老いのレッスン

この連載について

「高齢化」が社会問題として語られるようになって久しい現在。約3割が65歳以上の高齢者で占められる日本は今後ますます高齢化が進むと予測され、若者の社会保障の負担増や経済の衰退など、数々の課題が声高に叫ばれています。
また、男女ともに平均寿命が80歳を超える現代では個人が「老い」とどのように向き合うかも重大な課題となっています。
社会全体の「老い」、そして個人の「老い」と、人類が経験したことのないフェーズに進み続けています。
先の見えない時代だからこそ、社会と個人の両面から「老い」とはなにかを考え、どのように老いと向き合っていけばよいかを思想家と武道家の2つの顔をもつ内田樹氏と模索していきます。

第10回

人生における「結婚」の意味

2025年1月23日掲載

<担当編集者より>

 内田先生、こんにちは。第9回のお返事をありがとうございます。

 仕事も、結婚も、はじめからベストな相手が割り振られるわけではなく、時間とともにお互いに変化して、よりよい関係を築く努力がたいせつだということ、肝に銘じて生活していきたいと思います。

「いい職場で働きたい」とよく言いますが、いい職場とはつまり「雰囲気のいい職場」なのだとよく分かりました。その職場をつくるのは上司でも、管理職でもなく、自分自身なのだという自覚をもち、親切に機嫌よく働くということが肝要なのですね。

 さて、お返事のなかで、「のちのち満を持して結婚についての質問をしてくるでしょう」という趣旨のお言葉がありました。まさに結婚についてお話を伺いたいと考えていたところでした。

「結婚」についてですが、私自身は結婚をしておらず、そしてそんなに結婚をしたいとも思っていません。人生をともにするパートナーは必要だと思っています。互いを信頼し、支え合うような信頼関係を築き、それを維持できるような人間になりたいとも思います。しかし、そういう関係性を築くのに「結婚」という形がどこまで必要なのか、よくわからないというのが率直な気持ちです。

 そこで、先生にお伺いしたいことは2つです。

 1つ目は、そもそも「結婚」をしたほうがいいのか、「結婚」という形を採ることにどのような意味があるのかについてです。「結婚」という形でなければ得られないものがあるのでしょうか。共同生活を営んでいる場合で、結婚しているのと、していないのとでは法的な条件以外にそんなに変化がないのではないかと思っているのですが、どうなのでしょうか。

 2つ目は、結婚式の意味です。コロナ禍があったこともあり、私の周辺では結婚式は縮小傾向で、しないという選択をした友人もたくさんいます。私が結婚するとなっても、結婚式はしなくてもいいかなと思っています。マイナビウエディングの調査では、1年以内に結婚した人で結婚式をした/する予定のカップルは約6割にとどまり、減少傾向で、招待客の数の平均も年々減っているようです。結婚式の代わりにカジュアルなパーティや写真だけを記念に撮るフォトウェディングが増えているようなのですが、やはり式典としての結婚式は挙げたほうがよいのでしょうか。

 先生のお考えをぜひお聞かせください。何卒よろしくお願いいたします。

 こんにちは。

 結婚については前に『困難な結婚』という本を書いたことがあります。結婚というのはそれほど楽しいものではなくて、むしろ人格陶冶のための修行のようなものだから、できたら「した方がいい」という趣旨のものでした(ちょっと要約し過ぎですけど)。でも、この本を読んで結婚することを決意したという若い人たちにそれからあとたくさん出会いました。

 どんな人と結婚しても、そこそこ幸せな結婚生活が送れる……というのが人間の成熟度の一つの指標だと僕は思います。だって、そうだと思いませんか。仕事だって同じでしょう。どんな人と「バディ」を組まされても、場数を踏んでいるうちによいパートナーになるというのが、前回話した「仕事の要諦」です。誰と組まされても質の高い仕事ができる人間が「仕事のできるやつ」と見なされる。結婚だって、同じなんです。どんな人と組まされても、場数を踏んでいるうちによいパートナーになれるような人間が「結婚のできるやつ」なんです。だから、そういう人間になれるように自己形成するのが結婚に先立つ人間の責務です。「運命が定めた人と以外結婚しても幸福になれない人間」と「だいたい誰と結婚してもそこそこ幸福になれる人間」と比べた場合、どちらが人間的スケールとして大きいかは言うまでもありません。結婚は「幸福になるため」にするものではなく、「人間的に成長する」ためにするものなんです。

