30歳過ぎたら、自然と「大人」になれると思っていた。
でも、結婚や出産もしていないし、会社では怒られてばかり。
友達を傷つけることもあるし、恋愛に一喜一憂しているし、やっぱり自分に自信が持てない。
「大人」って何なんだ。私ってこのままでいいのか。
わかりやすいステップを踏まなかった人間が、成熟するにはどうしたらいいのか。
35歳を迎えた兼業文筆家が、自意識と格闘しながらこの世で息継ぎしていく方法を探す等身大エッセイ。
Life is Beautifulって言いたい女
“Life is Beautiful.”
有給休暇をとった月曜の午後。渋谷のよく行く喫茶店でしばらく放置していた日記を書き、セレクトショップをひやかした帰りに、それは目に飛び込んできた。
幼少のみぎりから、街中の看板に書かれた文字を読み上げては親を恥ずかしがらせていた私。35歳になっても、持って生まれた注意欠陥的な気質は健在だ。読み上げこそしないが、視界に入るテキストがやたら気になってしまう。
商業的な広告はまだいい。何を伝えたいかがはっきりしているので、意味を受け取ってから興味をうしなうまでに一秒もかからない。厄介なのが、街行く人々の服である。深い意味があるのかないのか不明な英文が書かれたTシャツを見るたびに、脳が情報処理に追われる。火曜に見かける“SUNDAY MORNING”とか、電車でスマートフォンをいじっている人の胸に書かれた“ENJOY THE LITTLE THINGS”とか、そういうの。
「日曜の朝が恋しいってこと?」とメッセージを分析したり、「まずは車窓の風景を楽しんでは?」と着用者との調和を勝手にジャッジしたり。あるいは、「この、スマホをいじっている以外は無害な人のTシャツひとつにイライラしている自分は、小さなことをエンジョイできているだろうか……?」と内省したりする。ものによっては、そもそも文法やスペルが間違っていることもある。最近はもう、文法が正しいのを確認して、ホッとするようになってきたほどだ。
“Life is Beautiful.”も、通行人の服に書かれていたテキストだ。その人は、MIYASITA PARKを背に信号を待っていた。入道雲のようにもこもこしたブルゾン。腰のあたりに、色とりどりの糸で雨あがりの虹みたいに刺繍されていたのを、後ろを通りがかった私が見かけたというわけだ。
あまりにも堂々とした15文字。なんだか感動した。気軽に着倒すような服ではなく、ブルゾンというのもすごい。
とっさに「若さっていいなあ」と思った。「人生は美しい」と心から思えて、飽きもせず身にまとうことのできる人のことを「若い」と、判じる自分がいた。
しかし。驚きは、その次の瞬間にやってきた。15文字からなる虹から視線をあげて、その人の横顔を見たとき、頭をガツンと殴られたような気がした。あっけらかんとしたグレイヘア、眉間にうかがえる皺、眼差しの落ち着き。どう考えても、私より一回りは歳上の女性だ……!
一瞬横を向いていたその人はすぐに信号へと向き直り、背後で勝手に驚愕している私に気づくそぶりはこれっぽっちもなかった。信号が青になると、原宿方面へと歩いて行ってしまった。私は口の中でもごもご「Life is Beautiful…」とつぶやき、慄きながら渋谷駅と向かった。
人生は美しい。
そう思えたことがいまだかつてない。「おもしれ〜」とか「意味がある」と感じることはある。風景や他人の心のありようが「美しい」と思うこともある。でも自分の「人生」が「美しい」は、一度もないと断言できる。いまだかつてないということは、これからもないということだと思っている。あの人は、人生のことをずっと、美しいと思ってきたのだろうか。思っていないことや、思いたいことを身にまとう人もいるだろうが、そういう人には見えなかった。
「美しい」はさまざまな価値観をともなう言葉だから、あまり積極的に使いたいわけではない。10代も20代も、さんざんルッキズムに苦しんだから、「美しい」と言う言葉を衒いなく使っている人を見るとまぶしくなってしまう。でも「人生は美しい」だけは、なんだか、すべてを突き抜けている言葉だなあと思った。通りすがった彼女のたたずまいも影響しているだろう。自分の人生のこともだし、あらゆる人生に対して、今、間違いなく、そう思っているように感じられた。
彼女の人生はどのように美しいのだろう。愛しあっている人がいるのだろうか? 子供がいるのだろうか? 仕事は成功しているのだろうか? 両親は健在だろうか? 友達はたくさんいるのだろうか? それなりに仕立てよく見えるブルゾンだったので、お金に困っているとかはなさそう。たぶん、渋谷に出やすい場所に住んでいるだろうし。でも、パートナーがいてもいなくても、子供がいてもいなくても、ジグザグのキャリアを歩んでいても、もうすぐ貯金が底をつくのだとしても、「人生は美しい」と言い切っていそうな人だった。
私の人生は……。ぐるぐる考え出したら、崖崩れのような空腹がやってきた。Uターンして、元来た道を戻り、坂をのぼって、クアアイナに入る。最初の会社が渋谷にあったとき、よく来ていたハンバーガーショップだ。当時はなかったセルフレジをぽちぽち操作し、チーズバーガーセットを頼む。「人生が美しい」と言い切れる人と、私の違いはなんなのだろうか。いや、わかっている。パートナーがいるかどうかでも、子供がいるかどうかでも、仕事が成功しているかどうかでもない。もっと本質的に、自分の人生を肯定しているかどうかだ。それはつまり、自分で自分に責任をとってきたかどうかじゃないかと思う。突き詰めれば、そうだ。「大人」だ。運ばれてきたチーズバーガーに思い切りかぶりついたとき、そう思った。
