世界はそれを高血圧と呼ぶんだぜ
妊娠37週を迎え、ついに「正産期」と呼ばれる期間に突入した。
正産期とはお腹の中の赤ちゃんが十分に育ち、いつ生まれても大丈夫な、外の世界でも耐えられる状態になったことを指す。言うなれば精神と時の部屋で修行を積んだ悟空が天下一武道会に挑める状態になったのとまったく同じ状態である。まったく同じ状態なのか?
そんなある朝、鏡を見ると顔がパンッッッパンにむくんでいた。
パンパンではない。パンッッッパンだ。
「星のカービィ」が実写化されたのかと思ったら私の顔だった。この勢いで「むく美」に改名しようかと思うほどだった。
しかしどれだけむくんでいようとも、今日は週に1度の妊婦健診に行かねばならない。身支度を整え玄関へ向かう。
サンダルを履こうとつま先を入れるが、なぜか足の甲がつっかえて入らない。足元を見ると、空気入れで膨らまされたかのように、足首からつま先にかけて両足が腫れ上がっていた。
「私の足、入れ替わってる~!?」と『君の名は。』みたいに叫びそうになったが鏡を見てもそこにはパツンパツンの私がいるだけで、まったく前前前世じゃないし全然現世だった。
顔だけじゃなく足までむくみ、つい先日まで履けていたサンダルが履けなくなっている。急激な体の変化に困惑しつつ、スニーカーの靴紐をすべてほどいて無理やり足をねじ込んだ。
病院へ着いたら受付を済ませ、待合室にある血圧計で血圧を測定する。機械に腕を入れて測定開始ボタンを押すと、「ブブブブ……」と大きな音を立てて腕が圧迫され始める。
その後、機械の横から出てきた結果用紙を、私は5度見した。上の数値が「136」なのだ。
別に語呂がIZAM(136)だったから驚いたわけではない。高血圧だから驚いたのである。
妊娠中の血圧は、上は129未満、下は84未満が適正とされている。だから136という数値は高血圧の部類となる。
1週間前の検診では適正値だった。平凡な妊婦生活を送るアタシが、高血圧!? ひょんなことから自分には特別な能力(チカラ)があると知った魔法少女みたいな動揺を見せつつ、助産師さんに血圧の結果用紙を渡す。
「あれっ、血圧高いね。もう1回測り直してもらえる?」
そう言われ、助産師さんが見守る中で、もう一度血圧を測定する。
横で見られている緊張から、血圧計に入れる際にひじが台座から微妙にズレた。
ひじが正しい位置にあるとランプが青色に点灯するのだが、このときは赤色に点灯していた。それはもう見事にきれいな赤。紅葉だと思って、はとバスが観光に来るレベルの赤さだった。
しかし位置を正そうにも、もう腕が「ブブブ……」と圧迫され始めている。仕方なく、そのまま渾身の「ひじズレてませんけど顔」で静かに計測を終えた。
すると「118」という低い数値が「よっ! 俺だけど」みたいな顔をして出てきた。
「はい、大丈夫ですね。じゃあ診察室へどうぞ~」
「ひじズレ時」の数値だけどね。私は心の中でそう思った。
赤いランプ1回点滅、ひじズレてるのサイン。私の中の吉田美和が歌い上げる。
本当はひじの位置を直してもう一度測り直したい。しかし私が測り直しを申し出たら、待合室にいる他の妊婦たちに「あいつまた測んの?」みたいな感じで見られ、ただの「血圧測定大好きマン」だと思われてハブられるのではないか。ここで急遽2人組作ってくださいと言われても誰も私とペアを組んでくれないかもしれない……。
そんな最悪の未来予想図を描いているうちにタイミングを失い、何も言い出せないまま診察室へと足を向かわせた。こういうとき、いらん心配をしすぎて発言の機会を逸するビビりの性格を治したいと心底思う。
エコーを取る医師に、不安を伝える。
