「高齢化」が社会問題として語られるようになって久しい現在。約3割が65歳以上の高齢者で占められる日本は今後ますます高齢化が進むと予測され、若者の社会保障の負担増や経済の衰退など、数々の課題が声高に叫ばれています。
また、男女ともに平均寿命が80歳を超える現代では個人が「老い」とどのように向き合うかも重大な課題となっています。
社会全体の「老い」、そして個人の「老い」と、人類が経験したことのないフェーズに進み続けています。
先の見えない時代だからこそ、社会と個人の両面から「老い」とはなにかを考え、どのように老いと向き合っていけばよいかを思想家と武道家の2つの顔をもつ内田樹氏と模索していきます。
子育て困難な現代で、子をもつことの意味
<担当編集者より>
内田先生、こんにちは。第10回のお返事、拝読いたしました。
結婚について、あくまでも「社会契約」として関係をもち、よきパートナーとなれるように互いに努力をすることが重要というお話、とても心に響きました。
結びで結婚をつらいものと思わせたかもしれないというお言葉がありましたが、私にとっては心の軽くなるお返事でした。100%の理解や共感を目指して共同生活を送るよりも、理解も共感もできないとお互いに了解したうえで、できるだけストレスのない生活を送ることのほうが、ずっとハードルが低く、息がしやすい気がするからです。
先生のお言葉で結婚を決意する人がたくさんいるというのも、非常に頷けました。***
さて、今回は子育てについてお伺いします。
ご存知のとおり、2024年の出生数が初めて70万人を切る見通しだと報道されています。2019年には90万人を、2022年には80万人を割り、2023年には統計を取り始めてから最少の72万7277人という出生数だったそうです。
数字だけを見ると、とても大きな変化に感じられ、日本全体が「老いて」いっているような感覚があります。
SNS上を飛び交う子育て世帯の悲痛な声や、将来の日本を悲観してしまうような日々のニュースの数々に、子をもつことにある種の「勇気」が必要な状況になっているのではないかと感じています。
私は平成5(1993)年に生まれなのですが、子どものころからすでに「少子高齢化」の懸念が叫ばれていました。合計特殊出生率が1.57となり、局所的に出生数が落ち込んだ1966年を下回ったことで話題になったという「1.57ショック」は平成元(1989)年の出来事です。
子どもがたくさんいて、景気もよくて、明るく前向きな日本の雰囲気というものを一度も体験したことがありません。
まだ少子高齢化が憂慮される前の日本は、どのような雰囲気だったのでしょうか。子育てに難しさを感じさせるような空気があったのか、時代の変化をどのように捉えていらっしゃいますでしょうか。そして、現代を少しでも子育てしやすい社会にするために何をすればよいのか、ぜひ先生のお知恵をお伺いしたいのです。
何卒よろしくお願いいたします。
こんにちは。今度は少子化問題ですね。これは世界的な傾向で、(イスラエルを除く)先進国のうち人口置換水準である合計特殊出生率(約2.1)をクリアーしている国はもう一つもありません。
2022年のデータによると、出生率のV字回復に成功したといわれるフランスでさえ1.8。以下、アメリカ1.7、イギリス1.6、ドイツ1.5、イタリア1.2、日本1.3。多産の国でかつては5を超えていたインドでも今や2.0、急激な人口減に苦しむ中国は1.2。韓国に至っては0.8という驚くべき数値になっていて、世界で最初に人口減で消滅する国は韓国だと予測されています(まだだいぶ先のことですけれど)。
だから、少子化で困っているのは日本だけではなくて、先進国は全部そうだということです。それを聞いて「なんだ、そうか」と安心する話じゃないんですけど。でも、少子化は先進国すべてが今直面している問題だということになると、その原因も、その対策も、文明史的なスケールのものになるということです。日本政府の無策を批判してもいいんですけれども、仮に今の日本に賢い為政者が出てきて、適切な少子化対策をしても、たぶんフランスのレベルに押し上げるのが精一杯じゃないかという気がします。
なぜ、人々は子どもを産まなくなったのか。
一つの考え方は地球のキャリング・キャパシティ(環境保持能力)がもう限界を超えて、これ以上の人類の増殖が不可能になったから、というものです。
現在の世界人口は81億6千万人です。このあともアフリカを中心に人口は増え続け、今世紀末には100億を超えると予測されています。100億は地球環境に対してあきらかに多過ぎる数字だと思います。
19世紀末(1900年)の世界人口は16億5千万人でした。今のインド(14億5千万人)、中国(14億2千万人)とそれほど変わりません。この100年でどれほど人類が増殖したかわかると思います。
人口問題というのは、僕が若い頃は「人口爆発問題」のことでした。1972年にローマ・クラブが『成長の限界』というレポートを発表して、人口増加と環境汚染がこのまま続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達するという警鐘を鳴らして、大きな反響を呼びました。どうやって人口を減らし、環境汚染を防ぐか。それが今から50年前の人類的課題でした。
