30歳過ぎたら、自然と「大人」になれると思っていた。
でも、結婚や出産もしていないし、会社では怒られてばかり。
友達を傷つけることもあるし、恋愛に一喜一憂しているし、やっぱり自分に自信が持てない。
「大人」って何なんだ。私ってこのままでいいのか。
わかりやすいステップを踏まなかった人間が、成熟するにはどうしたらいいのか。
35歳を迎えた兼業文筆家が、自意識と格闘しながらこの世で息継ぎしていく方法を探す等身大エッセイ。
「りんご農家」か人間以外
月曜に急に美人になりたくなり、Amazonで「美人」とつく本をたくさん買ってしまった。
30代も半ばになって、「美人になりたい」と書いていることが、もう恥ずかしい。恥ずかしいを通り越して、愚か者だろうと自分で思うし、人も思うだろう。「美人」などという言葉を当然のように使い、「なりたい」という欲望を表明すること自体が、ルッキズムを煽るこの社会の策略に加担することになりかねないのはわかっている。
この文章が世に出る前から、頭の中ですでに群衆が私に石を投げ、火炙りにしようとしている姿が目に浮かぶ。浮かぶは浮かぶのだが、私は事実ルッキズムにばりばりに支配されており、なおかつ虚勢をはるのが苦手なため、「支配されていません」という顔で平然としていることができない。
たまに私の本や活動についてインタビュー取材をしてもらう機会がある。大変ありがたいのだが、インタビューで「人となり」にフォーカスする際には、写真が必須ということになっている。ラジオやポッドキャストなど、顔を出す必要がないはずのコンテンツでも「SNS用の写真を撮らせてください」と言われる。ほぼ100パーセント言われる。匿名の書き手が、後ろ姿や被り物だけで取材に応じているのも見るは見る。オタク女子ユニット「劇団雌猫」としての活動については、「匿名のオタクたちの声を集めて企画にする」というコンセプトだったのもあって、猫の仮面をかぶってメディアに出ていた。しかし、やはり顔を出した写真という「要素」があるほうが、作り手としては記事を構成しやすいし、読み手としては記事を理解しやすい。そういう理屈は、私も編集者だったのでわかってしまう。それで、個人の書き手としては、顔を出しての写真撮影に応じてしまう。
しかし確認のため送られてきた写真を見ると……こんな人、私知らない!となる。毎日、身だしなみをととのえるときに見ている自分の顔と、違う。もちろん、全然違うということはない。なんだろう、自分を模倣したエイリアンを見ているような気分。左右反対になっているのもあるし、自分の顔の大きさとか、鼻の丸みとか、肌の赤みや毛穴の黒ずみとか。でも「それ」は、私の偽物ではなくて、私自身なのだ。その事実に、身も心もへにょへにょになってしまう。
最近はそれに加えて、過去の自分の写真と現在の自分の写真のギャップにも、ショックを受けるようになってきた。目が明らかに小さくなったし、顔が明らかにくすんでいるのだ。姿勢も悪い。
世は令和。年齢ゆえの血行のよさとたるみのない皮膚という最強の武器を持つ10代女子たちさえ、なお自分の容姿を“映え”させることに余念なく、日々メイク技術、撮影技術、加工技術を向上させている時代だ。タイムラインは、オタクが放流する推しアイドル・俳優たちの美麗な写真と、たまにレコメンドで混じってくる整形垢の施術レポ、そして、どこの誰だかよくわからないがアイコンを見る限り容姿に自信がありそうでていねいな暮らし(おしゃれな部屋とかカフェとか旅行とか)に実際おしゃれそうな横顔をぼんやり写し込んでフォロワーを得ている人々の投稿であふれている。そこに、フルタイム労働で疲弊しながらもどうにか“人間”の体をなして取材に応じたミドサーの自分の写真が現れると、「やめろやめろ」と大声で叫びたい心持ちにかられる。顔が水に濡れたアンパンマンの気分だ。他人の顔じゃなくてもいい。せめて、新しくて、疲れていない私の顔がほしいよ。
恐ろしいのは、本当に欲しいのだったら手に入れられるはず、という精神がまかり通っている世の中だということだ。メイク技術も撮影技術も加工技術も発展しているし、整形だってある。周囲のアラサーに加齢の悩みを語ったら、何人かから、HIFUやレーザーをすすめられた。アンチエイジングとか美魔女なんて言葉を使うまでもなく、ヘアサロンやマッサージの延長のように、美容医療が生活に入り込んでいるのだ。
技術が、お金があれば手が届く時代だからだろうか。思い立って手当たり次第購入した「美人本」「美容本」は、かえって、生まれつきの容姿や、具体的な美人像に言及しないものが多かった。「美人はマインド」「美容はメンタル」と唱える本ばかりなのだ。私がそう思いたいからそういう本に引き寄せられているのかもしれないが、現実にそれらの本のレビュー評価は高い。かいつまむと、「美人」とは自己プロデュースであり、誰でも美人になれる、ということが書いてある。どんな自分になりたいか、己の欲望を徹底的に掘り下げること。今の自分のうち、自分が好きに思える点、嫌いに感じる点を明確にすること、が「美人」になるため、「美容」をきわめるための必須のステップとして置かれている。
