子育ては、ロックンロールと見つけたり

第5回

出生前診断と、思い知らされる命のこと 前編

2022年3月11日掲載

※この記事には「出生前診断」に関する非常にセンシティブな内容が含まれます。

ある日、夫が「出生前診断を受けてほしい」と言い出した。出生前診断とは、お腹の中にいる赤ちゃんに先天性の病気や異常がないか調べる検査のことをいう。事前に病気などがわかれば準備も覚悟もできるから、受けない手はない、と言うのだ。

私はその話を「さすまたで人を追い詰めるのってどんな感じなのかな」といった無関係なことを考えながら「へー、受けよっか」と適当に快諾した。

当然のことだが、出生前診断はそんな軽いノリで受けるものではない。本来は、異常が見つかった場合のことをパートナーとしっかり話し合ったうえで、受けるかどうか決断する検査なのである。

しかしこのときの私の中には「ま、ゥチらの子どもだし大丈夫っしょ」という、底抜けに明るいギャルがいた。陽性の可能性など、微塵(みじん)も考えていなかったのである。しかしこのあと、こんな軽々しく出生前診断を受けた自分自身のことを、心の底から恨むことになる。

出生前診断には「確定検査」と「非確定検査」の2種類がある。「確定検査」には、お腹の中から羊水や胎盤の細胞を採取する方法などがあり、明確な結果がわかる反面、母体や胎児に負担がかかり流産等のリスクを伴う。

一方「非確定検査」は、確定検査ほど精度は高くないが、採血などの母体や胎児への影響の少ない方法で、比較的安価で受けることができる。私は、非確定検査「クアトロテスト(母体血清マーカー)」というものを受けてみることにした。

いつも通っている病院では検査を実施していないため、別の病院を予約する。受付で渡された書類に署名などを済ませて、採血をしたらすぐに検査は終了した。

それから10日後、結果が出たとの連絡が入り再び病院へ行く。

クアトロテストでは、21トリソミー(ダウン症候群)、18トリソミー(エドワーズ症候群)、開放性神経管奇形(開放性二分脊椎・無脳症)といった疾患を持つ確率を調べることができる。

それぞれに「カットオフ値」と言われる値が設定されており、カットオフ値以上の確率の場合は陽性、これ未満の場合は陰性となる。

診察室に入ると、先生が1枚の紙を差し出した。

「18トリソミーと開放性神経管奇形については、確率はかなり低いと出ています」

やっぱりね。と心の中で思った。なぜなら、謎の自信があるから。「受けてみてよかったね」と一言言って、この結果用紙をPDF化する夫の姿が頭に浮かんだ。

「ただ、21トリソミー、ダウン症なんですが、」

先生が指差した先を見る。小さな字で「1/21」と書いてあった。

「ダウン症のカットオフ値は、295分の1ですが、しりさんは21分の1と出てます」

「というと、どういうことですか」

「陽性ということになります。しりさん、まだ30歳ですよね。正直、この年齢にしてはかなり高い確率です」

脳天を、どデカい岩でガ――――ンと殴られたような大きな衝撃が走った。

「まあ、あくまで、可能性ですから。同じ値が出た妊婦さんが21人いたとしたら、そのうち20人には異常がないので。これが多いか少ないかは、個人の感覚になります。気になるようなら確定検査を受けることをおすすめしますが」

「……受けます」

私は、無意識にそう答えていた。

病院を出て、足早に電車に乗り込む。スマホを開き「クアトロテスト 結果 陽性」と検索すると、個人のブログがいくつかヒットする。

どれも「256分の1と告げられました」「250分の1でした」と自分よりも低い数値ばかりで、私の叩き出した21分の1より高い確率の人は1人も見当たらない。

またクアトロテストは妊婦の年齢も加味される計算方式になっているため、自分より5歳、10歳上の人が書いた記事ばかりが出てくるのだった。

言葉を変えて「クアトロテスト 1/21」「クアトロテスト 30代前半 陽性」などとピンポイントで結果が出そうなワードで挑戦してみるものの、望んでいる結果が表示されることはない。調べ尽くしていると、いつの間にか目的の駅を通過していた。