その甲斐あってかどうかは知りませんが、人類は人口減少傾向に向かいました。ですから、人口減は巨視的にみれば「いいこと」なんです。
でも、どれくらい減ったところで人口減が止まるのか、それがわかりません。なにしろ、これまで人類は右肩上がりに人口が増え続ける局面しか経験したことがなかったからです。唯一の例外は14世紀のペスト流行で、世界人口4億5000万人のうち1億人が死亡したと言われています(国勢調査とかない時代ですから、あくまで推測ですけど)。
ですから、長期にわたる人口減が社会にどういう影響を与えるかについて、経験的な知識を人類は有していないのです。減り出した場合に、どこまで減るのか。どこかで「底」を打って、止まるのか。止まった後にまたV字回復して増え出すのか、定常化するのか。それは誰にもわかりません。
1900年の日本の人口は5000万人でした。2100年の日本の人口は5000万人と予測されています。200年かけてもとの数に戻るわけです。おそらく、多少のずれはあっても、他の国々もそのような感じで200年とか250年くらいかけて、昔の人口に戻るコースをたどるのだろう思います。
日本の江戸時代の人口は250年間にわたり3000万人前後で推移しました。ただ、これは江戸時代が定常経済体制だったから可能だったことだと思います。もし、22世紀も依然として資本主義経済が続いていた場合には、定常化(経済成長をしない)という選択肢はあり得ません。資本主義はGrow or dieなので、成長し続けるためには地球環境の破壊も、人類の滅亡も気にしません。もちろん人類が滅亡したら資本主義も同時に終焉するのですが、資本主義はただのシステムであって生物ではないので、「生存戦略」というものを持っていないのです。
ですから、この後どこかの時点で日本人が資本主義と付き合うのを止めて、定常経済に切り替えることに成功すれば、人口減が止まって、列島のキャリング・キャパシティ以内の人口で定常化することもあり得ます。でも、資本主義を止めることができなければ、このまま人口は減り続け、どこかで人類は他の類人猿と同じくらの個体数にまで減って、そこで人口減は止まるということになるでしょう(あるいは『マトリックス』のように、AIが人類を奴隷化して、機械的に生殖させるというディストピア的未来が到来する可能性もゼロではありません)。でも、とりあえずそれはずいぶん先の話です。
そんな100年も200年も先のことを考えても仕方がないよと言えば、その通りなんです。けれども、現在人類が経験している人口動態は文明史的スケールのものだということだけは知っておいた方がいいです。これは日本でだけ起きていることではないし、政策的な介入があれば、短期的に終息させられるという問題でもありません。もちろんだからと言って、政府は無策でもいいということではないのですけれど。
政府にもできることはあります。教育の無償化、国民皆保険、さまざまな社会福祉制度はどれも「子どもを作ることで親が引き受けるリスク」を軽減する効果があります。「子どもを持つリスク」が軽減されれば、子どもを産むインセンティブはいくぶんかは高まると思います。それでも出生率を2.1まで戻すことはたぶん不可能です。
でも、そういう文明史的なスケールでのものごとの変化と、僕たちの日々の生活は別の時間の流れに属しています。僕たちはせいぜい80年ちょっとくらいの時間を生きるだけです。それを精一杯に生きるしかない。人類がこれからどうなるかということと、自分がどういう人生を生きるかは別の問題です。関係ないと言えば関係ないんです。いずれ何十億年か先に太陽が消えて、地球上に生命がなくなることは確実なのですけれども、だからと言って「どうせいずれ地球も消えるんだからオレは好きなように生きるよ」と不貞腐れる人はいません。タイムスケールが違う場合に「だから」は使えない。
人口減も同じです。類的スケールで人口が減るとしても、そのことと自分の限られた命をどう生きるかは、関係ないと言えば関係ないんです。
ですから、子どもの問題については、そうやって「腹を括る」しかないと思います。
だいたいいま「80年ちょっと」と言いましたけれど、これだってただの平均値であって、誰も「あなたは80年ちょっと必ず生きられます」と保証してくれるわけではありません。今日外に出たらいきなりトラックにはねられるとか、明日いきなり南海トラフ地震が起きるとか、明後日彗星が地球に激突するとか、何が起きるかわかりません。
ですから、言葉は平凡ですけれど、「今日を精一杯生きる」以外のことは僕たちにはできないのです。あまり先行きのことをあれこれ考えても仕方がない。
「取り越し苦労」をして気落ちするのは、まったく無駄なことです。僕は「最悪の事態」のシナリオを考えるのが好きですけれども、僕のは「取り越し苦労」じゃなくて「趣味」なんです。