「フランシス・ハ」という映画がある。現在は映画監督として活躍するグレタ・ガーウィグが演じる27歳のフランシスが主人公。バレエカンパニーの研究生であるフランシスは愛嬌たっぷりで友達も多い。ニューヨークで暮らすだけのお金を得ているし、彼氏もいるし、最高の親友ソフィとルームメイトだし……。しかし、ソフィからルームシェア解消を告げられて急展開。彼氏とは微妙ないざこざで別れたばかりだし、どうにか転がり込む先を見つけたけれど、カンパニーのショーのメンバーから外され、家賃が払えない。よりどころにしていた足場たちが、別に足場でもなんでもなかったことに気づき愕然としたフランシスは、住みかを探すなりゆきで、自分探しの旅に出ることになる。とてもチャーミングな映画なのだけど、やけに印象に残っているのが、作中、フランシスが初対面の人との晩餐で年齢を伝え、戸惑われるというシーンだ。
「あなた、ソフィと同い年なの? もっとずっと歳上に見えるわ。でも、大人っぽくはないのよ。老けて見えるってだけで……」
あくせく働いてきたソフィのほうではなく、ふわふわ生きてきたフランシスのほうが老けて見える、というやりとりは20代の自分に、衝撃とともに「なんかわかる……」という実感をあたえた。肉体と心のずれが、かえって肉体の経年を強調するような感じというのだろうか。わたしもきっと、フランシスのようになるだろう、と思いながら見ていた。
バレエ・カンパニーで踊り続けていたフランシスの生活は、はたから見たら「自分で決めて好きなことをやっている」人生に見えただろう。わたしもずいぶん、好きに生きているとは思う。フルタイム会社員として働いて、自分一人の生活費を稼いで、ごはんつくって、つくれないときは買って、寂しいなと思ったらマッチングアプリで恋人を作って、合わないなと思ったら別れて、合間に文章を書いて、本なんかも出して、大学院留学もした。いろいろなことを自分で決めて生きてはいるし、それなりに充実しているのだけれど、これでいいんだっけ?と思ったりする。これでいいんだっけ?と思うということは、納得がいっていないということだ。留学したけど帰ってきちゃったし、フェミニズム勉強したけど会社ではフェミニズムのフェの字も出してないし。「戦略的に兼業です」というような顔をしているし実際フリーランス向いてないとも思うけど、会社の期末評価で一喜一憂して占いに行こうとして友人から「メンクリ行きなさい」と言われるし、書き手として独立してバリバリ活躍している人とか見ると焦って占いに行こうとしてやはり「メンクリ行きなさい」と言われる。でも体が健康なんだからいいじゃん、と思っていたけど、健康診断でDがついたり、寝ても寝ても眠い日々が増えて、「運動部に入って体力つけておけばよかった」とか後悔する。今食べているハンバーガーも、とても美味しいけど、サラダとか食べるべきだったなと思いながら咀嚼している。いつでも「自分のしなかった選択」が脳内にちらついていて、自分のした選択がかすむ。選択したことに、だんだん自信がなくなって尻すぼみになる。
もしかしたら、選択なんてできていないのかもしれない。流れ流れてここにいるのだ、という感覚が強い。そのくせ、今からできる選択の幅が狭まっていることにいつも焦っている。だって私、結婚しないって別に決めてないし、出産しないって別に決めてないし、この会社に骨を埋めるとも決めてないし、兼業でずっといくとも決めてないし、東京に住み続けるともX続けるとも決めてないのに、ぜんぶぜんぶ、流れ流れて既成事実化している。いつも途方にくれている。今年は35歳の節目に中古マンション買ってみたけど、その物件だって、自分で「これ」と決められなくて、いちばん最初に仲介エージェントさんが推薦してくれたものに決めたのだ。My Life is みっともない。ああ、ポテトを食べたあとの指先がベタベタしていていやだ。
いやだいやだと言っていても仕方ない。そう思う程度には、歳をとった。あと「何にも自分で決めてない」「私の人生ぜんぶみっともない」なんていうのも、それはそれで認知が歪んでいる、ということにも気づいてきた。納得できていない、という自覚があるなら、一つひとつ納得していこう。自分で決めていること、自分で楽しく続けて自分を延命させてくれていることだって、絶対にある。少なくともゼロではないのだから、それを思い出そう。
ハンバーガーショップを出た。無力な子供のふりをしている時間はない。 責任をとってくれる誰かを探す時間もない。見つけよう。言葉にしよう。そうして、Life is Beautifulって言えるようになろう。私の人生の、自分で決めて、自分で選んでいる、美しいところを見つけていこう。自己啓発本を何冊読んでも自己が啓発されていないのは、自分用の処方箋は自分にしか書けないという話なのだと思う。インターネットミームを借りて、「100日後にLife is Beautifulと言い切る女」っていうタイトルどうかな。いや、100日後はちょっと厳しいかもしれないな……。
フランシスは、部屋探しのすえに、肯定できる自分にたどり着いた。私はというと、文章を書くことにしました。そんなわけで、半端な自分を自分で肯定するための連載、始まります。願わくば、あなたの人生を美しくするヒントにもなりますように。
平成元年、東京生まれ。女子校とボーイズラブで育った文筆家。オタク女子ユニット「劇団雌猫」のメンバーとして活動。オタク文化、BL、美意識、消費などに関するエッセイ、インタビュー、レビューなどを執筆する。単著に『沼で溺れてみたけれど』(講談社)、『それでも女をやっていく』(ワニブックス)など。