子育ては、ロックンロールと見つけたり

第9回

出SUN~君の声を聞かせて~ 前編

2022年4月22日掲載

いよいよ入院となり、病院へ向かうためにタクシーへ乗り込む。

運転手は50代くらいの男性で、私のお腹と、行き先、そして大きなスーツケースを見比べて「あれっ、もしかしてこれから入院?」と言う。

「そうなんです」

「へ~、それはおめでとうございます。まあ、出産は病気じゃないからね」

……ッ!?

「これから出産を控えた初対面の人間にかける言葉ランキング」があったら多分「出産は病気じゃないからね」は6000位とかになると思うんだけど正気ですか? そう問いかけたくなるのをグッとこらえる。

しかも私はまさに今、「妊娠高血圧症候群」という病気かもしれない状態なのである。

もちろんこのタク郎(※タクシーの運転手のこと)はそんなことは知らないし、勇気づけようとかけてくれた言葉なのだろうが、そうだとしてもあまりに不器用すぎる。

私は「そうですよね、ハハハ」と抑揚のない声で受け流した。

「性別は?」

「え~っと、男の子ですね……」

「へ~男の子はお母さんに似るからね~うちの孫も嫁に似ててさ~色黒なんだよ、嫁が。色黒なところが本当にそっくり」

私は思った。このタクシー乗ってる間にストレスで血圧5000くらいになるな、と。

タク郎と知り合ってまだ5分なのに「嫁と孫が色黒」という一番いらねえ情報を入手してしまった。知らない間に自分の色黒さを暴露されている嫁が不憫(ふびん)だし、私はその記憶のメモリを使って日本の県庁所在地とかを覚えたい。

たった30分ほどの乗車時間だったにもかかわらず、タク郎はさまざまな趣向を凝らして私にストレスを与えてきた。闇の組織からそういう任務を与えられし者なのかと錯覚するほど、的確に嫌なことをやってきた。

本筋とは全く関係ないがここにそれを箇条書きにする。

・男の子ならお母さん似という都市伝説を延々と力説される

・子どもの名前は男が決めるべき、という持論を展開される

・高速に乗っていいかどうか聞かれたタイミングでもうすでに高速に乗っている

・自分の孫の話を聞いてほしそうにしすぎる

・事前にネット決済していたはずなのに降りる時に平然と請求され、料金を二重で支払わされる

ヨッシャ―――!!!! 最悪だ―――!!!!

ただ病院に行くだけだってのに、この時点で最悪ポイントが6487219ptくらい貯まってしまった。これ以上最悪なことは起こらないはずだから、多分安産になると思う。逆にタク郎には感謝の気持ちすら湧いてきた。ありがとうタク郎。

HPをゴッソリ削られながらも、なんとか病院へ到着する。受付で名前を告げる前に「あっ、しりさん」といつもの受付の女性が察してくれ、病室へと案内された。

電動で昇降するベッドと、小さなテレビがあるだけの、アパホテルの客室くらいの広さの個室だった。コロナでしばらく旅行にも行っていないから、外泊をすることに少しテンションが上がる。

その日は採血を行い、部屋で病院食を食べて、早々に就寝した。血液検査の結果は翌朝に知らされ、その結果次第で帝王切開をするかどうかが決まるのだという。

ここ数年風邪すら引いていないくらい、健康だけが取り柄でやらせてもろてきた私は、「緊急入院」という未知の4文字に少しだけ浮かれていた。そう、このときまでは――。

***

翌朝8:30。部屋に備え付けられたナースコールが鳴った。スピーカーから、看護師さんの「おはようございます」というガサガサした声が聞こえてくる。

ナースコールって向こうからかかってくることもあるんだ! そんな入院ビギナーらしい発見に感動を覚えつつ耳を傾けると、前日の血液検査の結果が出たから来てくださいとの連絡だった。

