まだまだ大人になれません

この連載について

30歳過ぎたら、自然と「大人」になれると思っていた。
でも、結婚や出産もしていないし、会社では怒られてばかり。
友達を傷つけることもあるし、恋愛に一喜一憂しているし、やっぱり自分に自信が持てない。
「大人」って何なんだ。私ってこのままでいいのか。
わかりやすいステップを踏まなかった人間が、成熟するにはどうしたらいいのか。
35歳を迎えた兼業文筆家が、自意識と格闘しながらこの世で息継ぎしていく方法を探す等身大エッセイ。

第3回

ただいま水星逆行中

2024年12月20日掲載

“「水星逆行」のフレーズを、最近よく耳にする機会が多くなったと思いませんか? 実はずっと前から存在はしていたのですが、デジタル化の普及により顕著に影響を受けるようになった昨今、私達も意識せざるを得なくなりました。そこで逆行をポジティブに利用し、心豊かな日々を過ごすためのヒントをお伝えします!”
(2024/11/24 ELLE Girl占星術師Hirolinaコラムより引用)

水星逆行。そんな四文字を当たり前に口にするようになったのは、一体いつのことだっただろうか。10代の頃は、明らかに知らなかった。20代の頃も使っていない気がする。30代になってから、気づけば口に馴染んでいた。

こういう疑問を持ったときは、LINE内のメッセージ検索をするのが早い。2012年以降の私のライフログが全て残されている。「水星逆行」と「水星の逆行」で表記揺れが起きそうなので、「水星」だけで検索しよう。す、い、せ、い、水星。

確定ボタンを押すと、ヒットしたのは37件の「水星」。うち5件は『機動戦士ガンダム 水星の魔女』のことだったけれど、人のメッセージも含めて残りの32件は、「逆行」とセットで使われていた。

人から送られてきた「水星」の最古は2017年。劇団雌猫メンバーであるユッケさんからの、「今日から水星、順行に戻るよ」というものだった。

自分LINE史上最初に打ち込まれた「水星」は、2021年6月24日のもの。ミドサー女性5人のグループLINE「リズベット」宛てに投稿されていた。

“5月に健康診断でtatsuo nagahataでオーダーして作ったオパールのリングなくしてめちゃくちゃ落ち込んでいたのですが”

“今日生理になって、会社においていたポーチ(健康診断の時に持っていっていて、そこに指輪を複数入れたはずなのにオパールだけマジで見つからなかったので落としたと思い込んでいた)からナプキンを取り出したら”

“オパールのリング出てきた…”

“今日から水星逆行終わったんですよ”

“水星逆行やばいなと思った…”

(うわ〜と泣きながら走るいぬのスタンプ)

これまで「水星逆行」という言葉を知らなかった人にも用例が伝わっただろうか。ようは、なんか思うようにいかない期間のことです。

さすがにざっくり言い過ぎたので、一介の占い好きミドサーとして、もう少し丁寧な説明を試みる。

まず土台には、天文学上の現象がある。惑星というのは一定の方向で太陽の周りを公転しているのだけれど、同じく公転している地球から観測したときに、見かけ上、本来の公転の方向と逆向きに動く期間があるらしい。これが天文学上のナレッジとしての「逆行」。たしかに学生の頃、地学の授業とかで習ったことがある。これに、「惑星の逆行中は、その惑星が司るテーマに関するトラブルが起きやすい。水星の場合は、通信や移動、コミュニケーションに関するトラブル」という意味づけをしたものが、西洋占星術のナレッジというわけだ。