子どもについても、別に「どうなるだろう」とあれこれ考えても仕方がありません。
だいたい自分に「親になる能力」があるのかどうかは親になってみるまでは本人にもわからないんです。だって、そんな能力、子どものいない人には必要ないんですから。
僕は子どもが嫌いで、子どもにもこちらの気分が伝わってしまうのか、子どもにもなつかれません。そういう「子ども嫌い」の人間でしたから、自分が親になると知ったときはひどく困惑しました。でも、できたものは仕方がありません。子どもが生まれたら「子どもを好きなふり」をして、子どもが家を出るまでごまかし続けるしかないと思っていました。「子ども好きの父親」がどういう表情をして、どういう言葉づかいで話して、どういうふるまいをするかについてのデータベースをきちんと整備しておけば、たぶん「ほんとうは子どもがキライ」という事実はばれないだろうと思っていました。
ですから、子どもが生まれて、分娩室で看護婦さんに「はい、お嬢さんですよ」と言われて娘を抱かされたときに(ラマーズ法だったので、僕も出産に立ち会ったのです)、「子どもが好きなふりをする長い旅路が今日から始まるのか」と緊張したことを覚えています。
でも、まことに不思議なもので、生後3週間目くらいのとき、娘を抱いてあやしていたときに、いきなり電撃に打たれるような圧倒的な、怒涛のような「父性愛」に全身が満たされてしまったのです。なんて、可愛いんだ。この世にこんなに可愛いものがあるだろうか。この子のためなら今すぐ死んでもいい。いや、父親が死んじゃうとこの子が困るから、石に噛りついても生きなければならない。ああ、死んでもいいのか、いけないのか、どっちなんだ。そういう烈しい感情が身体の奥からあふれ出てきました。なるほど、これが「父性愛」というものかとしみじみ納得しました。でも、これ、いきなり、ですよ。
岸田秀先生が「人間は本能が壊れている」と書かれていましたので、「父性愛」がすべての男に標準装備されているはずがないと僕は思い込んでいましたけれど、「本能が壊れている」だけで「本能がない」わけじゃないんです。僕の場合はたまたま「そんな本能があるはずがない」と思っていた父性愛が潜在的には装備されていて、子どもが生まれてしばらくして時限装置にスイッチが入って解発したということです。
なんと、僕は子どもを愛する能力があったのだ。そう知ったときに、ほんとうにうれしくなりました。これで子育てが「苦役」ではなくなるだけでなく、自分のことを「わりといいやつ」だと思えるようになったからです。
それまで周りの人たちから(家族からもガールフレンドからも)「タツルは冷たい」「タツルは不人情だ」「タツルは人を愛する能力がない」と言われ続けておりましたので、この父性愛の発見はほんとうに別人になったような感動を僕にもたらしました。
そういう思いがけないことがあるのですよ。子どもを産む、育てるということには。子どもを持つというのは、「何が起きるかわからない」経験なんです。平均的には「出産育児とはこういうものである」と言えるでしょうけれど、わが身に何が起きるかは絶対にわかりません。標準からどれくらい隔たった経験をするかは絶対にわかりません。だから、自分にとって「子どもを持つ」というのがどういうことかを知るためには、やってみるしかない。他人の経験をどれだけたくさん見ても、自分の身に何が起きるかはわからないんです。
というのが「マクラ」で、これからご質問にお応えします。ご質問は「子どもがたくさんいて、景気もよくて、明るく前向きな日本の雰囲気」はどんなものだったのかということと、「現代を少しでも子育てしやすい社会にするために何をすればよいのか」という二つでした。
最初の質問にお答えします。僕はいわゆる「団塊の世代」の次の学年に当たります。僕の同学齢集団は234万人でした。2024年の出生数は68万5千人です。3倍以上の子どもがひしめいていたわけです。
「団塊の世代」は1947年、48年、49年の3年間に生まれた人たちを指しますけれど、どの学年も260万人超えで、1950年まで足すとこの4年間に生まれた子どもだけで、1000万人を超えておりました。
すごいですね。4学年で1000万人ですよ。
この塊は子どものときから大人になるまで、つねに社会内の最大集団でした。ですから、マーケットはつねにこの塊をターゲットにして商品やサービスを展開しました。つまり、僕たちが欲しがるものをじゃんじゃん提供してくれたのです。
この塊がやがて社会人になって、実際に商品を作る立場になると、当然「自分が欲しいもの」を作ることになる。それを作れば、巨大なマーケットが約束されているんですから、これはらくちんです。音楽や映画や文学も「自分が聴きたい音楽、自分が観たい映画、自分が読みたい文学」をクリエイトすれば、じゃんじゃん売れた。この多幸感と全能感は、経験したことのない人にはなかなか伝わらないでしょうね。
僕がこんなに態度が大きくて、好き勝手なことを書いていられるのも、もとはと言えば「自分が書きたいことを書いていれば、何万人かはそれを『読みたい』と思ってくれる人がこの世の中にはいるはずだ」という確信を子どものころに刷り込まれたからです。
