子育ては、ロックンロールと見つけたり

第3回

サ・ガ・シ・テ・ルの産院

2022年2月11日掲載

妊娠10週を迎える頃、赤ちゃんの頭や脚の骨をエコー検査で測定し、その大きさや長さから「ガチの出産予定日」が導き出された。

「えーっと、この大きさだと……7月23日が予定日になりますね」

もともと最終月経開始日から算出されていた仮の予定日は7月31日だったので、そこから1週間以上も早まった形になる。

女の子だったら名前は「なつみ(723)」にするしかない、などとぼんやり考えていると、助産師さんが言う。

「産院ってもう探されてますよね?」

「いや~まだ全然なんですよね、ハハハ」

「えっ!?」

助産師さんは、めちゃくちゃ引きながらこう続けた。

「早めに探さないと入院できないかもしれませんよ!? もう今日にでもどこか予約してください!」

マジ?

そもそも私の通っているクリニックは36週までの妊婦検診しか受け付けておらず、分娩については別の病院を予約する必要があった。

しかし私は夏休みの「あさがお観察日記」をあさがおが全滅したあとに想像で書ききるような人間である。まあどっかしら入院できるっしょ、と余裕ぶっこきフェアを開催していたがそんなフェアを開催している場合ではなかった。

パニックになった私は帰宅するやいなや、夫(※納得いかないことがあれば訴訟も辞さない鬼のような男)に状況を説明した。

夫は「予定日がそんなに早まるなんてことあんの? ていうかそれって発達的に問題ないか聞いた? なんで聞かないの?」と私を激詰めしながら、すぐにパソコンのディスプレイに何かを映し出す。

「これ見て」

「ハイッ」

強豪校みたいにハキハキと返事をしながらディスプレイを見ると、Excelで作成された表が映し出されていた。「320000」「有」「無」といった文言が列挙されており、サイバーテロ組織のリーダー? と一瞬怖くなる。

「なにこれ」

「産院の候補リスト」

都内にある病院の入院費用、個室料金、母乳方針、母子同室、入院中の食事の美味しさなどが、病院の口コミをもとにリスト化されている。

WEB上にアップしたらなんらかの収益を得られそうなほど、よくまとまっている資料である。私が何もしないのを見かねて、色々と調べてくれていたのだ。夫が鬼から神に変わった瞬間だった。

「周産期母子医療センターがあるところがいいと思うんだよね」

周産期母子医療センターとは、母体や赤ちゃんの生命にかかわる緊急事態に対応できる医療を有している病院のことを指す。

私の頭の中では、スポーン! オギャー! と3000gの赤ちゃんが元気に生まれてくるイメージしかなく、「出産は命がけ」であることがまったく頭から抜けていた。

おおざっぱな性格の私は、これまで何もかも「まあ、いけるっしょ」「死なないっしょ」の精神でやってきた。しかし出産は、自分だけでなくお腹の中の子どもも守らなければならない。「いけるっしょ」の軽いノリで産もうと出産に臨んだ結果、最悪の事態になる可能性もゼロではない。私は急に怖くなり、周産期母子医療センターを備えた病院で出産をすることに決めた。

夫が作ったリストの中で、もっとも自宅から近い病院に電話をかけてみる。受付開始時間ピッタリにかけるも、話し中になるばかりで繋がらない。ライブのチケット発売日に電話をかけるが如く、電話をかけ「ツーツー」の音が聞こえるとすぐさま切り、またかけては切りを繰り返す。

ツーツーブチ、ツーブチ、ツーブチとリズムに乗っていると、25回目くらいで「はい、〇〇病院受付です」と女性の声が聞こえてきた。

「あの、分娩の予約をしたいんですけど」

「それでしたら一旦妊婦検診を受診していただいて、先生とお話されてから予約になります」

「ちなみに7月23日が出産予定日なんですけど、その日程で病室は空いてますか?」

「それも先生に聞いていただかないと」

「もう11週なんですが、受け入れてもらえますかね……?」

「すみません、先生に聞いてください」

ガードの硬い芸能人が「事務所通してください」と言うノリで、すべて先生を経由させようとしてくる。どさくさに紛れて「つのだ☆ひろの『☆』ってどういう意味なんですかね」とか聞いても「先生に聞いてください」と言われる勢いである。

