2025/08/22-2025/09/04
2025/08/22 金曜日
もう六年、いや、七年にもなるのだろうか。
義父や義母に何かがあると、私か夫が駆けつけて、なんとか問題を解決するというこの生活が始まった当初は、こんなに先が長くなるとは考えていなかった。
しかしそんな生活もひとつの節目を迎える。
意を決して義父と話をした。「お義母さんですけど、認知症特化型のグループホームに入居してもらうのが一番だと思います」
義父は面食らった顔をしていた。突然の報告にならないよう、もうずいぶん前から、幾度となく「お義母さんは24時間介護が必要な状況で、家ではそれができないので、施設に入るべきだと思う」と説明してきた。しかし、それがいざ現実となると、義父にとっては大きな衝撃なのだろう。それは当然のことだと思う。何十年も一緒に暮らし、辛いことも、嬉しいことも、共に経験してきた相手ですから。
どうにかしてこのまま家で暮らすことはできないかと、涙ながらに義父は訴えた。私も夫も「それは厳しいと思う」と、やるせない気持ちで伝えた。義父の一縷の望みは私たちが実家で同居し、義母の介護をすること。そうすれば義父は義母と離ればなれにならなくて済む(それが正解か、はたまた、可能かどうかは別として)。
義父は決してそれを口にすることはないが、彼がそう希望していることは、当然、ひしひしと伝わってくる。でもそれをやってしまうと何もかもが壊れてしまうことを、少なくとも私は理解している。
帰り際義父は、「ワシもそう長くはない」とダイイングメッセージみたいなことを口にしていた。重すぎ。岩か。
2025/08/23 土曜日
義母が入居する予定の認知症特化型グループホームとの契約説明日(実際の契約は30日)。義父からはっきりと承諾を得ないままの、契約決行となる予定だ。まさに「決行」という感じで、私の額には目に見えないエアハチマキが巻かれていたはずである。
入居に向けての説明を受けるが、やらねばならぬことが山積みの状況で、ふと息子たちが保育園に入所したときのドタバタを思い出した。お昼寝布団とか、布団用バッグとか、いろいろと用意したものだ。あの時は新しい世界へと入って行く高揚感があったが、介護施設への入所には完全に逆のイメージがある。なにやら心が重い。
それにしても、保育園用に揃えた荷物はどこにいったのだろう。ずいぶんかわいい布団を用意したのだが、私のことなので、使わなくなった時に全部捨てたに違いない……と考えていて、ようやく思い出した。双子の保育園用お昼寝布団は当時飼っていた犬のベッドにしたのだった……と、こんなことを施設の面談室で、まさに走馬灯のように思い出していた。
ああ、人生。時は瞬く間に流れていく。
2025/08/24 日曜日
買い出し。寝具や下着類は新しいものを用意したほうがいいから、そうしようと、夫と買い出しに出る。女性ものの下着売り場に行き、義母のサイズのものをたっぷり購入したが、「これ、男性ひとりで買い物に来ていたら目立つだろうな」と思った。今はネットがあるから安心な時代だな。
子どもの頃から、慣れない場所で寝ることが出来なかった。学校の行事で宿泊施設に一泊するときなどは、とにかく部屋の隅々が気になって(天井のしみ、壁についた誰かの手の跡、壁とベッドの間にあるほこり)、気持ちが悪くて仕方がなかった。そういうときは、自分の周辺に自分の好きなものを置いて、なんとか気を紛らわせるというのが私のサバイバル術だった。だから義母の居室も、なるべくなら彼女の好きなもので、きれいなもので埋め尽くしたい。
2025/08/25 月曜日
忙しい日々の合間を縫うようにして美容室。「実はね、義母の入居が決まったんよ!」といつもの美容師さんに言うと、「え! それはまた急じゃないすか!」と驚いていた。
「でも、お義父さん、大丈夫なんです? だって普段から相当メンヘラですよね」
「そうなんよ。そっちがむしろ大変で〜」
「うわ〜、なんだかこの先もいろいろある気がしてきたわ〜」
彼女はすっかりわが家の親戚みたいな感じで、すべてを把握しつつ、ドキドキしながら経緯を見守ってくれている。息子さんのYouTube視聴について悩みを抱えているそう。わかるわかる。私も息子たちが小さい頃は、そんな悩みがあった。今はもうすっかり、「生きて家に戻ったらそれでよし」になっている。
2025/08/26 火曜日
朝イチでzoom打ち合わせ。新規翻訳本受注(いいのだろうか)。
中野量太監督作品『兄を持ち運べるサイズに』が、釜山国際映画祭に出品されることになったそうだ。それ、すごくないですか。兄について私が書いた本を原作とした映画が釜山で上映されるなんて、夢にも思っていなかった。
最近、SNSを見ると、頻繁に『兄を持ち運べるサイズに』の宣伝が流れてきて、動画もあるので時折見るのだけれど、「迷惑な兄が……」とか「大嫌いな兄が……」とナレーションされるたびに、兄に対して小さな「ごめん」という気持ちが発生している。今にして思えば、兄は私にとって迷惑な存在でもなく、また大嫌いな存在でもなかった。亡くなった直後はあまりの衝撃だったために、そう感じていたのだけれど。
最近気づいたことがある。私と兄は、互いが、互いにとっての「きょうだい児」だったのではということだ。つまり、私が入院がちで親戚の間を行き来していた兄もまた、私という存在により人生を左右されていたに違いないということ。今までの私にはその視点が完全に抜けていた。私も兄にとっては、「迷惑な妹が……」とか「大嫌いな妹が……」だった可能性は十分ある。兄はそんなこと一度も言わなかったけれど(私は世界に向けて盛大に言い放った)。
2025/08/27 水曜日
久々に、介護の用事がない一日だったので、朝早くから翻訳スタート。本当にありがたいことに、ご依頼くださる出版社がこんな状況の私にもあって(つまり、締め切りに余裕を持たせてくれるということ)、とにかく絶対に最後まで諦めずに作業しなければならないと改めて誓う。
誰に?
