老いのレッスン

この連載について

「高齢化」が社会問題として語られるようになって久しい現在。約3割が65歳以上の高齢者で占められる日本は今後ますます高齢化が進むと予測され、若者の社会保障の負担増や経済の衰退など、数々の課題が声高に叫ばれています。
また、男女ともに平均寿命が80歳を超える現代では個人が「老い」とどのように向き合うかも重大な課題となっています。
社会全体の「老い」、そして個人の「老い」と、人類が経験したことのないフェーズに進み続けています。
先の見えない時代だからこそ、社会と個人の両面から「老い」とはなにかを考え、どのように老いと向き合っていけばよいかを思想家と武道家の2つの顔をもつ内田樹氏と模索していきます。

第3回

親の老いとどう向き合うか

2024年6月27日掲載

<担当編集者より>

 内田先生、こんにちは。

 第2回のお返事をありがとうございました。内田先生が幼少期は身体が弱かったと、どこかで拝読したことがあったのですが、長く患われていたのですね。

 私は31歳になったばかりなのですが、これまでで罹った一番大きな病気はインフルエンザで、スポーツにも励んできましたが骨折もせず、入院したこともありません。健康であるがゆえに自分の身体に対して、あまり繊細な扱いをしてこなかったような気がします。

 さて、前回のご自身の衰えとの向き合い方のお話から引き続いて、今回は「家族の老いとの向き合い方」についてお伺いします。

 少し私自身の話をさせてください。私は祖母とともに暮らし、育てられました。同世代の親御さんは還暦を迎えるくらいの世代なのですが、私の祖母はもうすぐ80歳。帰省するたびに久しぶりに会う祖母の衰えを感じ、なんだか切ない気持ちと、あまり親(祖母)孝行できていないことへの後ろめたさを覚えています。

 祖母の老いに直面して、家族について考える機会が増えたのですが、内田先生はご両親の老いにどのように付き合ってこられたのでしょうか。

 ぜひ、ご経験談をお伺いしたいです。

 こんにちは。

 今回は「両親の老い」とどう付き合うか、というトピックですね。

 でも、その話にたどりつく前にちょっと迂回をさせてください。それは「両親の死とどう付き合うか」という話です。

 それは話が先走り過ぎで、もっと手前の話をしたいんですと思われるかも知れませんが、そうでもないんです。「両親の老い」と適切に付き合うためには、「両親が死んで取り残された子ども」の立ち位置を想像的に先取りすることが必要だと僕は思います。刑部さんの場合は、まだご両親いらっしゃるわけですけれども、その両親の老いと向き合うためには、もっと長いタイムスパンの中に身を置く方がいいように思います。

 どんな場合でも、目の前に「待ったなし」で迫って来る出来事があると、ついそこに気持ちがとどまってしまいますが、現実に適切に対処するためには、その出来事をもう少し長い時間の流れの中で少し遠くから眺めることが必要です。ふつうは出来事の切迫に浮足立つと、頭が真っ白になってしまいます。でも、そういうふうに浮足立ったときに下した決断はたいていが間違いです。「間違い」とまではいわなくても、あとになると「あんなことしなければよかった……」という悔いを残すことがしばしばあります。だから、ことに臨んで慌てないことが肝要です。そして、そのためには「待ったなしの出来事」を「待ったありの出来事」に変換する。「待ったあり」というのは要するに、そのステップバックして、目の前の出来事を遠景として眺めるということです。

 親の老いがシリアスな病気や認知の衰えとかいう「事件」として切迫してくると、子どもは浮き足立ちます。当然ですよね。親が病気だと聴くと、身体のどこがどんなふうに病変しているのか、これからどうなるのか、そういうことがすごく気になります。体の中の臓器や細胞を覗き込むような「ものすごく対象との距離が近い」状態になります。

 でも、そういう接近の仕方をしていると、親について「この人がほんとうはどんな人で、どんなふうに老いどんなふうに死ぬつもりでいるのか」というもっとずっと根源的な問題が見えにくくなります。

 親の老いというのは、かなり長い時間的文脈の中で向き合うべきことだと僕は思います。単に物理的な衰弱や病理的な変化だけを気にするのではなく、「この人はどういうふうに老い、どういうふうに死ぬつもりでいたのだろうか」という親の心持ちに添ってみる。

 誰でも老い、誰でも死ぬ。でも、みんなそれぞれに「自分の老い」や「自分の死」という一回きりの経験をできることなら「豊かなもの」としたいと願っています。何よりもそれまでの生きて来た軌跡とうまく連結するしかたで老いや死を経験したいと思っている。「自分らしい老い」「自分らしい死」というかたちで、人生に終止符を打ちたいと思っている。「終わりよければすべてよし」というでしょ。あれはほんとうにそうなんです。

 僕たちは「年を取ってあんなふうになるとは思わなかった」とか「あんな死に方をするとは思わなかった」というような評言を聴きたくないんです(死んだあとですから、もう聴くことができないわけですけれども、生きているうちにそれが気になるから不思議です)。

