「高齢化」が社会問題として語られるようになって久しい現在。約3割が65歳以上の高齢者で占められる日本は今後ますます高齢化が進むと予測され、若者の社会保障の負担増や経済の衰退など、数々の課題が声高に叫ばれています。
また、男女ともに平均寿命が80歳を超える現代では個人が「老い」とどのように向き合うかも重大な課題となっています。
社会全体の「老い」、そして個人の「老い」と、人類が経験したことのないフェーズに進み続けています。
先の見えない時代だからこそ、社会と個人の両面から「老い」とはなにかを考え、どのように老いと向き合っていけばよいかを思想家と武道家の2つの顔をもつ内田樹氏と模索していきます。
身体の「衰え」とどう向き合うか?
<担当編集者より>
内田先生、こんにちは。
先日は第1回のお返事をありがとうございました。在原業平の歌から始まって、森鷗外の「じいさんばあさん」まで、さまざまな題材をもとにお話が進んでいき、大変ひきこまれました。
明治時代までは老人を蔑むような風儀はなかったのではないかというお答えに、やはり「老い」について考えることが、いまの時代の空気をつかむヒントになるのではないかという気持ちが強くなって参りました。
さて、少し話が逸れてしまうかもしれませんが、先生がご紹介くださった森鷗外の「じいさんばあさん」の一節、とても気になりました。
「毎日同じ時刻に刀劔に打粉を打つて拭く。體を極めて木刀を振る」
「老い」と聞くと、私の場合は真っ先に体の衰えを想像します。しかし、「じいさんばあさん」に登場する老人は、年を重ねて洗練され、私が抱いている老いのイメージとは少し様子が異なるようです。
お返事の前段でも、「機を見る 座を見る」ことにふれられていましたが、老いによって研ぎ澄まされる身体性のようなものがあるのか不思議に思いました。
内田先生は武道家として、若いころからご自身の身体に向き合ってこられたかと思います。年を重ねられるなかで、身のこなしや身体の感じがどのように変わってこられたのか気になります。
衰えを感じる瞬間があるのか、あるいは若いころには到底できなかった身体の使い方ができるようになるのか。どうなのでしょうか。
こんにちは。内田樹です。
老いについての往復書簡二通目は「衰え」についてですね。
もちろん加齢することで身体能力はどんどん衰えてきます。僕は最初に歯が悪くなって、50代の終わりには半分くらいインプラントに入れ替えました。眼はもともと近眼でしたけれど、それに老眼が加わり、本を読む時、ひとの話を聴く時、車を運転する時、それぞれいろいろな種類の眼鏡をとっかえひっかえかけ替えています。膝は50代に痛み出して、ずいぶん長いことだましだまし使っていましたが、70歳過ぎて軟骨も半月板もすり減って歩行困難となり、去年人工関節の手術を受けました。さいわい手術がうまく行って、武道の稽古を継続できるようになりました。
歯に眼に膝ですから、太古の狩猟生活の時代でしたら、食べ物が噛み切れない、眼が見えない、歩けない老人ですから、集団から脱落して、とっくに道端に屍をさらしているはずです。さいわい医療テクノロジーの進化のおかげで、ほんとうはとっくに死んでいるはずの人間が、ふつうの人間のような顔をして暮らすことができる。「ありがたい」と手を合わせる以外にありません。
でも、この「医学の進歩のおかげで、私はほんとうなら死んでいるはずなのが、まだ生きている」というのは、自己認識のあり方としては大切だと僕は思います。大切というか、貴重だと思います。だって、そんな特殊な自己認識を持つ機会は、医学が未発達だった時代にはなかったんですから。もしかすると、医学の進歩が人類にもたらしてくれた最大の贈り物は「長生きできるようになった」ということではなくて、「死んでいるはずなのにまだ生きている」というそれまではまず経験することのできなかった心的状態を、多くの人が日常的に経験できるようになったことではないか、そんな気がします。
死んだはずなのにまだ生きているというのは、今享受しているこの命が医療技術を開発したり、新薬を発明したり、健康保険制度を整備してくれた先人たちからの「贈り物」だと考えることです。生きているのは自分の手柄じゃない。「みなさんのおかげ」だという認識を持つことはとてもとても大切なことじゃないかと僕は思います。
「死んだはずがまだ生きている」というのは、今はもう「余生」だという意味です。天から贈られた「ボーナス」だということです。そういうふうに自分の今を認識することができたら、ものの見方はずいぶん変わるんじゃないでしょうか。少なくとも僕は変わりました。今生きているのは「贈り物」なのだとすると、当然贈与論のルールに従うならば、僕には「反対給付義務」が発生する。「お返し」をしないといけないということです。贈り物をもらった場合にはお返しをしないと「罰が当たる」という信憑を有さない集団は存在しません。これはきっぱりと「存在しない」と言い切ることができます。