この塊が今年で全員後期高齢者になります。僕たちが姿を消すと、世の中はずいぶん変わると思います。もう「ある世代集団が塊として集団的に斉一的な行動をする」ということがたぶんなくなるからです。
この1000万人はよく似ていました。それは「塊になって行動する方が有利だ」ということを子どもの頃から骨身にしみて学習したからです。僕たちに匹敵する世代集団は日本社会の中には存在しませんでした。僕たちが斉一的に行動すれば、世の中はそれに抵抗できない。だから「なるべくまとまって行動した方がいい」ということを子どもの頃から知っていた。
斉一的に動く集団ですから、急に方向転換をするということをしません。1000万人全体に「方向転換」の指示がゆきわたるまで、だいぶ手間暇がかかりますからね。
ですから、われわれの集団が10代後半から60代後半までを占めていた半世紀は社会全体の雰囲気がそれほど大きくは変わらなかったように思います。憲法や民主主義に対する親和的な態度、アメリカに対する羨望と憎しみの両義的な感情、女性に対する家父長なマインドと「男女同権」的なマインドの葛藤、アジア隣国に対する(無根拠な)優越感などなど…。そういったものが確かに「昭和後期の日本社会」の独特の雰囲気をかたちづくっていたと思います。そして、それが社会構造にある種の安定性を保証してもいた。
この「団塊の世代」1000万人が退場するということは、日本の社会集団が「惰性の効かないもの」に変わるだろうということを意味しています。他を圧倒するような巨大な世代集団が存在しないからです。どの世代集団も社会内でヘゲモニーを持つことができない。どの世代集団はそれぞれ個性的であって、他の世代集団との対話や融合ということにはあまり興味がない。つまり、「支配的な年代集団を持たない社会」がこれから出現することになります。
そういう社会では、相対的にわずかな数的アドバンテージしか持っていない集団が、もののはずみで社会をコントロールするほどの力を持つということが起きます。社会が、わずかな入力の変化が激烈な出力変化をもたらす「複雑系」になる。政治におけるポピュリズムはその現れではないか。そんな感じがします。
今の日本を見ていて僕が感じる不安はそれです。惰性が効かないので、いきなり急角度で方向転換する乗り物に感じる危うさです。
では、どうすればいいのかと訊かれても、僕にもよくわかりません(なにしろ「退場した後」の話ですから)。わかるのは、これからしばらくは日本社会は変化の激しい局面に踏み込むだろうということだけです。変化し続ける社会は子育てのような安定的な生活を必須条件とする営みにとって決して有利ではありません。もしかすると、変化の激しい社会では少子化が進み、変化のあまりない定常的な社会では人口は定常化するという法則が成り立つのかも知れません。でも、これでは質問のお答えになっていませんね。すみません。
二番目のご質問は「では、どうすれば少子化の速度を抑制できるか」です。
子どもを持つことで生じる負荷やリスクを軽減する社会政策を採ること、それしかできることはなさそうです。教育と医療の無償化、社会福祉制度の充実。日本を安心して暮らせる社会、急激な変化のない社会に作り換えることです。
でも、今世界は急速にカオス化しています。こういうときにはどの国も「力による支配」に怯えて、軍事力の整備を急ぎます。「先軍政治」です。国防に国家予算の多くを費やすようになる。当然、教育や医療や福祉は後回しです。だから、どんどん暮らしにくくなり、子どもを持つことのコストとリスクも高くなる。トランプの登場で、世界のカオス化は加速していますので、今から全世界で少子化はさらに進行するものと思われます。
でも、個人的な確信を込めて申し上げますけれど、「子どもを育てる」ときに親が感じる幸福感はほかのどんな経験にも似ていません。ほかのどんな経験でも代替できません。僕はそれを経験できたことを深く天に感謝しております。
世界は世界、私は私です。そう腹を括ってください。
World Bank Group(WBG)のデータベースによる(https://www.worldbank.org/ext/en/home)。
国連の推計による(https://www.un.org/development/desa/pd/)。
1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授。東京大学文学部仏文科卒、東京都立大学人文科学研究科博士課程中退。東京大学文学部仏文科卒、東京都立大学人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス文学・哲学、武道論、教育論。主著に『ためらいの倫理学』、『レヴィナスと愛の現象学』、『寝ながら学べる構造主義』、『先生はえらい』など。第六回小林秀雄賞(『私家版・ユダヤ文化論』)、2010年度新書大賞(『日本辺境論』)、第三回伊丹十三賞を受賞。近著に『街場の米中論』、『勇気論』など。神戸市で武道と哲学研究のための学塾凱風館を主宰。