子育ては、ロックンロールと見つけたり

第4回

ソース味の舌、食材不信の朝

2022年2月25日掲載

妊娠といえば、つわりだ。食べると吐いてしまう「吐きつわり」、逆に食べないと気持ち悪い「食べつわり」、食べ物の匂いを嗅ぐだけで気分が悪くなる「においつわり」、よだれが無限に出る「よだれつわり」など、色々と種類があるらしい。

漢字で書くと、「悪阻」。「悪い」に「阻(けわ)しい」と書く。字面だけでこんなにも辛いことが伝わってくることって、なかなかない。義務教育の知識を総動員しても「悪阻」を「つわり」とは読めないのもつわりのイレギュラー感をうまく表現しているし、発案者の不機嫌さがにじみ出ている。多分、つわりにめちゃくちゃ苦しめられている人が「その症状に名前つけて!」と依頼されて「うるせえな」と思いながら乱暴に書き殴った名前なんだと思う。

症状がひどい人は水すら飲めず、脱水症状で搬送されることもあるというからビクビクしていたのだが、私の場合、幸運なことに体の変化は特に感じられなかった。強いて言うなら異常に仕事したくない「仕事ダルつわり」だったが、それは常(つね)なのでつわりではない。

そんな私にも、ひとつだけ変化があった。それは、ソース味が異様に食べたくなることである。夫に「何食べたい?」と聞かれたら、「ソース焼きそば」「お好み焼き」「たこ焼き」の三択だった。

この期間の私の舌には、甘味・酸味・塩味・苦味・うま味の基本的な味覚の他に「ソース味」があった。食べ物の話題が出ると舌の上にソース用の空間みたいなものが出現し、そこにはソース以外の味覚を乗せることが許されない。なるべくたくさんのソースを食べなければ……という使命感すら抱いていた。

普段はカロリーを気にしてあまり食べないようにしているが、妊娠中は適度に体重増加しないと早産や低出生体重児になる可能性が高まると言われている。

なので、「いや~大変ですわ、いっぱい食べないといけないなんてね、ダイエットしたいのはやまやまなのですが、あっし、しがない妊婦なんでね」と見えない誰かに言い訳をしながら、近所の業務用スーパーで冷凍のたこ焼きを1kg買い込み、ソースをかけまくっておやつ代わりにしていた。加えて、ソース焼きそばをひとりで3玉たいらげたり、冷凍のお好み焼きを続けて4枚食べたりと、関西人に憧れすぎて粉もんに魂を売った人かのように、とにかくソース味のものを食べまくっていたのだった。

こんなにも欲望のままに食べているのに、なぜだか体重もそんなに増えず、おなかの膨らみもまだまだ目立たない。夢のセリフ「私、食べても食べても太らないんだよね」を言えるサービスに知らないうちに加入しているのではないか。あとから多額の請求がくることを覚悟したが、特にそういったものは来なかったので良かった。(体型については後に事件が発生するのだが、それはおいおい書きたいと思う)

そんな風にソースを想い続けて『So Sweet ~ソースイート~』という曲でデビューする勢いだった私だが、妊娠4ヶ月を過ぎる頃、急にソースへの興味が薄れ、あっけなくソース生活は終焉(しゅうえん)を迎えた。

同時に、食べたものの栄養が、へその緒を通じて赤ちゃんに直接届く時期にさしかかったのだった。

妊娠前までの私は、朝は食べず、昼はカップ麺、夜は魚肉ソーセージとハイボールという、貧乏芸人の下積み時代みたいな終わっている食生活を送っていた。

自分だけであればそれで済ませても良いが、お腹の子のためにはさすがにもっと健康的で、栄養を重視した食事を摂る必要がある。

さっそく「妊娠中 食事」と検索をかけると、複数のサイトで「妊娠初期は『葉酸』を摂取しましょう」と謳われているのが目に入った。

葉酸とはビタミンB群の一種で、赤ちゃんの脳や神経をつくるのに必要な栄養素だという。

葉酸が含まれるものとしてほうれん草、ブロッコリー、レバー、わかめ、海苔、いちご、ナチュラルチーズ……など、様々な食材名が並んでいる。

妊娠を望む人は、妊活の段階から通常より1.8倍の葉酸を摂取することが望ましいそうだ。ここで「葉酸を量産」というリリックが頭に浮かんだのでラッパーのみなさんはご自由にお使いください。

まずは手軽に摂取できる「わかめ」にでも洒落込みますかと、わかめたっぷり味噌汁づくりの準備をする。どの程度食べたら良いか検索をかけると、驚くべき結果が出てきた。

「わかめに含まれるヨウ素は摂取量が多くなり過ぎると、赤ちゃんやお母さんの甲状腺に影響を及ぼす可能性があります」

なんてことだ。いつもはあの温厚なわかめが、「葉酸を含んでるって言っただけで、他の影響がないとは言ってませんけど?」と、仕事をちゃんと教えてくれない性格の悪いバイト先の先輩みたいな態度を取ってくる。わかめが急に憎らしくなってきて、味噌汁づくりを中断する。

もっとストレートに、これ食べといたらオッケーみたいなやつがほしい。鉄分も多く含まれていそうで、体力がつきそうなレバーはどうだろうか。

「レバーに含まれるビタミンAは、おなかの赤ちゃんに形態異常が生じる可能性が指摘されています」

こいつもか……。いつもは赤い顔をして「オイラは葉酸も鉄分も多く含まれてて、みんなの味方でヤンス」と下手に出てくるくせに、私が妊娠した途端手のひらをかえすように影響を与えようとしてくる。頼むからいつものあのあどけない笑顔を見せてくれ。

では、ナチュラルチーズはどうだろう。乳製品なので腸内環境も整えられ、一石二鳥だ。調理不要だし、おやつ代わりに毎日食べることもできそうである。

「ナチュラルチーズはつくる過程で加熱をしないため、リステリア菌という食中毒の菌がたくさんいる可能性があります」

オイ!!!!