 だから、親の老いと向き合う作業は、刑部さんのご両親が「どんなふうに老いるつもりでいるのか」、その主観的な見通しに添うということになります。変な言い方になりますけれども、親の老いに向き合うのではなく、老いつつある親といっしょに「これからどういうふうに老い、どういうふうに死んでゆくのか」、いっしょに未来を見る。親と同じ方向を見る。向き合うんじゃなくて、手を携えて、ともに行く先を見る。

 よく医療や介護の世界では「寄り添う」という言い方をしますけれど、あれは癒す人と癒される人がface to face で見つめ合うんじゃなくて、ふたりで同じ風景を、同じような感覚で、しずかに眺める…というあり方を指すのではないかと思います。

 「うまい香具師」は客と目を合わせないそうです。客を見ずに、「客が見ているもの」を見る。客が茶碗を見ていたら、いっしょにその茶碗を見る。そして、「伊万里だっていうんですけれど、どうなんでしょうね。本物ですかねえ……」とかぼそりと呟く。そうやって、いつのまにか「どちらとも利害関係のない第三者」でもあるかのように客に「寄り添って」しまう。二人とも並んで品物を鑑定するような立場になって、「いや、その茶碗よりこっちの香炉の方がものはいいみたいですけどね」などという香具師の口車に載せられて、気がつくと客は財布を取り出している……。

 これは名医も同じだと思います。名医は病気を患者の属性とはみなさないんです。そうではなくて患者といっしょに病気を眺める。「ううむ、これはけっこうすごいことになっていますね。でも、なんとか手を携えて、がんばって治しましょう」というふうな語り口で医者と患者が「バディ」の関係で病気と向き合うという図式に持ち込みます。これは患者からすると、すごく精神的負担が軽減されるんですよ。病気を自分から切り離してくれるんですから。もうこの病気は自分の身体の一部の変異や不全ではなくて、自分と医者が手を携えて向い合う「対象」だということになる。そして問題解決の専門家は医者の方ですからね。「あとはよろしく」と言って、自分は寝てればいい……という気分になれる。

 下手な医者は患者と病気を「ひとまとめ」にします。「あなたね、これは生活習慣病なんですよ。こんな体にしたの、全部あなた自身なんだからね。あなたの責任だよ。この病気は問題じゃなくて、あなたの人生の『答え』なんだよ」というようなひどいことを言います。

 いや、おっしゃる通りで、このお医者さんの言葉はまさに真実を衝いてはいるんですけれども、「それを言っちゃあおしまい」の真実なんですよ。そんなことを言われて、じゃあがんばって病気を治そうなんて思う患者いませんから。すでに病気になっただけでもうだいぶがっくりきているのに、そこに追い打ちをかけるように「病気になったのはあなたの責任」と言われて、このさき闘病しようなんていう体力気力が湧き上がるはずがないですよ。

 病人をなんとかしようと思ったら、「うまい香具師」と同じく、病気を「向こう側」に置いて、医者と患者がそれを並んで眺めるという位置取りが適切なんです。それなら、「治してください。お願いします」と無心にすがりつくことができる。この「無心」というのがたいせつなんです。

 変な喩えを引いてすみません。でも、これが「寄り添う」ということだと思うんです。向き合うんじゃなくて、同じ方向を一緒に見る。老親の場合なら、親自身の老いと衰えと死を、親と同じ視線で見る。「同じ視線」にはなかなかなれませんけれど、「同じ方角」で見ることならできるでしょう。

 そのときにはじめて彼らが「どんなふうに老いるつもりなのか、どんなふうに衰えるつもりなのか、どんなふうに死ぬつもりなのか」が(少しだけ)わかる。大事なのはそのことだと思うのです。「親の身になって」想像力を発揮する。親たち自身、自分がどんなふうに老いる「つもり」でいるのか、それなりに解像度の高いイメージはあるはずです。そして、できれば子どもにはその「つもり」に寄り添ってもらうことを望んでいると思います。

 その望みに応えてあげるのが、子どもの老親にしてあげられることだと思います。

 彼らがどんなふうに「老いるつもり」でいるのか、それはこれまで彼らがどんなふうに育ち、どんなふうに家庭を作り、どんなことに喜びを感じ、どんなことに苦しみ、どんな子どもを育てようと願い、どんなふうに裏切られ、どんなふうに老い、子どもに何を託して死ぬのか。その長い物語に付き合って、はじめて「どんなふうに老いるつもり」でいるのか、わかる。

 だから、たいせつなことは「親の話を聴く」ことじゃないかと思います。別にこちらからリクエストしなくても、差し向かいでお茶なんか飲んでると、いつのまにか「昔話」になっている。その断片的な「昔話」をずっと聴いているうちに、だんだんと親が「どんな人だった」かは分からなくても、「どんな人だと思われたいのか」がわかってくる。そして、もちろん寄り添うのは後の方なんですよ。