 だから、結婚する人が激減した理由がわかりますね。「別にオレ、人間的に成長なんかしたくないよ」と言われたら、これは引き下がるしかない。「子どものままでいい」という人間を本人の意に反して成長させることはできません。だから、人々は結婚しなくなった。そのプロセスは人々が「幼児化する」ことと同時に進行している。僕はそう思っています。

 昔はそれでも無理押しすることができました。僕の親たちの世代ですと、たぶん半数はお見合い結婚だったと思います。母方の伯母なんか祝言の日まで夫になる人とほとんど口をきいたこともなかったそうです。でも、半世紀にわたって仲良く連れ添いました。死ぬの生きるのと大騒ぎした恋愛結婚の方がむしろ「あとで後悔」ということが多いということを僕の親たちの世代(明治から大正生まれです)は経験的に知っていたようです。「あまり期待しない方が、夫婦は長持ちする」のです。わかりますよね。

 過大な期待を抱くから、「話が違う」ということになる。「ほとんど期待しない」ところからスタートすれば、「この人、意外にいい人なんだ」とか「この人、意外に深いな」とかいう発見がある。「あばたもえくぼ」という過剰評価の勢いで結婚してしまうと、「これ、『あばた』じゃないか……」という幻滅とともに結婚している必然性が失われてしまう。

 何よりも「よく知らない人」と結婚することの最大のアドバンテージは、「理解できないことがストレスにならない」ということです。

 逆に、「よく知って(つもりの)いる人」と結婚すると、何かのはずみにふと「自分には理解も共感もできない言動」をしたときに「ぞっとする」ということが起きます。熱愛していたはずの相手の横顔にふと「自分がみたことのない表情」を見て、いきなり愛が冷めてしまう。ユーミンの歌の歌詞になんかありそうですけれど、それは仕方がないんです。100%の理解と共感の上に結婚生活はあるべきだと考えると、1%でも理解共感できないところがあると、それがストレスになるのは当然なんです。でも、100%の理解と共感なんて不可能に決まっているじゃないですか!

 経験的に言うと、男女の間で成立し得る理解と共感の上限はせいぜい50%くらいです。ものすごく仲の良い男女でも、相手の半分は「ミステリーゾーン」なんです。だから、ふつうの結婚生活だったら、そうですね、「相手の内面の70%はミステリーゾーンである」くらいの覚悟でいた方がいいと思います。

 結婚生活では、「相手がいることで幸福になること」よりもむしろ「相手がいてもストレスを感じないこと」の方がずっとずっとたいせつなんです。そして、それを実現するためには、双方のひたむきな努力が必要です。そして、その努力が人としての知性的・感情的成熟をもたらす。そういうものなんです。

 大恋愛で結婚して、そのあと死ぬまで「好きだ好きだ」と16歳の時と同じように言い続けていたカップルがいたとして(あまりいませんけれど)、僕はたぶんそんな人たちとはあまりお付き合いしようとは思わないでしょう。

 それよりは、どういうきっかけで結婚したにせよ、長い歳月をかけて「相手のことが初めて会ったときよりも好きになった」という偉業を達成した人たちに僕は深い敬意を抱きます。そういう人こそ「大人」だから。

 もう一度繰り返しますが、結婚は「大人になるため」にするものです。それ以外に目的はありません。もちろん生物学的な言い方をすれば結婚の目的は「子孫を残すため」ですけれども、結婚の人間的意味は「成熟すること」です。「配偶者という他者」と共に暮らし、「子どもという他者」を育てることによって、人は大人になる。

 もちろん、結婚もしていないし、子どももいないけれど、人間的に成熟をとげ得た人はいます。でも、そういう人たちであっても、やはり親の介護であったり、家族の世話であったり、パートナーとの共同生活であったり、「理解も共感も絶した他者との共生」の経験を潜り抜けています。