「あのー、なんか足と顔が異常にむくんでるんですよね……」
「あぁ、妊娠中ってむくみやすいんですよ。ま、血圧高くないから大丈夫でしょう」
むくみの話はたったの1ラリーで終わり、医師は続けて「うーん、赤ちゃんちょっと小さめだね」と言った。
「え、小さいんですか」
「うん。まぁでも順調だし、正常な範囲の中で小さめってだけだから、心配しすぎなくてもいいですよ」
聞くところによると、頭の大きさが週数に対して小さいらしい。
頭がすごい小さくて足が長い、冨永愛みたいな体型の赤ちゃんだったらすごいと思ったけど、多分違う。
おそらく、低出生体重児的な、結構心配しなくちゃいけないやつである。高血圧といい、これまで順調だったはずなのに、正産期に入って心配事が一気に増えてしまった。
帰りの電車内で、妊娠中の高血圧についてすぐに調べる。すると、お腹の赤ちゃんの発育不全や機能不全、最悪の場合は死に至るという恐ろしすぎる結果が出てきた。
ちょっと待って、今日言われた「ちょっとだけ小さめだね」って、どう考えても血圧のせいで発育不全になってるってことじゃない? 速攻で伏線が回収された。コナン君だったら秒で「あれれ~? おかしいな~」ってすぐ見抜ける簡単なトリックだった。ネクストコナンズヒント、ひじズレ。
今の自分の状態が危ういとわかった途端、子どもにも影響が及ぶかもしれない恐怖心でどうにかなりそうになる。
私は病院を出たその足でスーパーへ直行し、高血圧を防ぐ「カリウム」を含む食材を、目につく限りカゴに放り込んだ。
黒酢、バナナ、キウイ、アボカド、ほうれん草、豆腐、納豆。
塩分の多い加工食品やラーメンは見るだけで血圧が上がりそうなので、そのコーナーは視界に入れないよう、猛スピードで会計を済ませた。
その日から私の座右の銘は「減塩」になり、スマホの待ち受け画面にもまっさらな絹豆腐の写真を設定し、料理の味付けにも塩や醤油は使わず、納豆にもタレはかけず、塩の描かれたイラストを毎朝踏みつけ、朝日に向かって「血圧退散!」と叫びながら木刀を振り続け、ひたすらに血圧を下げる食品を貪り食う「妖怪カリウム女」となった。
さらに次の血圧測定では失敗しないよう腕を正確に機械に入れるイメトレを重ね、「血圧筋」みたいな独自の筋肉が発達するほどに独自のトレーニングを重ねた。
1週間後。ムキムキになった私は再び勝負(妊婦健診)の日を迎えた。病院に着き、因縁の血圧計に対峙する。
しっかりとひじを置き、ランプが青く点灯するのを確認してから測定開始のボタンを押す。
ブブブブブ……と低い音が響いてから数十秒後、機械から吐き出された結果用紙を見る。
140。
前回の136よりも俄然上がっている。
念の為もう一度測定を行うが、次は142とさらに上がった。
あれだけの修行を積んだにもかかわらず、全く歯が立たなかった。あんたの勝ちだよ、血圧……。私は血圧の勝負強さを心の中で讃えながら、助産師さんに結果用紙を渡す。
「あれっ、血圧高いですね。もう一度測ってみてもらえますか?」
「2回測ったんです。それ、2回目の結果です――」
戦いを終えた私は冷静にそう言う。少しの沈黙のあと「なるほど……」とつぶやきながら、助産師さんはその用紙を受け取って、奥へと消えていった。
***
「今日、入院です」
北大路欣也(きたおおじきんや)似の院長が厳かに言う。
耳を疑った私は「今日!?」と叫んだ。
リビングに雑に置かれた、パッキングが終わっていないスーツケースのことを想う。出産予定日まであと11日あるからと、まだ手つかずのままになっている。
「血圧も高いし、腎臓がうまく機能しなくて尿にタンパクも混じってるね。で、むくみがひどすぎる。これは妊娠高血圧症候群という症状です、完全に」
