子育ては、ロックンロールと見つけたり

第2回

dora no ne in my head

2022年1月21日掲載

トイレに入ると、いつも来るはずのアイツが来ていない。

アイツとは毎月決まった時期に音もなくやってきて意味もなく(※意味はある)体から鮮血を出させる、図々しくてわがままだけどちょっと気になる学園きっての俺様キャラこと「生理」である。

ありがたいことに私は生まれてこの方体調に悩まされたことがなく、生理もサブスクぐらい定期的にやってくる。14時と16時を間違えがちな私より、生理のほうがよっぽどスケジュール管理がしっかりしていると感じる。

だから生理予定日に生理が来ていないことを受けて、「妊娠」の二文字がブゥンとF1みたいに高速で頭をかすめた。

妊娠発覚の瞬間というと、「ウッ!」とか言って手で口を押さえながらトイレに駆け込み、「これって、まさか……」と自身の変化に気づく大変ドラマチックなものになることを想像していたのだが、私の場合は完全なる「虚(きょ)」だった。吐きそうになるとか眠くなるとか頭痛とか、そういう変化がマジでなにもなかったのだ。

中2のとき、吹奏楽部のコンクールで私がミスったせいで賞を逃し、怖い先輩たちに舞台裏で「オイ!!!」とでっけえ声で怒鳴られたときの方が5億倍くらい吐きそうだった。

そんな風だったので妊娠しているとは到底思えず、「いやいや、ちょっと生理が遅れてるだけっショ……」「こんなすぐ妊娠は、ないっショ……」と語尾が「ショ」になりながらも、ひとまず妊娠検査薬を購入した。

正確な検査結果が出るのは生理予定日の1週間後、と書いてあるので、そわそわしながらその日をじっと待つ。

そして1週間後、目覚めると同時にトイレへ駆け込むと、赤紫色の縦線が2本、じわ~っと浮かび上がったのである。検査薬の箱に書いてある「陽性反応の場合」という説明イラストと完全に一致している。陽性反応。つまり、妊娠しているのだ。

世間では新型コロナウイルスが猛威を振るっていて、日々「陽性者の数が……」と仰々しく報道されていた中で、こんなに喜ばしい陽性もあるのだな、とぼんやり思う。

寝起きの夫に「見てこれ」と検査薬を見せると、厳かな表情で「なるほど」と唸った。

もっと派手なリアクションを想像していたから少し拍子抜けだったが、かくいう私自身もまだ全然実感が湧いておらず、簿記検定3級に合格したときくらいの喜びレベルだった。

そこからふたりの実感バイブスを調整するかのように、「妊娠か……」「子どもか……」と、語尾に「……」をつけながらぼそぼそと所感を伝え合っていく。

最終的に夫は「どうしよう、チャラ男連れてきたら……」とあまりにも早すぎる心配をし始め、「お前に娘はやらん……」と架空のチャラ男を追い返していた。

そんなふうに喜んだのも束の間、徐々に頭の中を不安が侵食していくようになった。

よく考えると、私は「子育て」の内訳を全く知らない。オムツを替えるのとかは知ってる。あと、おっぱいやミルクをあげたりもするらしい。

でもオムツを替えておっぱいをあげてるだけであんなにも大変なわけがないから、多分定期的に過酷なミッションが課されるのだろう。

その前に、この体から人が出てくんのか。えっ、この体から、人が!? こわ……。

今まで他人事だった「出産」「子育て」が急に目の前に迫り、自分があまりに何も知らないことに愕然とする。

私なんかが、人の親になれるのだろうか。家庭科の授業でエプロンを作るとなったとき、途中から取り返しがつかなくなってセロハンテープを駆使した私が……。

とはいえ、陽性反応が出た事実は揺るがない。正式に妊娠していることを診断してもらうために、私は有給休暇を取得して産婦人科へ行くことにした。

病院の待合室は、平日にもかかわらずたいへん混み合っていた。なぜかうっすらと「残酷な天使のテーゼ」のオルゴールver.が流れている。

受付で手渡された問診票には来院理由を記入する欄があり、生理痛、生理不順、デリケートゾーンのトラブル、などの選択肢がある中で「妊娠したかもしれない」に丸をつけた。

名前を呼ばれ、「妊娠の確定検査ですね。あちらの部屋にどうぞ」と誘導される。

扉を開けると、宇宙船で連れ去られたときに座らされるやつみたいな機械じかけの椅子がドンとこちらに背を向けていた。背もたれと座面の間は一枚のカーテンで仕切られており、カーテン越しに看護師さんの忙しない足音が聞こえる。

「下全部脱いで、椅子に座ってくださーい」

指示に従って下半身丸出しで腰かけると、太ももから下だけがカーテンの向こうに投げ出される格好になった。

するとグググと椅子が上昇したあと、後ろに90°倒れた。そしてさらに機械が動き、なんと両足がパッカーンと開かれる状態になったのである。

つまりは洋服を完璧に着てテキパキと働く人々がいるカーテンの向こうの世界に、私の裸の下半身がデッデレー! と突然さらけ出されたのである。「衣服格差」という四字熟語が浮かんだ。

なんだこれは。この世でいちばん精神的にキツい体勢なーんだ? のなぞなぞの答えか?