しかし、受付担当者がむやみに回答できないマニュアルになっているのだろう。仕方がないのでひとまず初診の予約をし、電話を切った。

それから数日後。何気なくテレビを見ていると、ドラマで出産シーンが放送されていた。

陣痛がきているはずのヒロインは病室のベッドに寝そべり、涼しい顔で夫と談笑している。分娩室へ移動すると、何事もなかったかのようにいつの間にか出産を終えていた。

無痛分娩。痛み止めの麻酔薬を注入し、陣痛や出産の痛みを和らげながら出産する方法。私は椅子からガタッと立ち上がり、「これがいいな!?」と叫んだ。

自分がこれまで分娩についてまったく真剣に考えてこなかったことを思い知る。

出産=鼻からスイカを出すほどの痛みに耐えるもの、と方程式を頭の中で組み立てていた。

冷静に考えると、鼻からスイカ、出せるわけなくない? 人間をデザインした担当者、細かい仕様がかなり雑では? 完全に設計ミス。責任者を呼んでほしい。ニワトリとかは毎日あんなスポスポ産んでいるというのに。

もう私は、無痛分娩以外のことが考えられなくなっていた。

昼ごはんを食べていても、吹き出物に軟膏(なんこう)を塗っていても、かかとのガサガサにクリームを塗っていても、目元のシワにクリームを塗っていても、常に無痛分娩のことで頭がいっぱい。もしかしてこれが、恋……?

しかし現在予約中の病院では、残念ながら無痛分娩は行われていないのだ。

調べてみると、周産期母子医療センターかつ無痛分娩を実施している病院が、自宅から7駅ほど離れた場所にあることがわかった。少し遠いが、変える価値はある。

だが無痛分娩はタダでできるわけではない。通常の入院費用よりも15万円程度上乗せされるとも書いてある。

15万。うまい棒1万5千本分。くら寿司えんがわ1363皿分。アサヒスーパードライ650本分……さまざまな食料品で自宅を溢れ返すことができる金額である。

普通に産む人もいる中で、自分が我慢すれば浮く15万という大金を、「痛いのがこわい」という理由で支出してよいものか。我が家の財布をにぎる夫に、恐る恐る打診してみる。

「ふーん、いいんじゃない」

夫は表情を変えず、さも当然といった様子でそう言った。

「えっ、15万だよ!?」

「そんなの、なるべく辛くない方法にしたほうがいいよ」

十万超の出費ともなれば予算申請のためにプレゼン資料を作成し稟議書(りんぎしょ)に判をもらわなければならないとばかり思っていたので、私は信じられず何回か「本当に!?」と聞き返してしまった。あとから聞いたところによると、出産の痛みに関してはどうやっても私がすべてを引き受けなければならないので、それを軽くするためのお金は惜しまないと決めていたそうだ。

それから、申し訳なさを感じつつも予約した病院をキャンセルし、新たな病院へ予約の電話をして、無痛分娩で出産する手はずを整えたのであった。

新たに予約したのは、病気とは無縁の私ですら名前を知っているほど有名な大病院である。

自動ドアをくぐると広いエントランスに機械が何台も並んでいて、そこに診察券を通すだけで受付を行ってくれる。広い待合室の前方に大きなモニターがあり、自分の受付番号が表示されたら、診療エリアへ入る流れだ。精算もすべて機械で完了する。

