「高齢化」が社会問題として語られるようになって久しい現在。約3割が65歳以上の高齢者で占められる日本は今後ますます高齢化が進むと予測され、若者の社会保障の負担増や経済の衰退など、数々の課題が声高に叫ばれています。
また、男女ともに平均寿命が80歳を超える現代では個人が「老い」とどのように向き合うかも重大な課題となっています。
社会全体の「老い」、そして個人の「老い」と、人類が経験したことのないフェーズに進み続けています。
先の見えない時代だからこそ、社会と個人の両面から「老い」とはなにかを考え、どのように老いと向き合っていけばよいかを思想家と武道家の2つの顔をもつ内田樹氏と模索していきます。
大事なのは「どんな人と結婚しても、そこそこ幸せになれる能力」
<担当編集者より>
内田先生、こんにちは。
第7回のお返事を誠にありがとうございました。とてもおもしろくて一気読みしました。
友情が宿命的なものだ、と人々が思うようになったというご指摘、私も強く共感します。SNSでバズっている投稿やインフルエンサーの言動を見て、よくそう感じます。「人間関係に我慢するくらいなら、その関係を切り捨てよ」といった趣旨の主張が支持されている気がします。我慢の程度や質にもよるでしょうが、そのような主張にどこか違和感を覚えてきました。その違和感の正体を先生のお返事を通して知ることができました。ありがとうございました。
昔のクラスメートで「何を考えているんだかよくわからなかった人」のほうが、大人になってもすっと話ができるというのは私にも経験があります。私は学生時代、あてがわれたキャラ設定をかなり上手にこなしすぎてしまって、その時代の友だちに大人になってから会うのが億劫なところがあります。私にとって、「何を考えているんだかよくわからなかった人」は、今思えば私のキャラ設定に則った対応をしていなかった人でした。
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さて、先生のお返事を拝読し、もう少し詳しくお伺いしたいことがふたつあります。
ひとつ目は「ほんとうの友だち」についてです。よく、大人になってから友だちをつくるのは難しいという話を耳にします。先生は大人になってから友だちをつくるのは難しいことだと思われますか。私の実感としては難しいと感じるのですが、これは先生のお返事のなかにある、「契約」が大人になると結びづらくなっているからなのだろうかと考えました。契約について、その機能などまだよく分からない部分があり、もう少し詳しく教えていただきたいです。
ふたつ目は「伴侶」についてです。現代では「友だちを発見する」ものだと捉えているというお話、伴侶(パートナー)についても同じではないかと思いました。私が幼いころには、まだ「白馬に乗った王子様」という表現が使われていました。まさに、ケミストリー重視の考え方だと思います。いまはそのような言い回しをあまり聞かなくなりましたが、恋愛のツールとしてマッチングアプリが普及していることもあり、「発見する」あるいは「選ぶ」といった感覚はいまもなお強くあると思います。
最初はもちろん、なんとなく話が合う、相性がいいというところから関係が始まると思うのですが、その関係性を長く維持するためには先生のおっしゃるところの「個人的な努力」が欠かせないように思います。友だちとはまた違った関係性なので、人生における伴侶という存在について、先生のお考えをお伺いしたいです。
まとまらない質問になってしまいましたが、お互いに変化しながらも持続していく関係性に興味が湧いてきました。ご教示のほど、何卒よろしくお願いいたします。
こんにちは。内田樹です。
またまた難しいお題ですね。でも、僕の方にあらかじめ「正解」があって、それを「ほいよ」と出力できるような問いよりも、僕も思わず頭を抱え込んでしまうような問いの方が答え甲斐があります。二つの質問について考えてみます。
「ほんとうのともだち」というのは、どう定義したらいいんでしょう。
果たして、「ほんとうの友だちじゃない人」と「ほんとうのともだち」を識別する基準なんてあるんでしょうか。
僕にはわかりません。
「仲が良い」とか「話が合う」とかいうことだったら、程度差は考量できると思うんですけれど、「ほんとうの」というふうに踏み込まれると、僕は自信をもって答えられません。
僕にもたくさん友だちがいます。昔から知り合いの人もいるし、わりと最近知り合った人もいます。かかわりかたもさまざまです。では、どの人が「ほんとうのともだち」で、誰が「通り一遍の付き合い」なのか、それを区別できるのか。
だって、こちらとしてはなんとなく「通り一遍の付き合い」かなと思っていた人が、身体を張って僕のために一肌脱いでくれたり、他の人とはまったく違う細やかな気づかいを示してくれるということってありますからね。そういう時は「ともだち」の質というのは、片方が決めることができるものじゃなくて、ある種の相互作用なんだなということがわかります。最初は「通り一遍の付き合い」のつもりで始まったのだけれど、一緒に仕事したり、遊んだりしているうちに、次第に「とてもたいせつな関係」に思えてきて、つい「踏み込み」が深くなるということということだってあると思います。人間はどんどん変化しますから。