私はスマホをぶん投げた。ナチュラルチーズだけは絶対に裏切らないと思っていたのに。全部の食材が私をハメようとしてくる。

それからというもの、なにかを食べる際「もしかしてコイツも、実は私を騙そうとしているんじゃ……?」と、人狼ゲーム顔負けの心理戦が始まるようになった。全部の食材が敵に見えて、食事のたび「食材名 妊娠中」で検索してしまう。

一見、体に良さそうなひじきも健康被害を及ぼすヒ素が含まれている。お魚だから頭が良くなると思っていたマグロも水銀が含まれている。精がつきそうなうなぎも、レバーと同じくビタミンAが含まれているのでアウトである。烏龍茶やコーラにはカフェインが若干量含まれている。大好きなロッテのチョコパイもお酒を使っている。

怖い。妊娠前までは友達だったみんなが、妊娠した途端に私の命を狙ってくる。通報したい。消費者庁とかに連絡したらいいのか。

もう食事全般への不信感が高まり、明らかに大丈夫な「白米 妊娠中」や「グミ 妊娠中」、逆に絶対にダメだろという「ハイボール 妊娠中」とかでも、とにかく息をするように検索してしまう。

すべてにおいて「ちょっとなら大丈夫ですが、過剰摂取は禁物です」という結論に至るので規定量を守れば食べることが許されるが、その「ちょっと」の加減を誤ってなにかあったら……と心配になり、少しでも不安があるものは何も食べられなくなってしまったのだった。

そんな人間不信ならぬ「食材不信」に陥り、葉酸どころではなくなっていた私を見て、夫がこう言った。「サプリメントとかないの?」

サプリ、メント……?

頭の中に『Get Wild』のイントロが流れた。ひとりでは解けない愛のパズルって、このこと……?

サプリメント、私の脳内の辞書にまったくなかった6文字である。はじめて「万有引力」を知った人もこういう感覚だったと思う。私は夫の背後にニュートンの影を見出した。

検索してみると、「葉酸サプリの徹底比較!」とかいうページにたどり着いた。「徹底比較するほどの種類があるんかい……」と膝から崩れ落ちる。

1日2粒飲めば、必要な葉酸が摂取でき、ついでにカルシウムも含まれているものがある。これで、いいじゃん。私のあの、さまざまな食材へ不信感を抱き、もがき苦しみ、強い雨に打たれ、向かい風に吹かれながら走り続けた日々はなんだったのか。

すぐにサプリメントを注文し、やっとのことで私の葉酸を求める日々は終わりを迎えた。

しかしながらこれまでの食生活ではさすがにマズいということで、夫が夕飯づくりを担当してくれるようになった。ほうれん草やアボカド、小松菜、魚などの栄養たっぷりの食材を使い、バランスのとれた食事を用意してくれる夫を拝みながら、無事に私の食生活に平穏がもたらされたのだった。

食事中、ふと「いま自分のお腹の中で、赤ちゃんの体をつくっているんだよな」と、冷静に考える。何気なく飲んだ牛乳や、おやつに食べたゼリー、賞味期限が迫っているからと急いで食べた卵。その全てが赤ちゃんとシェアされ、小さな体をめきめきと組み立てている。とてもすごいことだ。そして同時に、怖いことだとも思った。

赤ちゃんの様子がおなかに設置された小窓から逐一確認できればいいのだが、残念ながらそういったシステムにはなっていない。規定の栄養を摂取したら「テレレレッテッテッテー♪」とドラクエのレベルアップ音が鳴るわけでもない。

4週間に1回の妊婦検診でのエコー検査で、ぼんやりした影を見た医師から放たれる「はい、順調ですね~」の一言を信じるしかない。しかし、エコーでは見えない部分で赤ちゃんになにか問題が発生しているのではないかと、いつも不安で仕方がない。

なにか異常事態があったらお腹の中から内線で伝えてほしいが、そうもいかない。こちらからの一方的な供給のみで赤ちゃんに影響を与え続けることに、言い表せない恐怖を感じる。

それを思うと、できる限り豊富な栄養を赤ちゃんに送らなければというこの焦りは、親から子への最初の愛情表現かもしれない、とぼんやり考える。

どうかこの愛が赤ちゃんに伝わっていますようにと願いながら、今日もサプリメントを2粒、水で流し込む。

著者プロフィール
しりひとみ

ライター・コラムニスト。1976年北海道知床半島生まれ。テレビ制作会社のADを経てファッション誌でヘアスタイル専門の美容ライターとして活動したのち、書籍ライターに転向。現在は、様々な媒体にエッセイやコラムを執筆する。
著書に8万部を突破した『女の運命は髪で変わる』、『書く仕事がしたい』など。理想の男性は冴羽獠。理想の母親はムーミンのママ。小学4年生の息子と暮らすシングルマザー。