老いのレッスン

この連載について

「高齢化」が社会問題として語られるようになって久しい現在。約3割が65歳以上の高齢者で占められる日本は今後ますます高齢化が進むと予測され、若者の社会保障の負担増や経済の衰退など、数々の課題が声高に叫ばれています。
また、男女ともに平均寿命が80歳を超える現代では個人が「老い」とどのように向き合うかも重大な課題となっています。
社会全体の「老い」、そして個人の「老い」と、人類が経験したことのないフェーズに進み続けています。
先の見えない時代だからこそ、社会と個人の両面から「老い」とはなにかを考え、どのように老いと向き合っていけばよいかを思想家と武道家の2つの顔をもつ内田樹氏と模索していきます。

第9回

「天職」の見つけ方

2024年12月26日掲載

<担当編集者より>

 内田先生、こんにちは。第8回のお返事を誠にありがとうございました。今回も「そういうことだったのか」と腑に落ちるお話ばかりでした。

 相手の嫌なことを言って、親しさを確認するというコミュニケーションの取り方、とても身に覚えがあります。中学時代、「いじり」でコミュニケーションをとるグループに属していました。私はいじられる側だったのですが、ときどき腹に据えかねて怒ると、「冗談通じないな」と呆れられ、話に入れてもらえないという経験を何度かしたことがあります。

 共感ベース、同質性ベースの仲間のめんどくささや脆さに対して実感のある人は多そうです。

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 さて、お返事のなかの、大人になってからの友だちはいっしょに仕事ができる仲間であるというお話、私にも仕事を通じて尊く、大切にしたいと思う人間関係が生まれている実感があります。

「仕事」は長い人生のなかで非常に重要な要素だと感じます。31歳のいま、友人たちと集まると、それぞれの仕事についての話を必ずしています。

「いまの仕事をこのまま続けていていいのか」「一生懸命働いているけれど、なんだかむなしい」「転職してキャリアップしている人を見ると、ずっと同じ組織で働いている自分に劣等感を覚える」――。

 悩みや不安の種類はそれぞれ違いますが、結局は「なんのために働くのか」ということについて議論を交わしているような気がしています。世の中を見ても、「なんのために働くのか」というテーマを扱った書籍は多く、現代人の心を悩ませる大きな問いだと感じます。

 これまでも、幾度となくされてきた質問だと思いますが、ここで改めて、先生に「仕事」とはなにかについてお伺いしたいです。

 私はいまの仕事にやりがいを感じますし、つらいこと、苦しいこともありますが、それに勝る喜びを感じる瞬間もあります。一方で、まだまだ30年以上働くだろうことを思うと、気が遠くなり、自信がなくなります。同じような想いをもつ人はたくさんいると思います。

 これから数十年に及んで仕事をするに当たり、なにか指針や心構えになるようなお言葉を頂戴できますと幸いです。何卒よろしくお願いいたします。

 こんにちは。今回も難しい問題ですね。「仕事とは何か?」

 在職中、学生たちを観ていると、彼女たちが人生で最初に遭遇する「仕事」に関する問題は「ある企業から内定をもらった後に、別の会社からも採用通知が来ました。後から来た会社の方がちょっと格上。さて、内定を蹴って、『いい会社』に入った方がよいのでしょうか?」という問題でした。そういう問いを抱えて研究室のドアを叩いた学生が何人かいました。

 僕の答えは簡潔明瞭です。「最初に内定くれたところに行きなよ」。「どうしてですか?」「だって、就職なんてご縁のものだから」。

 外から見ただけでは、どの会社に入れば楽しく仕事ができるかなんて、どの会社に入ればやりがいのある仕事に恵まれるかなんて、事前には絶対に分かりません。これは「絶対に」と断言できます。資本金が少し多いからとか、社員数が少し多いからとか、福利厚生施設が少し充実しているからとか、そんな外形的な差異は、実際に勤め始めてしまうとわかりますけれど、ほとんど意味がありません。

 それよりは「ご縁」をたいせつにした方がいい。だって、君の人生で最初に「うちで働かないか?」と言ってくれたところなんでしょ。だったら、そこにはいくばくかのご縁があったということですから。

 そう言うと学生たちはみんな納得してくれました。彼女たちは「ご縁」というマジックワードに弱いんです。「就職って、ご縁のものなのか、そうか……」で納得してくれる(男子学生だと、そう簡単には「ご縁」には頷いてくれないような気がしますけれど)。

 

 就職ってある意味結婚とよく似ているんです。どちらも「ご縁のもの」なんです。

 ちょっとその話をしますね。

「望みうるベストの配偶者」が登場してくるまで、次々と登場する求婚者を「あれもだめ、これもだめ」と追い払うかぐや姫のようなやり方は幸福な結婚をするためには適切ではありません。というのは、「望みうるベストの配偶者」なんてものはこの世に存在しないからです。それは結婚する前に、レディメイドのものとしてどこかにあるものじゃなくて、結婚した後に手作りするものだからです。