わからないが、とにかく誓って一日中翻訳して、死ぬほど疲れた。頭が沸騰しそうだ。でも、翻訳をすると心が安定する。これでいいんだと納得して寝ることができる。
2025/08/28 木曜日
義父に「比叡山延暦寺大霊園」のパンフレットを手渡される。渡された瞬間に、なんというネタを……と、顔がニヤニヤしてしまう。
義父は私が何者か知っているのだろうか? いや、まったく知らないからこんなことをするのだろうけれど、私の正体を知ったら、義父はどう思うだろう。義父は、私に事細かく記録されていることを知ったら怒るだろうか。義父は私がこんな人間だと知ったら軽蔑するだろうか。それとも、義父の想像の範囲を大きく外れている義理の娘を怖いと思うだろうか(怖いよね、普通)。
以前、義父の店(以前、和食料理店を経営していた)まで私のX(当時はツイッター)のアカウントの内容をプリントした紙を持って来た人がいたそうだ。お宅の娘さんはこんなに面白いことを書いていますよと言われた義父は、それを読んだか読まなかったかわからないが、「これはうちの娘ではありません」と堂々と答えたそうだ。「うちの娘はこういうことを書く人間ではありません」とも言ったらしい。
しかし、それは確かにあなたの義理の娘だったと思います!!!
2025/08/29 金曜日
対談で東京。東京駅に到着して、まっすぐ新潮社クラブへ。それにしてもなんとめまぐるしい日々。東京に一泊しようかどうか迷ったが、何があるかわからないし、夕方には対談も終了したので、日帰りにした。さすがに体力が尽きて、どこにも寄り道はしなかった。対談が記事になるのが大変楽しみ。
2025/08/30 土曜日
義母の入所する介護施設との契約日。今日、義母の入所日が決まった。9月6日の14時だそうだ。その日、締め切りが二つあるんだが、どうしよう……。とりあえず、やることはやらねばならんので、契約したあと義母の居室を見せてもらい(素敵な部屋だった!)様々な場所の寸法を測る。運び入れる家具を買うためだ。テレビはどうしようか悩んだけれど、最近はあまりテレビを見る様子もないので、保留とした。リモコンの操作で職員さんの手を煩わせてもいけないしな……という気持ちもある。
私が入居するんだったら、ノートパソコン一台とiPad一台であとは特になにもいらないけど。出来れば犬と行きたいけれど、ダメだろうね。
2025/08/31 日曜日
ヴィクトリア・ベッカムとニコラ・ペルツの嫁姑問題を読み、なんだか心が安定してきた。ポッシュとデイビッドという黄金カップルの長男ブルックリン、愛情とお金をジャブジャブと注がれたはずの長男が選んだ女性は、同じく大富豪の娘ニコラで、若かりし頃のヴィクトリアと同じように美しく、なにより気が強いなんて、もう最高の展開なんだが! と思う私は意地悪過ぎるだろうか。私はチーム・ヴィクトリアです。
2025/09/01 月曜日
歯医者。忙しい日々だが、自分のメンテナンスは忘れないのが(自分で言うなという感じだが)私のいいところだ。今日は歯医者で定期検診。疲れると歯が痛くなったりするのがまさに中年らしくて嫌になるが、実際そうで、最近なんだか歯が痛いので、それを先生に訴えたりした。クリーニングなどしていただいて終了。歯のクリーニングをしてもらうとずいぶんすっきりするが、これはエステのひとつとしてカウントしてもよいのではないだろうか。そんなことを考えながら家路につき、思い立って以前から行きたかった美容皮膚科の予約を取った。忙しいのに予定を入れるややこしい人になっている。
2025/09/02 火曜日
双子が仲良く遊びに出ている。次男はなぜか最初の一台に、いかつい外車を選んだ。ちなみに、突如としてローンを組んで購入してきたために、よく考えるようにと注意喚起できなかったのが痛恨の極み。私はたいそう驚いてしまったのだが、その車体の低い、エンジンをかけるとブロロロロと音の鳴る車に双子が乗り込んで去って行く姿を見ながら、人生についていろいろと考えた。
中学生でトレンチコートを着ていた双子は、ローンで買った外車で遊びに出るようになった。私はきっとあっという間に老人になる。
2025/09/03 水曜日
『兄の終い』が今月末に文庫になって発売されるが、昨日、部決(発売部数を決定すること)だったらしい。担当編集者から部数の報告があった。なかなかの部数で熱い。
2025/09/04 木曜日
ふと気づくと今年も残すところ三ヶ月である。翻訳、大丈夫なのかと大変不安になる。去年からずっと取り組んでいる本は相変わらず難しく、受注している他の本は手つかずのものもあり、そのうえエッセイの連載もあり、このままでいくと私はただの無責任に仕事を受注する女になる可能性があるため、来年からは仕事をきちんと管理して、セーブもする必要があるのかもしれない……が、義母が施設に入所したあとは若干の時間が生まれる可能性もあり、そしてそのうえ義父も入所してくれれば、私は自由になれるのではないか……? という淡い期待もあるのであった。とにかく私の望みは、自分の仕事をきちんとやる時間がほしいってことだけ。思い切り仕事をしたら、いつかスパッとすべて辞めて、山のなかへと消えたい。
翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。
主な著書に『ある翻訳家の取り憑かれた日常』(2巻まで刊行、大和書房)、『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術
』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。
主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。