老いのレッスン

この連載について

「高齢化」が社会問題として語られるようになって久しい現在。約3割が65歳以上の高齢者で占められる日本は今後ますます高齢化が進むと予測され、若者の社会保障の負担増や経済の衰退など、数々の課題が声高に叫ばれています。
また、男女ともに平均寿命が80歳を超える現代では個人が「老い」とどのように向き合うかも重大な課題となっています。
社会全体の「老い」、そして個人の「老い」と、人類が経験したことのないフェーズに進み続けています。
先の見えない時代だからこそ、社会と個人の両面から「老い」とはなにかを考え、どのように老いと向き合っていけばよいかを思想家と武道家の2つの顔をもつ内田樹氏と模索していきます。

第4回

「供養」とは双方向的な営みである

2024年7月25日掲載

<担当編集者より>

 内田先生、こんにちは。

 第3回のお返事をありがとうございました。

 親の老いについて伺ったところ、死の話題から始まって驚きました。しかし、読み進めるにしたがって、死までを見据えた長いタイムスパンに身を置くことの意味がひしひしと伝わってきました。

 親の老いを「事件」とせず、遠景として眺め「待ったありの出来事」とすること。親の老いに向き合うのではなく、手を携えて、いっしょに未来を見ること。ハッとさせられる言葉の数々をいただき、私のなかの親孝行の捉え方が変わった気がします。

 さて、先生のお返事を拝読していて、またまた気になる言葉がありました。

 それは「供養」です。老いのことばかりを考えていましたが、その先には必ず死が待ち受けているんですよね。

 私は幸運なことに身近な人を亡くした経験がいまだなく、顔も知らないご先祖様のお墓参りに年に数回行くだけで、これまで供養について切実に考えたことがありませんでした。

 先生のお返事には、亡くなった方の「こういう人だと思われたかった」という主観的願望に寄り添った懐旧談をするのが供養だとあり、なんだか分かりそうで分からないむず痒い感じがしています……。

 先生の主宰されている凱風館では合同墓を建てられたそうですね。墓参りや供養――、なぜ私たちは死者を弔うのでしょうか。この供養という行為には一体どのような意味や効果があるのでしょうか。

 いろいろと気になることばかりで、見当違いなことを申していましたら、どうぞ正していただけますと幸いです。

 では、お返事を楽しみにお待ちしております。どうぞよろしくお願いいたします。

 こんにちは。内田樹です。

 今日のお題は「供養」ですね。この言葉が固有の手触りと重みを持つようになったのは、やはりずいぶん年を取ってからです。きっかけはいくつかあったのですが、一つはもう20年ほど前のことですが、従兄から僕と兄に「鶴岡にある内田家の墓の面倒を見てくれないか」と頼まれたことがありました。

 内田家の墓は東京と山形県の鶴岡の二か所にあります。もともと内田家の菩提寺は鶴岡の宗傳寺で、そこに累代の墓があるのですが、一族全員が東京に出てきて暮らすようになったので、山形まで毎度墓参りに行くのも面倒ということで、親族会議で東京に自分たちのための墓所を建てたのです。

 でも、二か所墓があるとやはり物入りということで、内田家の嫡男に当たる従兄から僕たち兄弟(四男の息子たちに当たります)に遠い鶴岡の方の墓を見てくれないかという依頼があったのです。ちょうどその頃「内田家のルーツを訪ねる」という気分が僕たち兄弟の間で盛り上がって、父の遺骨を納めた鶴岡の墓に毎年墓参りしていたので、快諾しました。

 僕たち兄弟は東京生まれなので、実は鶴岡にはまるで縁がありません。でも、だからと言って、東京の工場街の路地のことを「ふるさと」だと思ったこともありません。父は鶴岡の生まれで、母は神戸の生まれで、二人とも東京の人ではありません。戦後たまたま東京に流れ着いただけです。ですから、兄も僕も自分たちのことを「どこにも根のない根なし草」だと思っていました。なにしろ僕たちが育った東京南西部の工場街は、戦後日本中から流れ込んで来た労働者たちがたまたま棲みついたところですから、方言もないし、伝統的な芸能もないし、祭礼もないし、郷土料理もないし……およそ「根」を意味するものは何もなかった。そういうふうに「根がない」のが「東京人」のデフォルトだとずっと思っていました。