 だから、「あ、ご縁があった」と思ったら、ぱっと結婚しちゃう方がいいです。

 配偶者が結婚以前にどんな人物であったのかということには実は結婚にとっては副次的な重要性しかないのです。だって、結婚したら人間が変わるから。向こうも変わるし、こちらも人が変わる。両方変わる。お互いがお互いに影響を与え合って、それぞれ別の人間になる。そして「ベターハーフ(better half)」というものになる。

「ベターハーフ」って、よく考えると不思議な言葉ですよね。一言のうちに不思議なことが二つある。

 一つは、「良き(good)半分」じゃなくて、「より良き(better half)半分」であること。原級じゃなくて、比較級なんです。比較する対象がないのに比較級なんです。

 ということは、「結婚してみたら、結婚する前よりいい人になった」という意味ではないということがわかります。だって、結婚する前に相手がどんな人だったのかなんて、よく知らないなんですから比較しようがない。

 もう一つは、最初から「半分」だという点です。結婚する前はgood oneだった人が結婚したらbetter one になったんじゃないんです。half から始まる。better halfには「前史」がないんです。いきなり「よりよき半分」として生き始める。

 分かりにくいですか? じゃあ、別の例を出しましょう。「バディ(buddy)」というのがありますね。「相棒」です。

「バディもの刑事映画」っていっぱいありますよね。ウィル・スミスとマーティン・ローレンスの『バッドボーイズ』とかエディ・マーフィとニック・ノルティの『48時間』とか。

 僕はメル・ギブソンとダニー・クローヴァーがバディを組む『リーサル・ウェポン』シリーズが大好きなんです。出会った最初って、二人の仲は最悪なんです(これはどのバディムービーも同じです)。ライフスタイルも、ファッションも、食べるものも、倫理観も、規範意識も、とにかく全部が合わない。でも、メル・ギブソンの違法捜査(この人令状とか取らないんです)を必死で止めようと後をばたばた追いかけているうちに、いつの間にかダニー・クローヴァーは自殺願望のあるこの暴走刑事の直観力と行動力に敬意を抱くようになる。一方、メル・ギブソンは相棒の穏やかな家庭と節度のある生き方に親愛の気持ちを抱くようになる。そして、いつの間にか二人はロサンゼルス警察一気の合った「バディ」になっている……という「いい話」です。

 バディムービーを「刑事もの」だと思って見ているとわからないんですけれど、この二人を男女だと思って、刑事たちが捜査に成功する物語を「結婚」が波乱万丈の冒険を経て、うまくゆくという話のメタファーだと思って見ると、「バディの作り方」がわかります。

 出会う前に遠目で見ていた時は、お互いに「あんなタイプは大嫌い」なんです。それが上司の命令でいやいやバディを組まされる。当然文句たらたらで、一緒にいるのが嫌で嫌で仕方がない。でも、思いがけない機会に、相手に救われる。その時に相手に対する信頼が生まれる。ひとたび信頼が生まれると、次の危機的局面では前よりずっと高いパフォーマンスを発揮することができる。その時に互いに相手に対する敬意が生まれる。そうやって、生き死にを共にするうちに、気がついたら熱い友情で結ばれている。これが「バディムービー」の定型です。

 今の文章の最後の「友情」を「夫婦愛」に書き換えると、僕が言いたいことがわかりますね。

 夫婦の愛情って、夫婦関係を始める「前に」、できあいのものとしてそこにあるわけじゃないんです。最初は「嫌なやつ」だって、全然問題ないんです。バディはコンビを組んでからのさまざまな経験を通じてゆっくりと「創り上げられる」んです。既製品としてそこに「ある」んじゃなくて、古い言葉を使って言えば「陶冶」されるんです。

 あ、就職の話をするつもりが、結婚の話になってしまいました。すみません。結婚についての質問は、きっとそのうち刑部さんが満を持して質問してくることだったんでしょうから、先走ってすみませんでした。今日はこの辺にしておきます。

 僕が言いたかったのは、就職も、結婚も、バディも、「つくり」はどれも同じだということです。

 就職の場合、あなたが就職するより先にすでに「よい勤め先」(good one)が既製品として存在するわけではありません。そこで働き始めて、あれやこれやあって、そのうちにある日気が付いたら「より良い勤め先」(better half)として目の前にあった。バディがそうであるように。そういうかたちでしか「よい勤め先」というものは登場しないのだと思います。

 だから、勤め始めてしばらくして「悪い勤め先」であるということが分かったとしたら、それはその勤め先がもともと悪かったのではなく(多少はそうですけれど)、その勤め先との「関係」を悪くしたことについては、「あなた」にもいくぶんか責任がある、ということです。