西洋占星術も天文学と同じくらい歴史ある分野なので、これはこれで、なかなか古いナレッジのようだ。でも、少女漫画誌やファッション誌の巻末で、星座占いやおまじないのコーナーを貪り読んでいた頃、こんな概念を見かけた覚えがまったくない。また、どの惑星にも逆行期間があるわけだけど、「土星の逆行」や「木星の逆行」が話題になっているのもあまり聞いたことがない。一応、「土星逆行は自分自身を見つめ直す期間!」みたいなネット記事は発見できた。でも、「土星逆行始まった〜」と友達にLINEしたくなるインパクトはない。水星逆行ばかりがこのところ、急速に普及しているのだ。やはり、冒頭のコラムでも書かれているとおり、水星のテーマが、「デジタル化の普及」と噛み合った可能性が高そうだ。そういえば私も、「LINEを未読スルーする相手への対処法!」みたいなネット記事を貪り読むなかで、「水星逆行のせいです。終わるまで待ちましょう」という方便に出会ったのだった。

思い出した。私が「水星逆行」を使い始めた2021年の春は、まさに、インターネットで知りあった男にどハマりして振り回され、LINEの既読/未読、返事やスタンプの内容から逐一相手の気持ちを類推して、頭がおかしくなりそうな時期だった。というか多分おかしくなっていたので、いつもよりも大切なジュエリーの管理が甘くなったり、他にもいろいろものを紛失したり、ベッドから起き上がれなくなって会社を休んだり、結果的にメンタルクリニックのお世話になっていたのだろう。なるほどね。

もちろんエビデンスはない。水星の逆行がLINEコミュニケーションを乱すなどという現象を科学的に確認した論文があるなんて話は聞いたことがない。もう、占いというか、スピリチュアルというか、迷信の領域である。科学メディアの総本山・ナショナルジオグラフィックも、水星逆行の解説記事を出しており、偽科学と断じていた(ナショナルジオグラフィックが水星逆行を取り上げていること自体が、この言葉の流行ぶりを物語っているが)。

正直、私だって信じてはいない。ここまで長々「水星の逆行」を語っておいて、信じていないと言っても信じてもらえないかもしれないが……。

でも。便利なんですよ、水星逆行。

まず適用範囲が広い。何せ、通信と移動、コミュニケーションである。LINEがこない、物をなくした、言葉の行き違い、仕事の停滞、交通インシデント、パソコン壊れた……。恋愛に限らず、人と人、人とモノの間に起きるトラブルは、何かしら結びつけることができてしまう。私と一緒にグループLINEをしている女友達たち(別に恋愛に狂っていない)も、何かうまくいかないことが重なるなあという時には、「【悲報】8月ほぼ水星逆行」とか「飛行機欠航で全然帰れない! 水星逆行やば」と、こまめに水星逆行を持ち出してくる。

そのような広い物事に対して「水星逆行のせいだ」と思えると、何がいいのかというと……即時のジャッジを控えさせてくれるのがかなりいい。20代の頃、いや30歳くらいまでは、何かショックなことが起きた時に「自分のせいだ!」「相手が悪い!」とジャッジして、自責したり他責したりしがちだった。今も引き続き、何か思い通りにいかないことがあるとそういうネガティブ反射神経は働く。でも、「そういえば、水星逆行中みたいだな〜」という思考が挟まると、回数が減ったり、速度が緩やかになったりした。

たとえば「LINEがいっこうに返ってこない!」というケース。「私のメッセージが悪かったのかな……」のような自責も、「返さない相手が非常識だ!」という他責もあり得るけれど、本当のところは「相手は何も考えていない。そしてそれは別に相手が非常識ということではなく、LINEに対する感覚の問題にすぎない。それかお互いの優先順位が噛み合ってないだけである」ということは多い。

人間関係のトラブルというのは、基本的に「考えすぎ」によって悪化すると感じる。相手に直接聞かず、あれこれ類推したり、一人で結論づけたりすると、大抵的外れだからだ。なので、考えすぎてネガティブに陥ったり、間違った結論づけで余計なアクションに走りがちな人間にとって「そうか、水星逆行のせいか」という考え方ができるようになったのは、福音なのだった。そう、思考や行動を「保留」させてくれるのが、水星逆行の美点だ。そして、水星逆行の期間が終わる頃には、大体のことはどうでも良くなっているのである。