ですから、「ともだち」というものをそれほど固定的にとらえることはないんじゃないかと思います。「百年の知己」とか「莫逆の友」とか、そういう印象的な表現があるせいで、僕たちは「ほんとうのともだち」と「それ以外」という区別をついしがちですけれども、それ、別にしなくていいんじゃないですか。
ですから、僕は「大人になってから友だちを作るのはむずかしい」とは思いません。事実、大人になってから友だちになって、もう何十年にもわたって愉快に付き合っている友だちって、たくさんいます。
ただ、子どもの頃と違うのは、大人になってからの友だちは「遊び仲間」ではなくて、むしろ多くが「いっしょに共同作業をした仲間」だったということです。大きなプロジェクトを実行したり、難問を協力して解決したり…そういう実務的なことをいっしょにしてしてきた仲間です。そういう経験を積んでいると、「頼りになる人」って、わかります。何と言ったらいいのか、「背中を預けられる人」というのでしょうか。いちいちうるさく指示を出したり、チェックをしたりしなくても、「あれ、お願いします」「はいよ」で、僕が気が付かなかったところまで、きれいに仕上げてくれる人。そういう人がいると、ほんとうに「ありがたい」と思います。
阿吽の呼吸でいっしょに仕事ができる仲間に感じる信頼感は、子ども時代からの友だちと「話が合う」とか「息が合う」ということとは種類の違うものではないかと思います。でも、そういう仕事仲間も、僕にとってはとてもたいせつな、「ほんとうの友だち」です。
そういう共同作業の場合は、人間関係のベースにあるのは「共感や同質性」ではなくて「契約」です。約束したことは守る。一言を重んじる。信頼を違えない。これは必ずしも「人間的な親しさ」によって担保されるものではありません。
刑部さんも経験があると思いますけれど、人間的親しさを過大評価する人はしばしば約束を破りますし、嘘をつきますし、相手に「嫌な思い」をさせます。そんなことをしても自分たちを結ぶ「絆」は揺るぎないものである…ということを確信したいために、わざとそんなひどいことをする(ことがある)。
心理学では「裏面交流」と呼ばれる機制です。相手の足を思い切り踏んでおいて、それでも相手が「痛い」と言わない。その苦痛に耐える顔を見て、それを「自分への愛」のあかしだと思う。
これと同じこと、会社みたいな組織でも上司がよくやりますでしょう。部下に不必要な屈辱感を味あわせて、それでも反抗しない様子を見て、自分がどれほど力があるかを確認する。ろくでもないやつの場合は、これほど「ひどいこと」をしても相手が怒り出さないのは、自分を畏敬し、愛しているからだ…と錯覚する。
昔、もうずいぶん昔ですけれど、神戸の南京町でお昼ご飯を食べていたら、円卓の相席に若いカップルが座りました。僕がだまってご飯を食べていたら、その二人はメニューの選択から始まって、料理が届いて、食べている間中、ずっと互いを罵倒し合っていました。「おめえ、よくそんな気持ちの悪いもん食えるな」とか「ずるずるきったねえ音出すんじゃねえよ」とか、最初から最後まで延々と。でも、僕が恐ろしくなったのは、この二人がそれを「愛情表現のつもり」で口にしていたからです。これほどひどいことを言って相手の人格を傷つけることができるほどに私たちは愛し合っているのだ…ということを周囲に(僕しかいなんですけどね)この二人は誇示していたのでした。
そういうことはよした方がいいよと僕は思いました。薄い氷の上に立って、「これだけ踏んでもまだ割れない」と言って、がんがん踏み回っていると、そのうち割れて、水に溺れます。
共感と同質性に基づく共同体は「脆い」というのは、僕の経験的な確信ですけれども、それは共感と同質性の共同体において「俺たちって、めちゃ仲良しだよね~」ということの確認作業が、「屈辱感を与えても相手が怒らない」「暴力をふるっても抵抗しない」という倒錯したかたちをとることがあるからです。
DVというのはほんとうに闇の深いものだと思いますけれど、DVになかなか抑制が効かない理由の一つは、暴力をふるう側もふるわれる側も、暴力に「愛情」を感じているからです。ふつうの人にはとても「こんな暴力」はふるえないけれども、家族に向かってはふることができる。それは家族が自分にとって「特別な存在」だからだ…そういう合理化がたぶん行われている。そして、暴力をふるわれる側も、「これほど異常な暴力をふるうのには、何か常人には理解の及ばない深い理由があるのではないか。この人もまた誰かの犠牲者ではないのか。むしろその弱さを気づかうべき気の毒な人なのではないか」というような推論をしてしまうからだと思います。