 ここで話が終わってしまうと、ちょっと抽象的に過ぎますね。もうちょっと「明日からすぐ使えるヒント」をご提供しないと老生にお声がけ頂いた甲斐がない。その話をします。

 これはもうあちこちで繰り返し話してきたことなので、「それ前に聴いたよ」という読者の方もおられると思います。その方たちはスルーして結構です。

「天職」という言葉があります。「天から授かった職業、その人の天性にかなった職業」という意味です。みんな「天職」に就きたいと願っている。当然ですよね。

 さて、「天職」を英語で何というかご存じですか?

 callingというんです。「呼ぶこと、招待、神のお召し、召命」と並んだ後に「天職」という訳語が出てきます。あるいは、vocationともいいます。「適性意識、使命感、天職意識、神のお召し、召命、果たすべき務め」のことです。

 どちらも「呼ばれること」なんです。callingは「呼ぶ(call)」の名詞形です。 vocationはラテン語動詞voco「呼ぶ」の名詞形です。

 お分かりですか? 「天職」というのは自分でみつけるものじゃなくて、あちらから「呼ばれる」ものなんです。「神のお召し」なんです。

 原型は『聖書』創世記のアブラハムの物語です。アブラハムの下に「主」から言葉が届きます。「主」は言います。「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、私がさし示すかの地に至れ」。アブラハムはそれに従って家郷を捨てて、荒野に旅立ちます。そして、「主」の恩寵に恵まれ、「選ばれた民」の祖となることができたのです。これが「アブラハムの召命」と呼ばれる物語です。

 僕たちが何か、僕たち以外の人にはできない仕事、余人を以ては代えがたい仕事をなす時、僕たちはいつもこの原型をなぞります。「呼びかけに応答する」のです。人は必ず「呼びかけに応える」というかたちで「天職」に出会います。

 自分の経験を踏まえてもそう断言できます。天職は自分で探すものじゃないです。向こうから僕を「探しに来る」んです。

「探す」というよりは正確には「助けを求めに来る」です。

 人がおのれの「天職」に出会うのは、だいたい誰かから「ちょっと手を貸してくれる?」という支援の呼びかけを受けた時です。全部とは言いませんが、80%くらいはこのパターンです。

「ちょっと手を貸して」というのはそれほどシリアスな支援要請ではありません。「ちょっとそこのドア開けてもらえますか」とか「すみません。そこを押さえといてもらえますか」くらいのカジュアルな支援要請から始まるんです。

 そういう「呼びかけ」に「あ、いいすよ」と「応答」する。この応答に対して、一仕事終わったあとに「どうもありがとう」「これくらい、たいしたことないですよ」というやりとりがあって、それから「もしお暇ならたこ焼き食べてゆきます?」というようなオファーがある。これがね、あるんです。「たこ焼き」じゃなくて「肉まん」の場合もあるし、食べ物じゃない場合もある。でも、「ちょっとした手助け」のお礼が提示される。そして、これに「じゃあ、遠慮なく」と応じたところから、以後長い「お付き合い」が始まるのであります。

「どうしてそういうことになるんですか?」

 わかりません。でも、僕の場合はそうでした。「ちょっとした仕事」をするようになり、気が付いたら、それが「天職」になっていた。

 学園マンガはだいたい全部そうですよ。出会いのきっかけはほぼすべて「ちょっと手を貸してくれない?」というよく知らない人からの支援要請を主人公が聴き取るところから始まります。

 学園マンガの定型を侮ってはなりません。同じ話型が飽きずに何千回も繰り返されるというのは、そこに太古的な真理が書き込まれているからなんです。

 そして、これは「主」がアブラハムに向かって「父の家を出よ」と告げたのと、本質的には同じふるまいなんです。この「ちょっと手を貸して」を聴き取ったことによって、主人公はそんなところに行くつもりのなかった境域に足を踏み入れ、これまで出会うつもりのなかった人々と交流を深め、そんなことをするつもりのなかった「仕事」にかかわりあうようになる……。

「天職」というのはこの「呼びかけられたことから始める仕事」のことです。

 ですから、割と「ちゃぶ台返し」的なことを申し上げますけれど、「就活」ということをしている時点で、その人たちは「天職」に出会う機会を自分から進んで放棄しているということになります。だって、「誰も呼んでないのに、自分から仕事を探しに行く」わけでしょ? 倍率100倍の会社なんて、99%の就活生を「呼んでない」。呼ばれていないところに行っても始まりません。いや、もののはずみで「呼ばれていないところ」に採用されてしまうこともあるかも知れません。でも、それは「天職」ではありません。だから、勤め始めてしばらくして「なんか違う……」と思うようになり、転職を探すようになる。だって、呼ばれてないんですから。