 でも、そうやって数十年過ごしてきたあとに、ある日父親が僕たち兄弟に向かって「お前たちは鶴岡を知らないだろうから、内田家の墓参りに一度行こう」と言われました。父がそんなことを言い出したのは亡くなるちょうど一年前のことでした。鶴岡のことなんか一度も懐かしそうに話したことなんかなかったので、ちょっと驚きました。でも、老いた両親と旅して、あれこれ昔話をすることがその頃には定例化していましたので、父の提案を受け入れることにしました。老親の「カウントダウン」が近づいていることが何となく兄にも僕にもわかっていたのです。死ぬ前に、自分の歩んできた道をもう一度たどり直してみたいと思う気持ちはわかります。事実、父は80歳を越えてから、青春を過ごした北京を訪れ、かつて自分が暮らした胡同(フートン)がまだあったことを知って感動したことを短い文章に書いて残しました(北京にあった清末からの建物は2008年の北京五輪のときにほとんど全部壊されましたから、旧宅が残っているうちに北京を再訪できたことは父にとっては幸運でした)。

 ともあれ、その父の「過去をたどる」旅のときに僕は生まれて初めて「内田家累代の墓」というものを見ました。そして、倒れていた古い卒都婆を立て直し、墓石の苔を水で洗い、線香を焚いて、花を挿して、読経をしました。そして、「儀礼というのはよいものだ」としみじみ思いました。そこに眠っているのは幕末の庄内藩士であった高祖父から祖父の代までの内田家の人たちで、僕は祖母以外には誰にも会ったことがありません。でも、この人たちが伝えて来た「家風」が自分の中にも流れているのではないかという気がしました。そんなことを感じたことはそれまでにありませんでしたから、この墓参はそういう意味では僕にとって一種の「転轍点」になったように思います。

 父はそのちょうど一年後に宗傳寺に墓参したのと同じ日に亡くなりました。父はごりごりの近代主義者でしたので、「坊主を呼ぶな、お経をあげるな、戒名をつけるな、遺骨は海と山に撒け」と面倒なことを言い残して死にました。母と兄と三人で「どうする?」と相談しましたが、僕があっさり「そんなの無視しようよ」と言って、「ふつうのお葬式」にしてしまいました。

 無視してもいいかと思ったのは、曹洞宗のお坊さんにちゃんと戒名つけてもらわないと宗傳寺に納骨できないからです。あのお墓なら、「お墓参りにゆく」という名目で、残された三人で、のんびり温泉に入ったり、美味しいものを食べにゆくことができるんじゃないかなと思ったのです。遺言に従って、遺骨の一部は駿河湾で船を仕立てて「散骨」し、一部は兄と二人で父がよく歩いた丹沢の尾根に撒いてきました。でも、海や山に骨を撒いて、どこにもお墓がないということになると、「お参り」ということができなくなる。

 定期的にお墓参りをして、亡き人についての思い出をぽつりぽつり語るという営みは残された人間にとって、義務や苦役ではなく、むしろ一慰めであり、救いであるように思います。

 そうやって毎年鶴岡にお墓参りに行っては温泉に入るという旅を続けているうちに、母が亡くなり、翌年に兄が亡くなりました。それから後は、兄の遺族が法事を仕切ってくれるようになり、僕は「ゲスト」待遇になりました。そろそろ「供養する側から供養される側」への交替が行われるべき時期だということなのでしょう。

 僕も来年はもう後期高齢者です。歯はインプラントだし、膝には人工関節が入っています。狩猟民の昔だったら、食物も噛み切れないし、集団について歩くこともできない老人ですから、とっくに路傍に捨てられて死んでいるはずです。それが生きながらえているのは、医学の進歩のおかげです。

 ですから、今の僕の状態は「生きている」というよりは「まだ死んでいない」という方が近いと言ってよい。すでに「死に始めて」はいるけれど、まだ「死に切って」はいないという状態です。いずれ僕の身にも生物学的な死が訪れて、葬式も済み、「偲ぶ会」もしめやかに行われ、遺稿集も編まれ、十三回忌の頃にはもう知人友人たちもほとんど鬼籍に入り、そのうち弟子の誰かが「みなさんももうお足がおぼつかないお年になられたので、十三回忌をもって内田先生の法要もおしまいにしようと思うのですが、いかがでしょう」と言い出して、みんな「そうだね」と頷く。それからあとは古くからの門人や昔の教え子がたまに墓の苔を掃いに来るだけで、僕の名前を記憶している人もしだいに亡くなってゆく……。だいたいそういう展開だと思います。そう考えると、生物学的に死ぬ十三年前くらいから人はじわじわと「死に始め」、十三回忌あたりで「死に切る」という計算になります。つまり、前後27年かけてゆっくり死ぬ。