 もしかすると、最近の若い人たちがなかなか結婚しなくなったのは、「親の介護」という経験が先行したせいかも知れません。そのせいで、配偶者との共生を求める気持ちが薄らいでしまうということがあるのかも知れない。というのは、家族内の弱者をケアするということは、「理解も共感も絶した他者と共にいてもストレスを感じない」という(ふつうは結婚と子育てを通じて獲得してゆく)人間的成熟と同じものを要求するからです。

 さて、質問のかんどころは「結婚という形式」を採る必要があるのかどうかでした。

 結婚とそれ以外の関係の最大の違いは、結婚が「社会契約」だということです。刑部さんはまだご存じないかも知れませんが、結婚は契約なので、不倫は契約違反になります。だから、離婚原因を作った「有責配偶者」には法的なペナルティが課されます。離婚を要求できないとか、慰謝料の支払いを求められるとか……#1結婚契約を破った方がさまざまな不利益をこうむるようになっています。

 これはただ「好きな人と一緒に暮らしている」だけでは、起こらないことです。一方がある日「もう君に対する愛がなくなった」と宣言しても、それは「契約違反」でもないし、咎めるべき「有責」行為でもない。感情の行き違いの問題です。

 どっちがいいかというと、僕は「結婚は契約である」という縛りがある方がいいと思います。そっちの方が「他者がかたわらにいることからストレスを感じない」ような人間的成熟をより強く要求するからです。

 昔は「別々に暮らしていて、会いたいときだけ会って、相手が自分以外の誰と性的関係を持っても気にせず、別れたくなったら四の五の言わずに別れる」というカップルが「先端的」だともてはやされたことがありました(サルトルとボーヴォワールがそうでした)。今はあまり流行っていません。よほど相手が自分にとって「利用価値」がある場合(ものすごくお金持ちであるとか、めちゃくちゃ頭がいいとか、才能があるとか)でないと、こんな関係は続けられないということがだんだんわかってきたからでしょう。ふつうの人同士では、たぶん無理です。

 結婚というのはご縁で一緒になった「バディ」と、場数を踏んでゆくうちに、お互いにとって「よいパートナー」になってゆくプロセスです。多くの説話が教えるように、バディとの組み合わせは「ご縁」です。自己決定できない。もののはずみで「はい、今日からこの人とバディね」と言われて、そこから始まる。ですから、バディは本質的に理解も共感もできない人間です。それでも、いくつもの修羅場をともにするうちに、かけがえのない相棒になる。そして、「いくつもの修羅場をともにする」ためには、一緒にいなければならないという外的な規制が必要です。「もうこいつとはいやだ」といくら言っても、「ダメ」なんです。しかたなく一緒にいるせいで、「あれこれ場数を踏む」ことになる。

『リーサル・ウェポン』の刑事たちの話を前回しましたね。あれを思い出してください。自由気ままで、ルール違反ばかりしているリッグス刑事(メル・ギブソン)がそれでもマータフ刑事(ダニー・グローヴァー)とのコンビを解消しないのは、二人がロサンゼルス市警との雇用契約に縛られているからです。彼らは「契約」に縛られていやいやバディを続けているんです。契約を破ることもできます。でも、そのためには刑事を辞めないといけない。それは困る。だからしかたなくバディを続ける。でも、そのうちに、すばらしいパートナーになる。

 これは結婚の比喩なんです。むさいおじさん二人のドラマなので、あれが結婚の比喩だと気づく人はあまりいないと思いますけれど、そうなんです。

「ご縁」で始まる理解も共感もできないバディとの協働作業。バディとの離別を阻む「契約」の縛り。それが結婚なんです。

 だから、感情だけでつながっているカップルよりも、契約を介したカップルの方が、「簡単に離別できない」分だけ「すばらしいパートナー」になるチャンスがある。そういうことです。