スッピンに、病院から貸し出された水玉ピンクの激ダサパジャマ、ツルツルして脱げそうなスリッパをひっかけて1階の診察室へと向かう。

扉を開くと、北大路欣也(きたおおじきんや)似の院長が今日も厳かな表情でそこにいた。

座っているだけで「華麗なる一族」みたいな空気感になるが、実際は小さな個人病院の一室である。

「えー、昨日の血液検査の結果が出ましてね。全然ダメですね」

全然ダメなんてことあるんだ。さすがの欣也でも、私の血圧の牙城は崩せなかったらしい。

「ということで、今日産んじゃいましょう。帝王切開で」

「あっ、ハイ」

人は突然産むことになると「あっ、ハイ」みたいな薄い返事しかできなくなることがわかった。

手術は昼の12時から行います、何か質問ありますか? と聞かれ、「あっ、大丈夫です」とだけ返して、早々に診察室を出る。

扉を閉め、一息ついて「大丈夫なわけあるかーい!」と心の中でノリツッコミをした。いやいやいや。今日、これから、出産? しかも、帝王切開?

部屋に戻り、帝王切開について調べなければとスマホを開くと、LINEの緑色のアイコンが目に入る。

あ、夫や家族に連絡しないと。今日の12時に出産になったよ……と、打つ手を止める。

待って、本当に今日出産なの? えー? なにかの手違いではなく? 出産予定日よりまだ10日も早いんだけど? 本当に出てきて大丈夫なの? あっ、とりあえずLINEしなきゃ……。

そんな風に視線はスマホと壁かけ時計を行ったり来たりで落ち着かない。その間も、お腹の子どもは元気に腹を蹴っている。あなた他人事だと思ってそうだけど、もうすぐ出てくるんですよ。

そのとき、窓の外から激しくパチパチとはじけるような音が聞こえてきた。

カーテンを開けてみると、外は信じられないくらい激しいゲリラ豪雨に見舞われている。

道路を走る車が、ものすごい速さでワイパーを動かしながら、水しぶきをあげて通り過ぎていった。

ドゴァ―――ン!!! ピッシャ―――――ン!!!!! ドッカ――――ン!!!

信じられないくらい近い場所に雷が落ちた。

部屋の中が明るくなるほどの激しい光と、地面が揺れそうなほどの轟音(ごうおん)が響いて、この世が終わったかと思った。

よりによってこの、今から出産をしようと士気を高めているタイミングで。もしかして、これからの手術に対するなんらかの暗示なのか?

そこからはもう、目に映るすべてのものが暗示に見えて仕方なくなってしまった。

病室にあしらわれた花柄の壁紙も私の棺桶に入れられる花を暗示しているのかもしれないし、なぜか壁にかかっているクリスチャン・ラッセンのクジラの絵とかも「クジラ=苦死裸(裸で苦しんで死ぬ)」という暗示かもしれない……。

そんな暗示だらけの病室で震えていると、助産師さんがやってきた。

「はい、そろそろ手術室行きましょうか」

時計を見ると、いつの間にか予定の12時をまわっていた。

ジャニーズの人が「You、舞台上がっちゃいなよ」ってジャニーさんに言われて突然ステージで踊らされたとテレビで言ってたけど、このときの私はかなりそれに近い精神状態だったと思う。

とにかく気持ちが追いつかないまま、助産師さんのあとをついて手術室へ移動する。扉を開くと、大きな手術台がどどんと置かれている。

「じゃあ、ゆっくり乗ってくださいね~」

踏み台に足をかけ、手術台へ上る。「THE FIRST TAKE」でマイクに向かうアーティストもこういう緊張感だと思う。ある意味出産は「THE FIRST TAKE」以上の一発勝負である。

青いビニール状の割烹着(かっぽうぎ)みたいなものを着た助産師さんが2人、仰向けで寝かされた私の両脇に立ち、着ているパジャマを脱がせていく。

そして酸素ボンベ的なものを口にはめられ、指にはなんか脈拍を測るっぽいセンサーみたいなものをつけられ、ドラマの手術シーンでよく聞く「ピッピッピッ」という音が手術室に響き始めた。