 僕は自分の死に方をそんなふうに考えています。もちろん、これは僕が勝手に創り上げた「お話」ですから、別に一般性を要求できるようなものではありません。でも、功徳を積んでおくと死後に極楽往生できるとか、南無阿弥陀仏を唱えておけば西方浄土からお迎えが来るとか、そういう「お話」と本質的にはそれほど違うわけではありません。要は死に向かう人の心を穏やかなものにしてくれるかどうかということです。その効果があるなら、どんな「お話」だって構わないと僕は思います。

 僕の「人は死んでもなかなか死なない」仮説も、とりあえず僕自身にとっては老いと死に向かうときの「心構え」としては悪くないものだと思っています。人はある日いきなり生から切り離されて死ぬというふうにデジタルな変化だと考えると、死の衝撃に耐えられるだろうかと不安になりますけれど、「今だってもう死に始めている」と考えると、そう言えばそうかという気になります。死というのがそれほど異形のもの、未知のもの、超越的なものだとは思われなくなる。毎日8時間寝ている人の睡眠時間が伸びて、9時間になり、10時間になり、ある日ついに一日24時間寝るような体質になって、寝ても目が覚めなくなる……というくらいにアナログな経過として死を迎える方が「死となじむ期間」がたっぷりとれて生と死についてより深く考えることができるようになる。僕はそんなふうに思います。

 自分の死について深く思量すること。これは生を豊かにする上でとてもたいせつなことだと僕は思います。逆説的な話ですけれども、自分の死について考えない、考えたくないという人は、その分だけ手持ちの生を貧しいものにしているのだと思います。僕は例えば鰻を食べる時に「こうやって美味しい鰻を食べられるのは、あと何回だろう」と思います。来年の夏にも鰻を食べているだろうか。先のことは分かりません。これがもしかしたら「生涯最後の鰻」である可能性だってある……。そう思って味わうと鰻が美味しいんです。たまらなく美味しい。同じ鰻なんですから、まあ、あと何回も食えるんだからと適当に「食べ流す」ようなことはしないで、「ここを先途」と美味しく食べた方がいいです。

 はじめて自分のスキー板を買ったのは16歳のときでした。部屋でスキー板を履いて、雪山をすいすい滑っている自分の姿を想像しながら、ふと「僕はあと何回スキーができるのだろう」と思いました。いま16歳だから、65歳くらいまでスキーができるとして……60シーズン。一シーズンにせいぜい1週間だから420日。え、僕がスキーできるのって、あと420日しかないんだ。たった、420日……そしてなんだか寒気がしてきました。

 でも、そのせいでスキーが楽しくなくなったということはぜんぜんなくて、その後もシーズン最後のスキー旅行が終わるたびにカウントダウンしながら「ああ、楽しかった」とスキーが楽しめるわが身に感謝しました。そして、ある日「もうスキーができない冬」が到来しました。右膝が悪くなって、もう滑ることができなくなったのでした。ああ、やっぱり「スキーができなくなる日」が来たんだ。でも、予定の65歳より7シーズンくらい多かったから、まあ、いいか。そう思って、長くスキーを楽しませてくれた「スキーの神さま」に感謝しました。そういうものです。

 カウントダウンしながら生きることの方が、いきなり「サドンデス」を食らうよりは生きている時間が豊かで深いものになると僕は思います。

 質問からずいぶんはずれてしまいましたが、「供養」とはどういうことかというご質問でしたね。昔、何かの法話の折に、「供養の『供』は死者にお供えすることで、『養』はここにいる人たちがそのお供えでわが身を養うことです」という説明をしてくれたお坊さんがいました。もうずいぶん昔のことなので、どんな機会に聞いたのか忘れてしまいましたが、いまも覚えています。「こじつけ」の解釈かも知れませんが、供養という営みが双方向的なものであるという見識は正しいと僕は思います。死者を丁重に弔うことを通じて、生き残った人たちの生もそれだけ深く豊かになる。これは人間についての知見としてたしかに経験的な裏付けのある言葉だと僕は思います。

 最後に凱風館の合同墓のことを書きます。これは死者を弔うことで、生きている人たちを一つの共同体にまとめるという考え方から出て来たものです。もう何度もあちこちに書いたことですけれど、合同墓のアイディアがだされたのは何年か前の寺子屋ゼミでのことでした(これは大学院で開講していた社会人ゼミの延長です。僕が退職したあとも授業をして欲しいというゼミ生たちの要望を受けて、道場に座卓を並べて今も週一回ゼミをしています)。そのゼミで、ある女性のゼミ生が「お墓について」発表をしました。50代で独身の方なのですが、自分は両親のお墓を守って供養をしているし、自分も死んだらそこに入るつもりなのだが、私の供養は誰がしてくれるのか考えると不安になるという話をしたのでした。