宇多田ヒカルはこの景色を見て「オートマティック」という曲を作ったと言われている(私の中で)。

しかし、さすがは大病院。患者の人数が多いからか、予約時間から40分以上待たされてようやく診察室に呼ばれることがほとんどだった。

でも先生や助産師さんがとても丁寧で優しく、病院を変えてよかったな、と思いながら通っていた。

妊娠28週を過ぎたある日のこと。いつもどおりTwitterを眺めていると、タイムラインに通院している病院の名前が現れた。

「〇〇病院、医師大量辞職の闇!」

何度読み返しても、私の通っている見なれた病院の名前がそこに書いてある。

見出しの意味がよく理解できないまま、リンクをクリックする。

「医師や看護師らのボーナス支給はゼロで、退職者があとをたたない」

ページをめくる手は止まらない。

「医師や看護師にはろくに給料を支払わないが、理事長室や新しい病棟の施工に数億円かけていると言われている」

「産婦人科の当直医師は月8回も当直をしなければ回らない状態」

異様に長い待ち時間の理由がわかった瞬間だった。

そして次々に「もしかして、あれも……?」と、病院でのさまざまな記憶が思い出される。

たとえば、エコー検査中、医師に電話がかかってきたことがあった。

医師は急いで電話に出て、片手で電話、片手で私の腹にエコーを当てるという、DJがスクラッチするときとまったく同じポーズで検診をするのだった。

また「順調なので、今回は医師ではなく保健師が検診しますね」と、医師が登場しない日もあった。

点が線でつながった。すべては、医師が大量に辞職し、人手が足りなくなっていたからだったのである。

憶測でしかないが、これだけ有名な病院にもかかわらず簡単に分娩の予約ができたのは、こういった理由があったからかもしれない。

もし、このネット記事の内容が本当なのだとしたら。

先生たちは何も悪くない、なんなら被害者なのだが、はっきり言ってたいへん不安だ。

電話しながら分娩されたらどうしよう。「オギャー!」と生まれた赤ちゃんに「電話中なのでちょっと静かにしてもらえます!?」と言うかもしれない。

病院、変えたい。

しかし、このとき私はすでに妊娠8ヶ月。あと2ヶ月ほどで出産となるこんな時期に、受け入れてくれる病院なんてあるのだろうか。

***

「ええ、大丈夫なのでまずは診察受けにきてくださいね~」

電話口から、快活な返事が聞こえてくる。

何気なく調べた、家から少し遠い、個人でやっている小さな産院。もちろん周産期母子医療センターではない。

しかしレビューを見ると高評価で、なんと無痛分娩もやっているらしい。

ダメ元で電話をかけてみると2コールほどですぐに繋がった。

妊娠週数と分娩をしたい旨を伝えると、快く初診の予約をさせてくれ、ほっと胸をなでおろした。

こぢんまりとした院内だった。待合室には革張りのくすんだピンク色の椅子が並び、テレビでは小さな音量でNHKのニュースが流れている。

助産師さんと患者さんが談笑する声が、診察室からかすかに聞こえてくる。

そのとき、待合室の向かいにあるエレベーターの扉が開いた。

中から一人の女性が降りてくる。

その腕には、白いタオルにくるまれた、小さな小さな赤ちゃんが眠っていた。

この病院で出産し、今日退院するお母さんなのだとわかった。

「ありがとうございました」

そう言って頭を下げ、病院に背を向ける。

眠る赤ちゃんを気遣ってか、とてもゆっくりと待合室を横切っていく。

その背中に向かって、受付の女性たちが「おめでとうございます」と、口々に声をかけていた。

すさまじく、尊い瞬間を目撃した。

彼女が通り過ぎたあと、色のついた余韻のようなものが、待合室に漂っていた。

そして、彼女と同様にここで出産を終えて子どもを抱く私の姿が、ありありと目の前に浮かんだのだった。

私もあの女性のように笑顔で、このお腹の中にいる子を腕の中におさめ、ゆっくりと歩き出すときがくるのか。

急に、自分の出産が現実味を帯びてくる。

私の動揺が伝わったのか、中から子どもが激しくお腹を蹴ってきた。

なだめるようにさすりながら、思わず背筋を伸ばしたのだった。

著者プロフィール
しりひとみ

ライター・コラムニスト。1976年北海道知床半島生まれ。テレビ制作会社のADを経てファッション誌でヘアスタイル専門の美容ライターとして活動したのち、書籍ライターに転向。現在は、様々な媒体にエッセイやコラムを執筆する。
著書に8万部を突破した『女の運命は髪で変わる』、『書く仕事がしたい』など。理想の男性は冴羽獠。理想の母親はムーミンのママ。小学4年生の息子と暮らすシングルマザー。