すべてが、まったく躊躇(ちゅうちょ)なく、寸分の迷いもなく、スピーディに進んでいく。心の準備ができていない私だけが置いてきぼりである。

感情を整理するために、「これから出産ですが、今のお気持ちを教えてください」みたいな記者会見の時間を挟んでほしい。

手術室には北大路欣也似の院長と、初めて見る男性の医師もいる。

男性の医師が隣へやってきて「背中丸めて絶対動かないで! ちょっとチクっとしますよ!」とめちゃくちゃなプレッシャー発言を浴びせてくる。

わかんないけど、失敗したらたぶん終わるやつだ! と私のなけなしの野生の勘が働き、人生史上最高の「背中丸め」を見せつけた。欽ちゃんの仮装大賞に「だんごむし」というタイトルで出場したら結構な得点をもらえたと思う。

すると、背中にチクリと麻酔の針を刺される痛みがあった。

次第に、足に向かって冷たいものが流れていく不思議な感覚を覚える。

このあたりでやっと「あ、マジでこれから帝王切開するんだな」という実感が湧き始めた。

助産師さんが2人がかりで私を仰向けにゴロンと寝かせ、目の前に青色のシートを被せた。

「はい、メス入れますよ」

足元から、北大路欣也の声が聞こえる。

先ほどチクッとしてからほんの1分ほどしか経っていない気がするのだが、麻酔、本当に効いてる?

目は見えるし、耳もしっかり聞こえるし、声も出せそうだし、歌えと言われれば『大地讃頌』(だいちさんしょう)のアルトパートくらい歌い上げられそうである。

普段の自分と何も変わらないように感じるんだけど、実は麻酔、全然効いてなくて、事実上のハラキリを行うみたいなことにならない?

そんな不安を知る由もない北大路欣也は、あっさりと私のお腹にメスを入れた。

痛みがないことにホッとするが、明らかに横に一直線、自分の体に何かしらの切り込みを入れられた感覚があり、見えないお腹の状態を想像して怖くなる。

「ここからちょっとお腹を引っ張る感じがするからね~」

看護師さんにそう声がけされたあと、下腹部を何かしらこねくり回している感じがする。何何何!? うどんってこういう気持ち~~!?

不覚にもうどんの気持ちを理解したところで、グッグッグッと3、4回くらい腹を強く押される。

すると欣也が「はい赤ちゃん出るよ~」と、私になのか助産師さんになのかわからないが、今までで一番大きな声で言った。

その直後、お腹から大きな何かが出された。

何かってまぁ確実に赤ちゃんなんですけども。気まぐれに小腸とか出し入れしてたら怖すぎるし……。

そこから覚えているのは、肺いっぱいに水が満ちて溺れたような声を出しながら、懸命に息を吸って泣こうとしている、赤ちゃんの苦しそうな声。

あとは自分の下腹部が何かしらの処置を受けている、遠い感覚。

やっと意識した、手術室の照明のまぶしさ。

おめでとうございますという複数人からのぼんやりとした声かけ。

「ほら、お母さん、赤ちゃん生まれましたよ。2258gの男の子です」

お母さんって、私のことか。

助産師さんが、私の顔の横に赤ちゃんを置いてくれる。

ついさっきまでお腹の中にいたので、なんらかの液体にまみれて肌は白く、そしてびっくりするほど小さい。

私は目が悪いので、眼鏡もコンタクトもしていない状態ではほとんど顔は見えないけど、体をジタバタさせて、ドラマでしか聞いたことのない「おんぎゃあ」という産声を、懸命に上げている。

こうして、予定より10日早く、私は緊急帝王切開での出産を終えた。

同時にこの瞬間から、尋常じゃない「痛み」との戦いの火蓋(ひぶた)が切られたのだった――。

著者プロフィール
しりひとみ

ライター・コラムニスト。1976年北海道知床半島生まれ。テレビ制作会社のADを経てファッション誌でヘアスタイル専門の美容ライターとして活動したのち、書籍ライターに転向。現在は、様々な媒体にエッセイやコラムを執筆する。
著書に8万部を突破した『女の運命は髪で変わる』、『書く仕事がしたい』など。理想の男性は冴羽獠。理想の母親はムーミンのママ。小学4年生の息子と暮らすシングルマザー。