お中元お歳暮をもらって、お礼状を書かないと「何か悪いこと」が起きる。「おはようございます」と挨拶されて、返事をしないと「何か悪いこと」が起きる。それくらいのことは現代日本人だってわかりますよね。でも、この心情は太古的な起源を持つものなんです。「反対給付義務を履行しないと、何か悪いことが起きて、場合によっては死ぬ」というのは、人類が他の霊長類から分岐して「人間」になった時からの決まりです。そのルールを採用したことで「交換」という行為が始まり、「経済」という活動が起動したのですから、「贈り物をもらったらお返しをする」というのはものすごく大事なことなんです。このルールを否定して「オレは人から何かもらっても、お返しなんかしないぜ」という人がいたら、その人は経済活動を否定し、交換を否定し、さらには人間であることを否定していることになります。ですから、そういうことはしちゃいけないんです。
話を戻しますと、「いま生きているのは贈り物だ」と思ったら、その瞬間に反対給付義務が発生します。「じゃあ、お返ししなくちゃ」ということになります。でも、この場合の「お返し」って何でしょう。そもそも誰に返したらいいんでしょう。
病院のお医者さんたちや看護師さんにお返しを持って行っても、これは院内規則で受け取ってもらえません。まあ、ある意味当然ですよね。「医療の進歩」のおかげで生きながらえているわけで、そんな集合的な営みに対して個別的なお礼はできません。では、どうしたらよいのか。まあ、そんなに慌てることもないんです。「さまざまな先人のご努力のおかげで余生を生きることができたのだから、今度は私たちが若い方たちが愉快に豊かに生きられるような世の中を遺してあげることがお返しだ」というふうに考えればいい。後世に何でもいいから「よきもの」を贈ること。それを自分の義務だと思って余生を生きればいい。僕はそんなふうに考えています。
ご質問は「衰えを感じるか」ということですけれども、さて、「衰え」というのはどういう意味なんでしょう。それが「以前はできたことができなくなった」という「減算法」に基づく自己認識なら、それはあまり賢い自己認識ではないような気がします。だって、そういうふうに考えると、つらいじゃないですか。
若いうちだったら、何か「したいこと」があって、それが「できない」という場合には、「努力すればこれまでできなかったことができるようになる」と考えることができます。病気になったり、怪我をした場合でも、治療すれば「回復する」と考えることができる。
でも、老人になるとそれができない。病気になったり、怪我をした場合でも、たいていその理由は「加齢によるもの」です。死神と競走して走り勝った者は過去におりません。このレースは必ず負ける。
老人になると、「これまでできなかったことが、努力してできるようになった」ということはほとんどありません。70歳過ぎてから100メートル走のタイムを縮めるとか、筋トレで重い負荷を筋肉にかけるとかいうことはほとんど自殺行為です。努力して、それまでできなかったことができるようになるのは「歌を詠む」とか「詩を書く」とか「書を習う」とか「謡を覚える」とか、そういう文化的な活動にほぼ限定されます。
老人になってから疾病や障害を生じた場合には、もうそれが「元に戻る」ということはありません。痛みが緩和するとか、不自由が受忍限度内におさまるということはありますけれど、「むかしみたいにつるつるの心臓や胃袋に戻る」ということは、これはもう絶対にありません。
ですから「治癒」とか「回復」とかいうシンプルな普通名詞の意味さえ、若者と老人では違うんです。老人にはその語の厳密な意味での「治癒」も「回復」もありません。苦痛や不便が「受忍限度内に収まる」だけなんです。ですから、身体についてのとらえかたをどこかで切り替えないといけない。
僕が「切り替え」をしたのはかなり早い時期でした。いまから20年以上前くらいです。50代はじめに膝が悪くなった時に、僕は「治癒」という言葉の意味を切り替えることを余儀なくされました。その時、膝の痛みが耐え難くなったので、整形外科で診察してもらいました。すると医者から「もう激しい運動はやめなさい」と言われました。その時が「老い」を感じた最初でした。医者からは、階段の上り下りは禁止、正座は禁止、革靴も禁止と言われました。
「あの……武道の稽古はどうでしょう?」と訊いたら、目を丸くされました。「そんなこと許されるはずがないでしょう。あなた、それで飯を食っているわけじゃないんでしょう? だったら、もう武道なんか止めなさい」と叱りつけられました。
そう聴いて、ちょっとがっかりしましたけれども、医師の忠告は軽くスルーして、痛む膝を抱えたまま、合気道や杖道や居合の稽古を続けました。武道は僕の生きがいですから、膝が痛いくらいのことで止めるわけにはゆきません。
さいわい、その直後に、池上六朗先生と三宅安道先生という希代の治療家に出会うという幸運に恵まれ、お二人に手当てをして頂きました。以後、20年間は膝の痛みを「受忍限度内」に収めた状態で過ごすことができました。このお二人に会っていなかったら、50代半ばくらいで僕は武道生活を終えていたかも知れません。