欣也が「家族に高血圧の人、いる?」と訪ねてきたので「あ、父がそうです」と答える。
妊娠高血圧症候群の原因は明確にはわかっておらず、妊娠前の血圧にかかわらず妊婦の10人に1人程度が発症する病気だそうだが、家族に高血圧の人がいると発症するリスクがあるらしい。
他にも、太りすぎ、痩せすぎ、多胎妊娠、高齢出産など、発症する可能性を上げる要因は色々あるそうだ。
親が高血圧というのは、もう生まれた時点で私はこの病気になる運命(さだめ)だったということで、どうりでつらい修業を積んでも歯が立たないわけだと納得する。
そしてこの状況を放っておくと、肝臓や腎臓に機能障害が生じたり、赤ちゃんが生まれる前に胎盤が剥がれてしまったり、出産でいきむときに脳の血管が切れて脳出血を起こしたりするらしい。絶対なりたくない症状の役満である。
「今日の14:00までに病院へ来てください。病院食で明日にでも血圧が下がれば、予定通り計画無痛分娩で産みましょう。ただ明日になっても血圧が下がらなければ、すぐ帝王切開です」
帝王切開。なにがなんだかよく分からない四字熟語ランキング4位くらいの言葉である(1位は「確定申告」)。
自分は無痛分娩で産むと思い込んでいたから、毎日YouTubeで「初産婦の無痛分娩入院生活♡」とか「スルリと出る! 安産体操」とか「海辺を散歩する柴犬」とかの動画ばかり見ていた。
たとえおすすめに帝王切開関連の動画が表示されたとしても、当然ながら自分には無関係だと思って完全にスルーしていたのだった。
そんな私が帝王切開? なに? どうやんの? そもそも帝王って誰? 出身高校は? 年収は? 恋人はいる?
心の中が徐々にまとめサイトのようになっていく中、大急ぎで家に帰る。在宅勤務をしている夫に状況を伝えると、私とまったく同じ声色で「今日!?」と叫んだ。
「死なないでね……マジで……」
妻がいつものように検診に行ったと思ったら、急に今日から入院となるのだから、そりゃあ死ぬのかと心配にもなるだろう。
しかも、コロナの影響で入院中の面会や出産の立会いは禁止されている。これが産前最後の、いやもし最悪の事態になったら、最期の会話になるかもしれないのだ。
本当は写真や動画などをモニターに投影しながらこれまでの2人の歩みを小一時間かけて振り返りたかったが、あいにく夫は次のWEB会議がある。固い握手を交わすと、名残惜しそうに部屋へと引き上げていった。
私は大急ぎで入院グッズをスーツケースに詰め込み、玄関を出た。
次ここへ帰ってくる頃には、私はもう妊婦ではないかもしれない。床に置かれた小さなベビー布団の上に、まだ見ぬ子どもを寝かせているかもしれない。
いやむしろ、子どもは無事に生まれないかもしれない。私も生きていないかもしれない。あらゆる「かもしれない」が、脳裏をかすめては消えていく。
妊娠した当初は、普通に出産し、普通に子育てがスタートするものとばかり思っていた。「母子ともに健康」と言えない可能性なんて、1ミリも考えていなかった。
あまりに突然のことで気持ちが追いつかない。
スピーディに展開していく現実に置いていかれたまま、私は病院へ向かうタクシーへ、ふわふわした足取りで乗り込んだのだった。
ライター・コラムニスト。1976年北海道知床半島生まれ。テレビ制作会社のADを経てファッション誌でヘアスタイル専門の美容ライターとして活動したのち、書籍ライターに転向。現在は、様々な媒体にエッセイやコラムを執筆する。
著書に8万部を突破した『女の運命は髪で変わる』、『書く仕事がしたい』など。理想の男性は冴羽獠。理想の母親はムーミンのママ。小学4年生の息子と暮らすシングルマザー。