困惑していると、カーテンの向こうから医師が「はい、ちょっと冷たいの入りますよ~」と言ってなんかわからないヒヤッとしたやつを入れてくる。

私の中のひな壇芸人たちが、ちょっと勘弁してくださいよ~! と総立ちした。

これ以上辱めを受けたらさすがに狂ってしまう。ていうか「冷たいの」って何? 立ち食いそば屋で食券出すときくらいしか聞かないワードですけども……。

結局最後まで正体不明のままだった「冷たいの」が抜かれると、椅子はウイ―――ンと低い音を立てて元のポジションに戻った。再び、診察室に呼び戻される。

「おめでとうございます」

医師から1枚の紙を差し出される。それは、白いモヤのようなものが写ったただの紙切れに見えた。医師が指差す先をよく見ると、マジックでツン、とインクを染み込ませたような黒くて小さい「点」がある。

「これが赤ちゃんです」

これが、赤ちゃん?

頭の中にドァーン! と銅鑼の音がこだました。

「出産予定日は、最終月経開始日の40週後にあたる7月31日になりますね。保健所に行くと母子手帳と妊婦健診の補助券がもらえるので、それを持って次は4週間後に来てください」

「出産予定日」とか「母子手帳」とか「妊婦健診」とか、「ザ・妊婦ワード」みたいなのが浴びせかけられるたび、ドァーン! ドァーン! と頭の銅鑼が鳴り止まない。

え、お腹に赤ちゃんいるの? マジで? 私、妊婦ってこと? ハイパーマタニティ状態? 繰り返し自問自答をしながら、半ば他人事のようにぼんやりと医師の説明を聞く。

妊娠の決定的な実感は、病院を出て一歩踏み出した瞬間にやってきた。道行く人が、私が妊娠を告げられたことも知らず淡々と歩いている。

向かい側の歩道を歩く老人が、道にペッ!!! と勢いよく痰を吐き出したのを見て「あ、これ現実だ」と冷静になった。そしてとんでもない熱量の興奮が、私の脳内に殴り込みをかけてきたのだった。

ドァーン! 今日イチの銅鑼の音が響いた。

みなさ~ん! 私、妊娠してま~す! 「勝訴」みたいな感じで「妊婦」と書いた紙を持って街中を走り抜けたのち、フラッシュモブみたいに踊りながら「おなかに赤ちゃんがいます!」と叫びたい衝動に駆られる。 

このときの私をサーモグラフィーで見たら頭からつまさきにかけて虹色だったと思うし、もし「うれしさ発電」があったらエレクトリカルパレードくらい余裕で光らせていただろう。

早く家に帰って夫に報告したいのに、玄関を開けた瞬間にこの最高の気持ちが途切れてしまう気がして、いつもよりゆっくり歩いた。

すると不思議なことに、今までまったく目に入らなかった花壇の花や、マンホールに書いてある絵や、雑居ビルの隙間に置いてある猫のえさに、世界の解像度が100億ピクセルくらい上がったかのようにくっきりとピントが合うようになった。

これまでに味わったことのない、不思議な高揚感だった。あの小さな黒い点を見る前と同じ自分のはずなのに、なぜこんなに嬉しいんだろう。

不安でいっぱいだった午前中の自分は、気づけばどこかへ消えていた。

医師からは、妊娠5ヶ月の「安定期」に入るまでは流産の可能性もあるから、まだ決して安心はできないという説明もあった。妊娠している女性の約15%が、妊娠初期に流産を経験するのだそうだ。

その原因は受精卵にあることがほとんどで、何をどう気をつけていたって、無事に出産の日を迎えられないこともある。ここから10ヶ月ちょっと、数々の奇跡を積み上げた先に、やっと赤ちゃんが待っているのである。

お願いだから絶対、無事に生まれてきてね。そう願いながら、マンションのエレベーターに乗り込む。

まだ黒い点でしかない赤ちゃんは、どんな顔で、どんな性格で、どんな個性を持って生まれてくるのだろう。

本当に本当に気が早いけれど、まだぺちゃんこの自分のおなかを少しだけ撫でてみたら、マスクの下はにやけるのをおさえられなくなった。

著者プロフィール
しりひとみ

ライター・コラムニスト。1976年北海道知床半島生まれ。テレビ制作会社のADを経てファッション誌でヘアスタイル専門の美容ライターとして活動したのち、書籍ライターに転向。現在は、様々な媒体にエッセイやコラムを執筆する。
著書に8万部を突破した『女の運命は髪で変わる』、『書く仕事がしたい』など。理想の男性は冴羽獠。理想の母親はムーミンのママ。小学4年生の息子と暮らすシングルマザー。