それでもその時点で「四半世紀、やれるだけの稽古はやってきた」という自負はありましたから、悔しがるとか、自分の膝に向かって「バカバカ、膝のバカ」と恨みごとを言うというようなことはありませんでした。わりとさばさばと武道家人生に終わりを告げて、何か次の生きがいを探したと思います。
ともあれ、最初に行った整形外科で「武道家としては終わりです」という宣告を受けた時点で僕の「余生」は始まっていたのです。そのあと池上先生、三宅先生に治して頂いて、膝を使い延ばすことができたのは「ボーナス」なんだと思います。20年にわたる「ボーナス」ですから、感謝以外にありませんが、とにかく「もう身体がしだいに使えなくなってきている」という覚悟を求められたのは、ずいぶん早くからだったんです。
その時に僕は「身体についてのとらえかたの切り替え」をしました。もう「機能が回復する」ということはない。いささかパフォーマンスの低下したこの身体とていねいに付き合って、それが蔵している資源をできるだけ長持ちさせるような使い方をするしかない、と。
だから、「衰え」との付き合い方についてはずいぶん年季が入っているんです。たぶん僕と同年齢の人たちと比べた場合、僕は例外的に長い期間「老人」をやっていると言ってよいと思います。かなり若い時から「老いに慣れている」んです。
それはもともと虚弱な子どもだったことも関わっていると思います。
6歳のときに感染症から心臓弁膜症に罹って、医者から「余命一月」と宣告されたことがありました。さいわい米国から輸入された新薬が効いて、一命をとりとめました。そういう人間ですから、ある意味6歳からあとずっと余生みたいなものなんです。
そのあとも9歳、11歳と隔年で心臓の状態が悪くなって、二度長期に入院しました。ですから子ども心に「あまり長生きできないんだろうなあ」と思っていました。家族もそう思って僕のことを見ていたと思います。「どうせ長生きできない子なんだから、好きにさせてやろう」というふうに両親は思っていたようです。だから、兄に比べると、僕に対しては両親はほんとうに甘かったです。何でも好きなことをさせてくれた。
身体が弱かったので、運動はできませんでした。走ったり、泳いだりということは中学を出るまで公式には禁止されていました。心臓が「完治」と診断されたのは19歳になってからです。
だから、よく数えてみると、僕の場合、身体が「五体満足」だって期間はあまり長くないんです。0歳から6歳までと19歳から50歳までですから、ざっと35年。あとはどこかが不調で、「苦しい」とか「痛い」というのが当たり前だった。
そういう生来虚弱な人は、老いに対して親和性が高いと言えるかも知れません。子どもの頃から頑健で、臓器も万全で、つねに絶好調という人の方が「老い」に直面した時につらいかも知れない。なったことがないからわかりませんけれど。
とにかく僕は「余生」というとらえ方に小さい頃から親しんでいたので、これだけ弱い身体で35年もわりと健康に過ごせたのなら、まあ上等じゃないのと考えていました。「減算法」じゃないんです。「35年間も」楽しくこの身体を使わせてもらえたんだから、それだけで感謝しなくちゃいけない。そういうふうに考えるようにしてきました。
僕は自分の身体を「いくら使っても文句を言わない頑丈な機械」のようなものだと思ったことがありません。実際に二十代三十代にはかなり頑丈な身体をしていたんですけれども、それでも心の底には虚弱児だった頃の記憶がありますから、「こんなこといつまでも続くはずがない」という一抹の不安がありました。だから、たいせつに使っていました。
自分の身体を「壊れやすいもの」「傷つきやすいもの」「衰えやすいもの」だと思ってきました。「自分の身体は弱い」という自己認識がデフォルトなわけですから、おのれの身体の「衰え」を感じても、「困った……どうしたらいいんだ」と当惑するということはあまりなかったと思います。「まあ、そうだわな。しゃあないわな」という感じでわりと穏やかに衰えを迎えることができた。
そういうものですよね。虚弱な身体に生まれついたとしても、それはそれでちょっとは「よいこと」もある。もちろん健康な身体に生まれついた人は、ものすごく「よいこと」を享受してきたわけですから、どちらにしても、「世の中、そんなに捨てたもんじゃないよ」ということではないでしょうか。
1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授、芸術文化観光専門職大学客員教授。東京大学文学部仏文科卒、東京都立大学人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス文学・哲学、武道論、教育論。主著に『ためらいの倫理学』、『レヴィナスと愛の現象学』、『寝ながら学べる構造主義』、『先生はえらい』など。第六回小林秀雄賞(『私家版・ユダヤ文化論』)、2010年度新書大賞(『日本辺境論』)、第三回伊丹十三賞を受賞。近著に『街場の米中論』、『勇気論』など。神戸市で武道と哲学研究のための学塾凱風館を主宰。