 二つ目の質問。結婚式はした方がいいでしょうかということですけれど、これは「した方がいい」です。僕の周りにいる若い人たちが結婚することになった時に、親が反対しているとか、お金がないとか、いろいろな理由で「結婚式はしない」と決めて、僕のところに報告に来ました。僕は必ず「結婚式はした方がいいよ」と申し上げています。そして、実際に場所を提供したり、人を集めたりということをしてきました。僕がおせっかいをしなければ結婚式を挙げなかったはずのカップルはずいぶんいます。理由はもうお分かりですね。

 結婚式というのは「契約締結式」です。婚姻届けという一枚の紙だけでは「契約として」足りない。だから、「証人」を集めて、彼らの前で誓約をしてもらう。「周りに黙って籍だけ入れた」というような場合には、「証人」がいません。それだと「縛り」が弱い。

「証人」がたくさんいると、「あの人たちの前で永遠の愛とか誓っちゃったからな。『暮らしてみたら性格が不一致でした』じゃ恰好つかないなあ……」と逡巡する。「もう結婚なんかやめちゃおうかな」という時にこの「一瞬の逡巡」がけっこう重要なんです。「とりあえず今日のところは離婚のことは切り出さずに、明日考えよう」といって一晩寝ると、「まあ、もう少し延ばしてみるか」という気にもなる。そうこうしているうちに「いくつもの修羅場」がやってくるわけです。病気になるとか、失業するとか……そうなると、自分の感情のことなんかあまり優先的に配慮できない。とりあえず目の前の困難に取り組んで、それが解決したあとで、離婚のことは考えよう。それでいいんです。そうこうしているうちに「修羅場」でバディの大切さが身にしみる。

 もちろん、修羅場になったらいきなり逃げ出しちゃうバディとか、修羅場で「全部お前のせいだ」と言って、足をひっぱるバディとか、そういうのも時々います。そういうのは遅かれ早かれ「すばらしいパートナーに決してなれないやつ」なんですから、そういう不出来なやつを早めに検知できたのだから、「ろくでもない配偶者を早期発見できてよかった」と思えばいい。

 とにかく結婚式はどんなサイズのものでもいいですから、した方がいいです。

 なんだか、全体として刑部さんに「結婚て、つらいことばかりなのかしら」と思わせてしまうようなお答えですみません。ほんとうはそんなことないんですよ。結構楽しいこともあるんです。でもね、結婚というのは「人格陶冶のための修行」だと思った方がいいんです。「つらいことばかりだ」と思って始めた方がいい。それでも、もちろん「楽しいこと」も時々あるんです。それは「あって当然」だと思わないで、「思いがけないボーナス」だと思って、ありがたく押し頂いて、仏壇にでも供えておく。そのうちに振り返ってみると、「あら、ボーナス、いつの間にかけっこう貯まってた」ということになったりするんです。でも、結婚においての「よいこと」は月給制では給付されません。盆と正月くらいにしか給付されない。それでいいんです。その方が結婚の「滋味」は身にしみてきますから。

  1. (編集部追記)公開時は「離婚を要求できないとか、慰謝料の支払いを求められるとか、子どもがいる場合に親権が要求できないとか……結婚契約を破った方がさまざまな不利益をこうむるようになっています。」としておりましたが、親権の決定において不貞の事実は影響しないことが原則とされており、説明として不適切でした。したがって「、子どもがいる場合に親権が要求できないとか」を削除いたしました。読者の皆さまにご迷惑をお掛けしましたことをお詫びいたします。(2025/1/27更新)

著者プロフィール
内田樹

1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授。東京大学文学部仏文科卒、東京都立大学人文科学研究科博士課程中退。東京大学文学部仏文科卒、東京都立大学人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス文学・哲学、武道論、教育論。主著に『ためらいの倫理学』、『レヴィナスと愛の現象学』、『寝ながら学べる構造主義』、『先生はえらい』など。第六回小林秀雄賞(『私家版・ユダヤ文化論』)、2010年度新書大賞(『日本辺境論』)、第三回伊丹十三賞を受賞。近著に『街場の米中論』、『勇気論』など。神戸市で武道と哲学研究のための学塾凱風館を主宰。