21分の1って、もうほとんど、「そう」ってことなんじゃないのか。

Twitterを開く。「出生前診断」と検索すると、「どんな結果だったとしても、産むと決めてる」「何があってもこの子を育てると夫と話しました」といった内容がずらりと出てくる。

みんな、立派だ。私のようにしぼんでいる人は、1人もいなかった。

家に着くと、ゲームをする夫に一言「陽性だったわ」と、極力暗くならないように伝えた。

「そうなんだ。確率は?」

「21分の1」

「なるほどね……」

夫はそう言いながら、『真・三國無双8』をプレイする手を一切止めない。

その姿を見て、私の中を占めていた喜怒哀楽が急速に「哀」から「怒」へと切り変わった。

「ねえ、なんでゲームなんかやってんの」

どこの世界に、出生前診断の結果が陽性だったと聞かされながら、呂布(りょふ)を無双させて董卓(とうたく)を撃破する人間がいるのか。必死に瞳の奥に押し込めていた涙が、この一言を皮切りについにボロボロとこぼれた。

「なんでそんなに泣いてんの」

なんもわかってない。なっっんもわかってない。私は2回言った。

なんで泣いているか。そんなの、これまでお腹の中の子と一緒に過ごしてきたからだ。私の半分を分けて、全部知った気になっていたからだ。そして、どんな結果でも産みたいと考えていたはずなのに、こんなにもショックを受けている自分が最低で、消えたほうがいいと思っているからだ。

私も「何があってもこの子を育てる。」って、言い切れる人でありたかった。

大人になって初めて、声を出して、しゃくりあげるように泣いた。

さすがに夫はゲームをやめ、私をベッドに座らせて背中をさすった。

「クアトロテストの確率が高くても確定検査で陰性になる可能性はあるよ。あと今回出た『21分の1』自体の信憑性も8割程度、っていう報告もある」

夫は立ち上がると、戸棚の奥からトランプを取り出した。以前2人でベロベロに酔っ払った帰り道、コンビニであれもこれもとカゴに入れたうちのひとつだ。

夫はカードをよくきると、テーブルの上に21枚、裏返しに並べていった。

「この中にハートのキングを入れたんだけど、どれだと思う?」

私は少し悩んで、真ん中あたりのカードを指差した。ひっくり返すと、出たのはスペードの6だった。再び21枚のカードを並べ直し、次は端から3番目のカードをめくると、今度はダイヤの10だ。

それを5回10回繰り返しても、1回目でハートのキングが現れることはなかった。

一息ついて、夫は言う。

「21分の1なんて、こんなもんなんだよ。だから今は必要な情報を収集して、できる準備をするしかない」

「でももし、陽性だったらさ」

私はそこで言葉を止めた。

そんな私を見て、夫は口を開く。

「万が一のために、中絶手術についても調べた。中絶手術は21週までしかできない。迷う気持ちがあるなら、病院に相談だけでもしに行って、選択肢として選べるようにしておいた方がいいかもしれない。ちょっと遠いけど、この病院なら21週ギリギリまで手術ができるし、診察のWEB予約も受け付けてるよ」

そう言ってスマホの画面をこちらに向けてくる。このときばかりは、夫の冷静さと用意周到さが嫌になった。一緒に、わけもわからず泣き喚き、苦しんでほしかった。

けどあとから聞いたら、このとき夫は私の狂乱ぶりを見て、自分は騒がずに冷静さを保った方がいいと判断して、必死で考えを巡らせていたらしい。

この日まで私は、食べ物に気を遣い、大好きなアルコールも断ち、ぺたんこの靴で足元に注意しながら歩き、エコーで見られるお腹の子の成長を心から楽しみに生活してきた。すでにこんなにも大事な存在だというのに、中絶なんて考えられるわけがない。

じゃあ、この「産む」と言い切れない自分はなんなのだろうか。確定検査を受けて陽性だった時の自分を思い浮かべようとする。心の中はどうなっていて、目の前の医師に何を伝えているのか。帰ってきて夫と何を話すのか。自分のことなのに、何一つ想像することができなかった。