こうした本を読んで、たしかにポジティブな効果はあった。「私って私の顔とか見た目嫌いすぎて、あんまりよく見てなかったかもしれない」「よくよく見ると、悪くないところもあるじゃん」と考えられるようになったのだ。過去に目にしてぎゃーーとなった他撮り写真のことも、何度も見ているうちに、そんなにおかしくないかも……と思えるようになった。収穫といえば収穫だ。
こんなこともあった。「目を大きくしたい。今更だけど、今こそ二重整形なのでは」と思って、とある大手美容整形クリニックのカウンセリングを申し込んだ。しかし、前夜に自分の写真と、鏡に写した自分の顔を何度も見返しているうちに気づいてしまった。
「いや、もしかして結構二重では?」「単に飲酒を控えて運動を行い、むくみを解消したらもっと二重がくっきりするのでは?」
クリニックまでは足を運び医師のカウンセリングは受けたのだけれど、何もしないと決めて帰った。元々、インストールしていた大手クリニックのスマホアプリに二重整形の施術に使える2万5000円引きのクーポンが送られてきていたのも、心動かされていた大きな理由だった。「えっ、5000円ならさすがに受けてみてもいいのでは」と思ってしまったのだが、蓋を開けたらあの手この手の理由をつけて10万円以上のプランを勧められたのだった。断ったら、「今日の担当医が10万円プランの適応と診断を下した以上、今日はこれしか受けられない。でも、別の医師のカウンセリングを再度受けてもらえば、最安のプランでも適応になることはある」と引き止められた。これは私だけではなく、他の友人も経験したと言っていたので常套手段らしい。おそらく高校生などにはすんなり最安のプランを適応するのだろうが、それが整形の敷居を低くして、さらに高額な整形へと誘うのだろう。まるでゲートドラッグのような手口だと思った。私が自分の顔を「よく見る」ことに目覚めていなかったら、のほほんと次回の予約を取り直していたかもしれない。
とはいえ、「美人は、現在自分を知り、なりたい自分をつかむことから始まる」論は、危うい論法だなとも思う。自分の顔を「見」続けた結果、「本当に」整形の必要があると「冷静に」判断することを否定しないからだ。まあ、当然か。「美人」という概念を否定してない世界の論法だし。「美」に対して過剰に価値を置くことは、自己を「向上させる」ことが当然だというネオリベラリズムの価値観と緊密に結びつき、すさまじいパワーを得てしまっている。
書き手の顔出し問題に話を戻そう。そもそも、別に顔出したくないならそう言っていいし、言ったほうがいいというのはわかっている。実際にそうするべきだという強い意志を主張している書き手もいる。私の場合、自意識と実用の折衷の結果、写真に写った自分のコンディションやその時のメンタルによって、「記事中では使用してもいいですが、記事のサムネイルには顔出ないようにしてもらえますか」とお願いすることにしている。
書き手の容姿は、エンタメ的に消費され、品評の対象になる。特に女性ならなおさらだ。顔を出すのが当然という風潮は、見た目からあれこれ類推され見た目を消費されて当然、という押しつけだ。マイノリティや、容姿に何がしかの社会的スティグマを抱えている人間には抑圧や不利益もある。「顔出し当然の風潮を破壊するために、顔出しをしない」という強い意志を持つ人のことは尊敬する。
でも一方で……スーパーマーケットに行くと、しいたけ農家やりんご農家が「私が育てました」みたいな顔写真を出しているじゃないですか。あれを見て別に、「美女が作っているりんご」は選ばないですよね。でもなんか、「生産者の顔」が見えると親しみが持てる感じ自体は、自分にもある。あの親しみが、悪いことだとは思えない。そこに出されているりんごと、それを作った人の身体とか生活は、やはり接続している。ああいう「生産者の顔」くらいの、なんでもない感じで、顔を出せるようになりたい。本当は。私の文章と私の身体と私の顔は切っても切り離せなくて、(出したくない人が出さない自由は守られるべきだが)、だから、さらっと顔を出せる自分に憧れている。
過去にインターネットで「ブス」とか「肌が汚い」とか書かれたことがある。あれを書いた人たちにはムカついているし、一時期それで自分の顔への嫌悪が増したこともあった。でも彼女たちのこと、かわいそうだとは思うけど、憎くはない。私と同じく、この世のルッキズムの哀れな犠牲者だから。「他人からどうこう言われるとか気にしてない角度のキメ顔ではない写真をプロフィールに使っている中年男性の書き手」とかのほうが、お前らはずっと気楽でいいなと思ってしまう。ルッキズムの葛藤から最初から最後まで無縁でいられる(ように見える)人間のほうを、私はちょっと憎んでいる。でもよく考えたら、彼らこそが私が思っている「りんご農家」ということなのか。
私も早く、りんご農家か、人間以外になりたいです。
平成元年、東京生まれ。女子校とボーイズラブで育った文筆家。オタク女子ユニット「劇団雌猫」のメンバーとして活動。オタク文化、BL、美意識、消費などに関するエッセイ、インタビュー、レビューなどを執筆する。単著に『沼で溺れてみたけれど』(講談社)、『それでも女をやっていく』(ワニブックス)など。