出生前診断と、思い知らされる命のこと 後編
※この記事には「出生前診断」に関する非常にセンシティブな内容が含まれます。
会社を休み、確定検査を受けるために病院へと向かう。
その病院で受けられるのは「羊水検査」といわれる確定検査だ。赤ちゃんの細胞を調べるために、お腹に太い針を刺して羊水を採取する。
医師と看護師4人がかりで、エコーが映し出されたモニターを見ながら針を刺す場所を慎重に探っていく。「あ~赤ちゃん、こっち来ちゃったね」「ごめんね~、もうちょっとそっち行っててね」「あ、いい子、いい子!」と、お腹の中の赤ちゃんに明るく声をかけながら、部分麻酔されたお腹に太い針をブスリと刺した。
羊水を採取したあとは安静にする必要があり、1時間ほど、別室のベッドに横になる。「暗くしておくので、寝てていいですよ」と声をかけられたが、医師たちが私のお腹にかけた「いい子、いい子!」という声が頭の中をめぐる。
この子、生きてるんだよな。ちゃんと針を避けられたんだ、えらかったね。本当は、産みたいんだよ。会いたいなぁ。そんな想いが止まらず、涙目になりながら、眠らずに1時間を過ごした。
検査結果が出るまでの1週間、私は空いた時間のほとんどを、インターネットで「クアトロテストでは陽性だったが、羊水検査で陰性になったケース」を探すことに費やした。
私と同年代かつ高確率の人は相変わらず見つからなかったが、それでも陰性になった人の記録を読むと、どんよりした心の中が少しだけ明るくなるのだった。
ダウン症児を育てている人のYoutube動画を見たり、さまざまな記事も読んだ。「ダウン症児の育児はこわくありません」「普通の育児と同じように、楽しいことがたくさんあります」。笑顔で映る親子の写真に自分の姿を重ねようとしてみる。
でもどうしても、陰性であってほしいと願う気持ちが邪魔をして、陽性の可能性に向き合うことができなかった。
それから、生活の中で「21分の1」を探すのが癖になってしまった。仕事中、オフィスのフロアを見渡すと、だいたい40人ほどが座っている。この中の2人が陽性。駅のホームで電車待ちをしている人が、見える範囲に20人くらいいる。この中の1人が陽性。カントリーマアムのファミリーパックは20個入り。このうちの1つが陽性……そんなふうに、考えても仕方のないことをずっと考えてしまう。
最後は神頼みだ。安産で有名な神社に足を運んで、いつもは5円のところを100円、賽銭箱に投げた。
そして、1週間後。病院から「結果が届いた」と連絡が入る。イヤホンを耳にはめ、呪われたかのように明るい曲を繰り返し聴きながら、電車に乗る。
祈るように診察室へ入ると、医師の手元に1枚の用紙があるのが見え、ゴクリと唾を飲んだ。
「まず結果ですが、陰性でした。異常はありません」
医師がそう言った瞬間、長らく心をふさいでいた重たい蓋が、急に開いたのを感じた。「は~~~~」と大きなため息が出る。
「ちなみに染色体を調べたので性別も判明したんですけど、聞きますか?」
「あ、はい」
「男の子です」
私はこわばった表情で「男の子」と繰り返した。よくわからない、ゴチャゴチャした感情だった。正直、性別なんてどうでもよかった。お腹の中の子にはずっと、ごめんごめんごめん、と念を送っていた。一度でも、君と自分勝手に別れることを想像して、本当にごめん。
中絶手術の相談をした病院に結果報告の電話を入れ、無事に私の出生前診断をめぐる葛藤の日々は終わりを迎えた。
***
ある日、大通りを歩いているとスニーカーの靴紐がほどけた。赤信号のタイミングで紐を結ぼうと、横断歩道の手前でしゃがみこむ。
すると頭の数メートル先を、大きなトラックが勢いよく通り過ぎていった。その排気ガスまみれの風を受けて私は、とても当たり前だけど、極めて重要なことに気づいたのだった。
たとえば、自分の子どもが交通事故に遭ったら。災害に巻き込まれて、後遺症が残ったら。突然、病気になったら。生まれてから障害が発覚したら。そのとき私は、この子を育てることを無理だと思ってしまうんだろうか。そうなったら、愛せないのだろうか。
出生前診断が陰性だったとして、それがなんなんだろうか。産んだあと、いくらでも、想像しているとおりに育児ができなくなる可能性はある。
というか、想像どおりの育児ってなんだ。何も知らない、子どもひとり育てたことのない私が想像している育児って、なんなんだ。
子どもは、誰に頼んだわけでもなく、勝手にお腹に呼び出され、生まれるまでの約10ヶ月間を、何も分からぬまま狭くて暗い中でじっと過ごしている。
子どもからしたら、勝手にあんたが呼んどいて、いざ検査結果が思わしくなかったらやっぱりお引き取り願いたいなんてそんなワガママな話があるかと、腹の中からドロップキックをかましたくなるだろう。何様のつもりアワード2021金賞受賞である。
この世に呼んだ以上、たとえ何があっても、最後まで全力で愛を与えるのが親のつとめなんじゃないのか。それはあまりにも、遅すぎる気づきだった。
このあと「だから私はもし再び命を授かることができたら、何があっても必ず産みたい。」と締めくくろうとついさっきまで考えていた。しかし私の心の中には、ここまで来てもなお決してなくならないしこりがあると気づいて、指が動かなくなった。
もし2人目の命を授かって、再び出生前診断を受け、検査結果が陽性だったら。この期に及んでまだ「それでも必ず産む」と断言できない自分に、私は失望している。
***
私はこの記事を書くことを、ギリギリまで躊躇(ちゅうちょ)していた。
出生前診断を受けただけで軽蔑する人はいるし、さらに中絶手術を検討していたと知ったら、傷つく人もきっといる。炎上して、もう二度と文章を発表できなくなるかもしれない。
全員がそんな風に考えているからか、インターネットには、どんな結果であれ「産む」という選択肢を迷いなく取ることができないと、公に語ってはいけないような空気が漂っている。
そんな検索結果を見るにつれ、こんな気持ちを抱いているのは世界にたった1人だけなのかもしれない、私はなんて自分勝手で愚かなんだと、自分が生きていてはいけない人間にさえ思えた。
羊水検査の結果を待つ1週間のことは、これから先、死ぬまで忘れられないだろうし、息子に対して一度でもそんな気持ちを抱いてしまったことの罪悪感は、出産した今も消えない。
この連載では「育児って楽しいかも」という希望を、「育児には辛さしかない」と思っている読者に伝えるために書くと決めていた。だからそれに沿って、面白い部分だけをかいつまんで書くこともできた。
けれど私が経験したあの1週間は、間違いなく人生でもっとも「命」というものに向き合った時間だった。妊娠とは単に子どもを授かることだと思っていたが、それだけではなく「自分ではない人間の命を握ること」なのだと、痛いほど思い知らされた。
出生前診断を受けなければ、子どもは当然なにごともなく生まれるものだと思い込んだまま、私は母になっていたと思う。妊娠・出産のことを文章に残すうえで、この重みに触れないわけにはいかなかった。
ライター・コラムニスト。1976年北海道知床半島生まれ。テレビ制作会社のADを経てファッション誌でヘアスタイル専門の美容ライターとして活動したのち、書籍ライターに転向。現在は、様々な媒体にエッセイやコラムを執筆する。
著書に8万部を突破した『女の運命は髪で変わる』、『書く仕事がしたい』など。理想の男性は冴羽獠。理想の母親はムーミンのママ。小学4年生の息子と暮らすシングルマザー。