そんな風に自分の意思がまるで分からないにもかかわらず、混乱のままに、私は夫が見つけた病院に予約を入れたのだった。

都心から離れた、隣県にあるクリニックである。コロナの感染予防で付き添いは禁止となっているため、たった1人、乗ったことのない路線を乗り継ぎ、地図アプリを頼りに1時間半ほどかけてたどり着いた。

受付で「来院の理由を指差してください」と言われ、小さなボードを差し出される。「妊婦健診」「不妊治療の相談」などの中から「中絶手術の相談」を指差した。

診察室に呼ばれて入ると、メガネをかけた40代ほどの男性の医師がこちらを向いて待っている。

持参したクアトロテストの結果用紙を見せて、自分の罪を懺悔(ざんげ)するように、恐る恐る状況を説明した。

「21分の1 !? なるほど、それはそれは……」

医師はあからさまに驚いた様子で、結果用紙をまじまじと眺めた。私は続ける。

「産みたいとは思ってるんです。でも、まだ悩んでいるということは、出産を諦めることについても、選択肢として知っておいたほうがいいと、思って」

泣かないように泣かないようにと、綱渡りのようにゆっくり言葉を繋いでいたのに、また泣いてしまった。

「出産を諦める」。口に出して改めて、自分が今から相談しようとしていることが、あまりに残酷で身勝手だという事実を思い知らされる。

涙でその先が話せなくなっていると、医師は早口でこう言った。

「まあ、クアトロテストって精度がそんなに高くないのよ。まずは陰性になることを祈りましょう」

パソコンに何かを入力しながら、医師はこう続ける。

「中絶手術はね、『命を断つんだから痛みぐらい耐えろ』っていう根性論で、母親に痛みを味わわせるためにわざと麻酔なしでやるってとこも多いの。でもね、めっちゃくちゃ、死ぬほど痛いの。僕ね、患者さんが痛がってるところ見たくないから。お母さんだって中絶したくて妊娠してるわけじゃないでしょ。だからうちでは麻酔で眠ったまま手術を受けられますから、痛みはまったくないですよ」

ひょうひょうとそう話しながら「じゃあ一旦この日付で手術の予約だけ取りますからね。陰性の場合、すぐ連絡してもらえればキャンセルできるので」と、テキパキと段取りを進めていく。その一連の作業からは一切、医師個人の感情を読み取ることはできない。

「あと中絶したとしても、流産しやすくなったり子どもできにくくなったりも、まったくないからね。そのあたりは安心してくださいね」

この病院では、出産も請け負っている。新しい命を大切に育んでいる人が同じ病院内にいる中で、私のような患者のことをどう思っているのだろうか。軽蔑されていやしないかと、ここまできて自分の心配ばかりをしている自分が、心底嫌になった。

帰りの電車に乗り、窓の外の景色をぼんやりと眺める。願いを込めるように、両耳にはめたイヤホンからは「ハローハロー 笑顔で会いましょう」と明るく歌う曲を繰り返し流した。

途中の停車駅で親子が乗り込んでくる。たいていの母親は、まさか中絶手術のことなんて想像もせず、お腹の中の子が無事に生まれてくることだけを考えながら妊娠期間を過ごすのだろう。私も当然、そうなると思っていた。

染色体異常は母親に原因がないのは知っている。

けど、なにかひとつでも違う行動を取っていたら。たとえば月曜日の朝ごはんを、ご飯じゃなくパンにしていたら。昨日着た洋服を、スカートじゃなくパンツにしていたら。

そんな小さな歯車の噛み合わせの先に、クアトロテストの結果を笑顔で受け取る自分がいたのではないかと、そう思わざるを得ないのだった。

著者プロフィール
しりひとみ

ライター・コラムニスト。1976年北海道知床半島生まれ。テレビ制作会社のADを経てファッション誌でヘアスタイル専門の美容ライターとして活動したのち、書籍ライターに転向。現在は、様々な媒体にエッセイやコラムを執筆する。
著書に8万部を突破した『女の運命は髪で変わる』、『書く仕事がしたい』など。理想の男性は冴羽獠。理想の母親はムーミンのママ。小学4年生の息子と暮らすシングルマザー。