水星逆行が起きるのは年に3回程度。なんかうまくいかないなあ……と思って調べたときに、別に水星逆行中ではないことも、まあ頻繁にある(繰り返しておくが、別に科学的根拠はない概念である)。けれど、「水星逆行かも?」という、自分を含めて人間がどうにかできる領域ではないところに責任を押し付ける作法(?)を学んだことで「まあ、水星逆行ではないにしても、そういうタイミングなんだろうなあ」と落ち着けるようになった。考えてみると、もしかしたら昔って、みんな、もっとポジティブ思考だったんじゃないだろうか。だって、責任の押し付けどころが、今よりもたくさんありそうなのだ。「天気が悪くて、手紙が届くのに時間がかかってるのかもしれないな」とか、「電話全然してくれないな……。まあ今月あんまりお金ないのかもしれないな」とか。インターネットが発達させたもの=ネガティブ思考、という仮説はかなり成り立ちそう。

さて、なぜこんなに水星逆行について長々と語ったかと言いますと……、ちょうど今週終わったんですよ、最新の水星逆行が。

今回の水星逆行では、これまで以上に心折れそうなトラブルが降りかかった。不動産取得税の納付書を紛失して支払いが数日遅れたり、買ったばかりの照明のガラスシェードが開封即割れたり、それに慌ててパソコンでカスタマーサポートとやりとりしている際にちょうど沸いた風呂にパソコンを持ち込んでしまい、そのまま打ち続けた結果、水濡れでパソコンのキーが「tttttttttttt」と自動打鍵する状態に陥ってログイン不能となったり……。仕事でも担当案件が炎上してばたついていたのに、その合間にどうにか時間を作って取材予定の映画の試写に行ったところ、その翌日に「ごめんなさい!あの取材、なくなりました」なんて連絡が来た。土曜の夜、もうこれ以上のことはないだろう、明日はゆっくり休もうと、ふとかたわらの猫に目をやったら、何やら変な咳をしていて、卓上の花が大量に齧られており、何らかの中毒を疑って夜間外来に駆け込んだり……。幸い花に毒性はなく猫もピンピンしているが、6万円近い出費となった。

はい。並べてみると「それは水星のせいではなく、お前の不注意なのでは?」ということばかりですね。特に猫の誤食は、徹底的に自責しなければと思う件だった。会社にリモート切り替えのお願いを出し、年末〜年始に決まっていた予定をあれこれ減らして、猫と一緒に過ごしつつ自分も休める時間をとれるように調整した。

一つひとつのトラブルには直接的な原因があり、反省して改善すべき点は多々ある。それは重々わかっている。それでも全部を正面から同じ重さで受け止めていると、生活はまわっていかない。自分の人生を一人きりで背負っているとなおさらだ。落ち込みすぎたり慌てすぎたりして疲弊すると、さらなる失敗が呼び込まれて逆効果のことが多い、と35年生きてようやく学んできた。

そんなとき、暗い宇宙をひそかに逆行している水星を思い浮かべて、一呼吸置く。水星、というのがやっぱりいい気がする。木星でも土星でもなくて。太陽系で最小の星。太陽の一番近くを回る惑星。

言い訳しないのが大人だ、という話も聞く。でも私の場合は、いったん水星のせいにできるようになった自分のほうが、なんでも自分のせいにしていた頃より、大人だなあと思う。

まあ、「師走のせい」でもいいんだけどね。

著者プロフィール
ひらりさ

平成元年、東京生まれ。女子校とボーイズラブで育った文筆家。オタク女子ユニット「劇団雌猫」のメンバーとして活動。オタク文化、BL、美意識、消費などに関するエッセイ、インタビュー、レビューなどを執筆する。単著に『沼で溺れてみたけれど』(講談社)、『それでも女をやっていく』(ワニブックス)など。