 いいですか。「呼ばれる」というのは「助けて」という救難信号を聴き取ることなんですよ。「主」がアブラハムを呼んだのだって、本質的には「助けて」なんですよ。

「主」は造物主ですから、この宇宙を創った存在です。全知全能の存在のはずです。にもかかわらず、「主」は「主」を信じる存在を創造することはしなかった。そんなもの自分で創っても意味がないですから。腹話術師が人形に「あなたを崇拝します」と言わせているみたいなものですから。ですから、「主はあらゆるものを創造されたが、『主を畏れる心』だけは創造されなかった」と言われるのです。それは被造物が自力で見出すのでなければ意味がないのです。

 ですから、天地創造をしてから何十億年も「主」はずっと「誰か手を貸してよ」と呼び続けました。自分の創造のわざの意味を理解し、それに驚嘆し、それを顕彰するものが登場するのを待ち続けました。でも、何十億年待っても誰も返事をしてくれなかった。

 ところがある日、アブラハムという青年が「主」の呼びかけを聴き取った。それは雷鳴や黒い雲や燃える柴というような非言語的表象で書かれたメッセージで、言葉ではなかったのです。でも、アブラハムにはそれが「自分宛てのメッセージ」のように思われた。そして、あたりを見回して「はい」と返事をした。「私はここにいます」と。

 この時、「主」はどれほどうれしかったことでしょう(こういう擬人化はしちゃいけないんですけど、話の運びで)。なにしろ天地創造から数十億年、久しく待ち続けた果てに、ようやく「主」の「ちょっと手を貸してよ」という呼びかけに応えてくれる人間が登場したんですからね。この天地も被造物もすべては「主」が創造したものであるということに気づき、その偉大なわざを讃えるという信仰を見出すものが登場するまで、「主」が全知全能であることを知っている被造物はひとつもなかったんですからね。

「召命を聴く」というのはこのことです。

「ちょっと手を貸してくれない?」という救難信号を発信するのが誰であるか、それは決まっておりません。サイズも種類も属性もわかりません。でも、そのシグナルが届いて、「え? 私に用事なの?」と振り向いた時に、「助けて」と告げた人が「天職」にあなたを導く人なのです。

 別にその人がいきなり「はい、ここに勤めてください」と言って、具体的な職業名や企業名を教えてくれるわけじゃありません。勘違いしないでくださいね。この人は「天職に至る道筋」を指し示してくれるだけです。「天職」に至る長い旅程の起点を教えてくれるだけです。

 でも、もしみなさんがほんとうに「天職」に巡り合いたいと真剣に願っているなら、まず就活を止めてください。だって、向こうは「落とす気満々」なんですから。「99%の人は来なくてもいいよ」と言っているんですから。そんなところに自分から進んで行く義理なんかありません。

 そんなことより、学生時代の間からずっと「ちょっと手を貸してくれない?」というシグナルを聴き落とさないように注意深く生きることの方がずっとずっと、100万倍も「天職」に至るためにはたいせつです。僕の知る限りの友人たちの中に就活をして「天職」に出会った人は一人もいません。立派な会社に入って、出世して、お金持ちになって、悠々と老後を過ごしている人はいます。でも、彼らは別に「天職」に出会ったわけじゃない(だって、「退職」した後は畑仕事なんかしているわけですからね)。

 皆さん方は「天職」に出会いたいんですか、それとも「給料のいい仕事」とか「みばえのいい仕事」とかに就きたいんですか? どっち?

 こういうふうに問い詰めるのって、あまりいい趣味じゃないんですけれど、いま僕に問われて、「そんなんじゃなくて、ただ職場の雰囲気のいいところで働きたいだけです」といま思った人、それ正解ですよ。

「職場の雰囲気がいい」のはどうしてだと思います? 

 それは「あなたが求められている」からです。「あの人がいないと困るよね。」「あの人がいると仕事が捗るよね。」「あの人がいるだけで職場がぱっと明るくなるよね。」そういうふうに思ってくれる人が周りにいるということですよね。あなたが周りの人の「助けて」に応えているから、「職場の雰囲気がいい」んです。

 簡単な話でしょ? 耳を澄ませて「ちょっと手を貸して」という呼びかけを聴き落とさないように。

著者プロフィール
内田樹

1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授。東京大学文学部仏文科卒、東京都立大学人文科学研究科博士課程中退。東京大学文学部仏文科卒、東京都立大学人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス文学・哲学、武道論、教育論。主著に『ためらいの倫理学』、『レヴィナスと愛の現象学』、『寝ながら学べる構造主義』、『先生はえらい』など。第六回小林秀雄賞(『私家版・ユダヤ文化論』)、2010年度新書大賞(『日本辺境論』)、第三回伊丹十三賞を受賞。近著に『街場の米中論』、『勇気論』など。神戸市で武道と哲学研究のための学塾凱風館を主宰。