 自分の墓は誰が守ってくれるのかという不安を持つ人がいることを僕はこの時初めて知りました。僕は娘がいるから、死んでもちゃんと供養してくれるだろうと思ってはいましたが、考えてみたら娘も独身で、子どもがいません。彼女が死んだら、彼女の墓は誰が守ってくれるのだろう……そう考えたら、他人事ではないと思いました。

 そこでゼミの時に、そういう心配を持つ人がいるなら、凱風館でお墓を作りましょうと僕が提案しました。凱風館は武道の道場で学塾ですから、僕が死んでもたぶん誰かが継いでくれる。だから、凱風館のお墓に納まれば、道場が続く限り、門人たちが供養をしてくれる。

 そこで友人の池田の如来寺という古刹の住職である釈徹宗先生に相談したところ、釈先生もご自身のお寺の檀家さんたちの中にも、子どもがいなかったり、経済的な理由でお墓を守り切れない人たちがだんだん増えて来たので、合同墓を作ろうと考えていたところでした。二人とも同じことを考えていたのでした。

 そこで凱風館の関係者たちのためには「道縁廟」、如来寺の檀家さんたちのためには「法縁廟」という二つのお墓を建てました。如来寺の近くの山の上の、眺望の良いところに今二つのお墓が並んでいます。

 そこで年に一度「お墓見」という行事をやっています。季節のよいときにいずれお墓に入るつもりの人たちが集まってお墓参りをするのです。釈先生が法要をしてくださり、僕たちは焼香して、ご法話を聴いて、それから如来寺に戻って、シャンペンを飲んで、美味しいものを食べて歓談するという趣向の行事です。

 まだお墓には凱風館の門人は誰も納骨されておりません(無人のお墓が相手ではちょっと寂しいので、僕の両親の遺骨を分骨してもらって納めてあります)。ですから、この法要はいずれこのお墓に入る人たち(自分を含めて)の「生前供養」だということになります。自分がお墓に入ったあとに、友人知人たちが集まって、どんな供養をしてくれるのかを少し前倒しで「予行演習」しているような感じです。ときどき「生前葬式」というイベントをする人がいますけれど、本人が白装束で棺桶に入って登場……というのはちょっとやりすぎではないかという気がします。それよりは「いずれ自分が入るお墓」にお花を供えて、お線香をあげて、読経して、自分の三回忌とか七回忌の雰囲気を先取りするのって、誰かの癇に障るというようなこともないし、実際に来てくれたみんなはすごく楽しそうです。

 一番の効用は「死ぬのがあまり怖くなくなる」ということだと思います。自分が死んだ後に自分のためにどんな供養がなされるのか、だいたいわかるんですから。

 能楽では非業の死を遂げた人が出てきて、旅の僧に「あと弔ひて賜(たた((び給へ」と告げて去るという場面がよく出てきます。死んだ後の最大の心配ごとは「ちゃんと供養してくれること」なんです。別にたくさん集まって大騒ぎする必要なんかない。見ず知らずの旅の僧だって構わないんです。「この人はどんな人生を送って、どんなふうに死を迎えたのだろう」という問いを立てて、しばし瞑目してくれたら、それでいいんです。

 でも、その確証がないと、なかなか「死ぬに死ねない」。凱風館の合同墓は「死ぬに死ねない」という懸念を取り去って、言い方は変ですけれど「心配せずに死ぬ」ことができるという目的のために建てました。

 そういう心遣いはいろいろな仕方でできると思います。みんなで工夫して、いろいろなかたちの供養をするということでいいんじゃないかと思います。

著者プロフィール
内田樹

1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授、芸術文化観光専門職大学客員教授。東京大学文学部仏文科卒、東京都立大学人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス文学・哲学、武道論、教育論。主著に『ためらいの倫理学』、『レヴィナスと愛の現象学』、『寝ながら学べる構造主義』、『先生はえらい』など。第六回小林秀雄賞(『私家版・ユダヤ文化論』)、2010年度新書大賞(『日本辺境論』)、第三回伊丹十三賞を受賞。近著に『街場の米中論』、『勇気論』など。神戸市で武道と哲学研究のための学塾凱風館を主宰。