることが判明した。動物病院や習い事に行く際バスに乗っていると、窓がぶわーっと青くなる瞬間があって、とても気持ちいい。水鳥も見かける。リノベーション工事の関係で住み始めたのが11月だったので、しばらく灰色の風景とともに暮らしていたのだが、ようやく窓の外に芽吹きの気配が感じられてきた。
今日、川沿いのカフェにコーヒーを買いに行ったときに眺めたら、ソメイヨシノの枝についたつぼみがぷっくり太り、濃い桃色に色づいているのを確認できた。朝、コーヒーを買うついでに川沿いのソメイヨシノの蕾の様子を確認するなんて! 人生で初めてした! ひとりで感動してしまった。
今週は、友人が家にやってくる予定がある。3組も。それまでに桜、咲いているといいなあ。

平成元年、東京生まれ。女子校とボーイズラブで育った文筆家。オタク女子ユニット「劇団雌猫」のメンバーとして活動。オタク文化、BL、美意識、消費などに関するエッセイ、インタビュー、レビューなどを執筆する。単著に『沼で溺れてみたけれど』(講談社)、『それでも女をやっていく』(ワニブックス)など。