でも、これ、危険な推論ですよ。だって、暴力をふるう人間とふるわれる自分を「高みから」見下ろそうとしているから。当事者レベルではなく、「上空から」俯瞰しようとする。たぶん、それによって具体的な痛みを緩和しようとしているのだと思います。当事者ではなく、傍観者・観察者の立ち位置にずれ込むことによって、リアルな痛みを鈍麻させようとしている。
共感ベース、同質性ベースの共同体に属していると、どうしてもそういう「めんどくさいこと」を人間はしがちなんですよね。そんなめんどうなことをしなくても、「ふつうに仲良く」していればいいんじゃないかと僕は思いますけどね。
だから、僕は「契約ベース」の人間関係が好きです。こちらの方が気楽でいい。その人が「ほんとうは何者であるか」とか「ほんとうは何を考えているのか」とか気にしなくていいから。
ずいぶんウチダさんて薄情ですね……人間に興味ないんですかとか冷たい目を向けられそうですけれども、いや、僕別に薄情じゃないですよ。「助けて」と言われたら、だいたい助けるし、「お金貸して」と言われて断ったことないし。人間とはいかなる生き物であるかについてだってつねに変わらぬ深い学的好奇心を抱いております。でも、僕にとって重要なのは、その人が「ほんとうは何者であるか」ではなくて、僕にとって「どういう意味を持つ人なのか」なんです。仮にその人が生来邪悪な人であっても、何かのはずみで「ウチダには『いい人』と思われたいなあ」と思って、僕との関係では、いつも約束を守って、信頼に応えてくれたならば、僕にとっては「いい人」なんです。僕にとっては、この関係こそが絶対なんです。
こんな説明でお分かり頂けたでしょうか。
二つ目の質問は、「伴侶」ですね。
僕からの答えは簡単です。誰と結婚することになるかは「ご縁」です。
これは断言してよいと思います。自力で配偶者をどこかから連れて来るとか、他人から奪い取るとか、そういう無茶なことはできるだけしない方がいい。
ご縁のものですから、ご縁があれば、伴侶になるし、縁がなければならない。
僕は対人関係ではあまり「ひどいこと」をしない人だったので、別れた昔のガールフレンドとだいぶ経ってからしみじみ昔話をするということが時々ありました。その時に驚いたのは、別れたきっかけがしばしば「勘違い」だったということです。
僕が言うつもりのなかったことを向こうが聴き違えたり、向こうがぜんぜん意図していないことを僕が勝手に勘ぐったりして、「ああ、この関係はもうおしまいだ」と二人とも諦めた・・・ということがよくあるんです。ほんとに。
え、あの時に君が言ったのは「そういう意味」だったの! あら、勘違いしてた…というような回想をしみじみとして、人生とは不可解なものであると改めて思うのでした。
その勘違いがなければ、あるいはこの人とそのあと結婚して、家庭をもつという可能性もあった。でもそうならなかった。そのことに「ご縁」の不思議さを感じるわけです。
これは個人の努力でどうこうなるものではないと思います。
昔のガールフレンドたちの顔を思い出すと、たぶんどの人と結婚しても、「そこそこ幸せ」な人生が送れたような気がします。みんな頭のよい、性格のよい少女たちでしたから。でも、そうならなかった。なぜかはわかりません。
ですから、僕としてはぼんやり宙を仰いで「ま、ご縁だわな」とつぶやくしかないのであります。
誰と生涯を共にすることになるのかは「ご縁」です。
だから、たいせつなのは「ご縁」が訪れた瞬間に、それを見逃さないことです。
でも、ご縁が訪れるのは、「いつか白馬に乗った王子様が」を待っている人にじゃなくて、「あれ、この人がそうかな。あの人がそうかな…」といつも可能性を最大限に広げている人にです。
そして、結婚について僕から申し上げたいとてもたいせつな教えは「どんな人と結婚しても、そこそこ幸せになれる能力」は、家庭人としてだけではなく、社会人としても、あるいはクリエーターとしても、学者としても、アーティストとしても、成功するために重要な力だということです。
だって、日常生活において、目の端をふと通り過ぎるわずかな可能性、わずかな「開かれ」、わずかな希望を決して見落とさない人が「そこそこ幸せになれる」人なんですからね。
1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授、芸術文化観光専門職大学客員教授。東京大学文学部仏文科卒、東京都立大学人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス文学・哲学、武道論、教育論。主著に『ためらいの倫理学』、『レヴィナスと愛の現象学』、『寝ながら学べる構造主義』、『先生はえらい』など。第六回小林秀雄賞(『私家版・ユダヤ文化論』)、2010年度新書大賞(『日本辺境論』)、第三回伊丹十三賞を受賞。近著に『街場の米中論』、『勇気論』など。神戸市で武道と哲学研究のための学塾凱風館を主宰。