 僕はよく親の話を聴く子どもでした。よく学校から帰ったあとに、おやつの大福なんか食べながら母親の女学校時代の昔話とかぼんやり聴いていました。兄によく「よく樹はあんなおばさん相手につまらない話を聴いてられるな」と言われました。でも、僕はそれほどつまらない話だとは思いませんでした。昭和15年頃の神戸の街がどんな感じだったのかなんて、小学生だった僕には想像もつきませんでしたから、ただ聴いているだけです。でも、後年谷崎潤一郎の『細雪』を読んだときに、母親の昔話の細部がずいぶんくっきりと甦ってきました。

 父は1958年ころを境にして、過去の話を口にしなくなりましたが、それまでは小学生だった僕を相手に大正時代の(ほとんど江戸時代と地続きだった)帯広の森の話、家出して渡った寒い満洲の話、中国語を「最後の科挙に合格した老人」から習って、間違えると長い煙管で叩かれた話、放送局でのラジオの仕事の話、雪の北京の街路をソリをつけた馬車で走る話などをしてくれました。だいぶ大きくなった後に、僕はそれらの断片から父親が「どんな人間だったと子どもに思われたいか」はなんとなくわかるようになりました。

 その両親も亡くなり、ひとりきりの兄も亡くなりましたので、僕は今は子どもの頃の「内田家」のただ一人の生き残りです。自分の家がどんな家だったか、親たちがどんな人だったか、兄がどんな人だったかを証言できる人間は僕は一人になりました。

 もう僕には「寄り添う」老親はおりませんけれども、それでも機会があると親たちのこと、兄のことを語ります。それは彼らは「こういう人だった」という客観的事実の報告であるというより彼らは「こういう人だと思われたかった」という主観的願望の記述にいささか傾いた懐旧談です。でも、供養というのはそういうものだと僕は思います。

 僕のともだちの平川克美君はお母さんが亡くなったあとお父さんと二人暮らしをして、介護をしたことがあります(彼にももちろん家庭があったのですが、奥さんを家に残して)。若い頃には父親とほとんど会話がなく、そのまま家を出て自分の家庭を持ち、没交渉に近かった父親ですけれども、生活能力がないので、そばにいて世話をする人が必要です。それができるのは自分しかないので、なむなく二人暮らしが始まった。でも、二人でずっと暮らしているうちに、平川君は自分が父親にどれほど影響されてきたのか、父親とどれほど似た気性の人間だったのかに気づきます。それから、親子とはどういうものか、家族とは何なのかについて深く考えるようになりました。その消息は彼の『俺に似た人』というエッセイにくわしく書かれています。すてきな本です。

 平川君はそれまで料理なんかろくにしたことがなかったのですが、父親のために本を読んでいろいろなレシピを試みるようになりました。父親がそれを「美味しい」と言って食べてくれるのがうれしくて、いろいろな調理器具を買い込んで、新しいレシピを仕込んで、毎晩美味しいご飯を作る料理好きになってしまった。

 でも、お父さんが亡くなった後、まったく料理を作る気がなくなってしまったそうです。僕もその気持ちはよくわかります。家事というのは、世話をする人がいなくなると、もうやる気がなくなるんです。家事はともに暮らす人のために「気づかいすることができる」という喜びをもたらしてくれるものだからです。誰かが自分の労働の成果として、美味しいものを食べたり、きちんとアイロンのかかった服を着たり、ふかふかしたふとんに寝られたりすることがうれしいんです。

 介護が平川君にとってある種の「生きがい」だったことが、父親が亡くなってわかった。そして、そういう機会を与えてくれた父親に対して、子どもの頃には感じたことのないような親しさを覚えた。

 そういう感じって、僕にはよくわかります。僕も父子家庭で12年間子どもを育てました。ご飯を作ったり、掃除をしたり、洗濯ものにアイロンかけをしたりすることが僕にはとても楽しかった。でも、娘が18歳になって家を出て行った後になると、美味しいご飯を作ろうという意欲が一気に失せました。子どもがいなくなってはじめて、家事労働というのは子どもが僕に贈ってくれた「子どもに気づかいをする機会」だったということがわかりました。

 親についても、同じことを感じます。親のありがたさというのは、「親孝行をする機会を与えてくれる」ことだと思います。父も母もそうでした。もし、死ぬまで子どもに頼らないで、全部自分ひとりで片づけてしまう親だったら、亡くなった後になって「どうして世話をするという仕事をさせてくれなかったんだろう」という悔いが残ったと思います。さいわい僕の場合は父も母も最期に少しだけ親孝行の機会を与えてくれました。

 お訊ねに対する答えになっているかどうかわかりませんが、老いた親に適切に接するというのは、子どもを「大人にしてくれる」貴重な機会ではないかと思います。

著者プロフィール
内田樹

1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授、芸術文化観光専門職大学客員教授。東京大学文学部仏文科卒、東京都立大学人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス文学・哲学、武道論、教育論。主著に『ためらいの倫理学』、『レヴィナスと愛の現象学』、『寝ながら学べる構造主義』、『先生はえらい』など。第六回小林秀雄賞(『私家版・ユダヤ文化論』)、2010年度新書大賞(『日本辺境論』)、第三回伊丹十三賞を受賞。近著に『街場の米中論』、『勇気論』など。神戸市で武道と哲学研究のための学塾凱風館を主宰。