ニューヨークの林檎をむいて食べたい

この連載について

「キラキラじゃないニューヨークが読みたい」
そう言ってくださった大和書房編集部の藤沢さん。それなら私も嘘をつかなくていいやと胸をなでおろし、連載を始めることにしました。

ニューヨークに移住するからといって全員がキラキラするわけではない。
でも住んでみたいから住んでみた。
そんな人生があってもいいじゃないかという、根拠は特にない自己肯定の日々を綴りました。

第2回

私が外出する理由

2023年11月24日掲載

ニューヨークに暮らして数週間。『Big Apple』と称されるこの街を、ほどなくして私は密かに『SASUKE』と呼ぶようになる。というのも、道の至る所に犬のフンが落ちていて、歩きスマホをしたり、ショーウインドウに映る自分がイケているかを確認したりしようものなら、即座にフンを踏むシステムになっているのだから。それほどまでにフンの刻み方は『SASUKE』の飛び石を連想させる。油断大敵。1秒たりとも足元から目を離したり気を緩めてはならない。フンとフンの間のわずかなスペースを軽やかに縫わないことには、この街を無傷では出られないのだ。

実はこの街で野良犬に遭遇したことは一度もない。でもZARAの店内を優雅に歩くペット犬(しかもリードなし)は見たことがあるから、おそらくフンのほとんどが、散歩中に飼い主が見守る中で生み落とされたものだろう。

ニューヨークで暮らしてみて、日本の衛生観念を世界文化遺産に認定するべきだと思うようになった。母国で慣れ親しんだ磨き上げたような美しいアスファルトは当たり前ではないことを痛感する日々でふと、遠く離れた兵庫に暮らす実父のことを思い出すことが多くなった。

終戦の翌年に生まれた父は典型的な昭和のオヤジで、実家で飼っている犬の散歩中に、フンの処理をしない飼い主を見つけようものなら直接声をかけて「持って帰らないとダメだぞ」と一喝したりする。道にのこされた出し主不明のフンを、飼い主に代わって処理したりするのは見上げたものだが、たまにチョークを家から持参してフンを丸く囲み「ここにフンあり。ダメ」と注意喚起したりするのだ。身内としてはヒヤヒヤさせられたが、ニューヨークの道を歩いていると実父を輸出したいという思いに駆られたりする。

家の近くの公園には、ご丁寧に排泄用ビニール袋(もちろん犬用)ボックスが設置されている。中には黒いビニール袋が入っていて、なんと無料でとり放題。ボックスの側面には「まずビニール袋に手を入れて、フンをつかんで、裏返してゴミ箱に捨てましょう」という内容がイラスト付きで説明されている。ここまで過保護にしなければならないマナー事情についため息が出た。

とは言いつつ、そんな障害物をもってしても、私は外に出る。私を待っているのはなにもフンだけではないことを知ったのだ。

初体験は地下鉄だった。混み合った電車内で立っていると、前の席に座った女性が突然私に向かって話し始めた。

「I like your dress. The pattern is like impressionist painting. It’s kind of mysterious and impressive. (あなたのワンピース、好きだわ。柄がまるで印象派の絵みたい。なんというか、とても神秘的で印象的だわ)」。

もちろん初対面の人だ。通った鼻筋に涼しげな目元が知的で、膝に置いたレザーの鞄はいい風合い。車内でたまたま目の前に居合わせただけの女性が、こんなにも素敵な賛辞を送ってくれている。びっくりして周囲を見渡す私。混んだ車内に彼女の声が伝播する。気に留める人は誰もいない。ラッパーが大音量のラジカセを持ち込み突然韻を踏むのがニューヨークの地下鉄だから、話し声なんて、耳をそよぐ春風だろう。しかも彼女の褒め言葉は、近距離で目が合ってしまった気まずさから出た隙間を埋めるためのお世辞という類ではなく、メトロポリタン美術館でじっくりと足を止めてモネを愛でるような示唆にとんだ表情から繰り出されるのだ。

私は戸惑いつつも、このワンピースは大のお気に入りで、コバルトブルーの背景に、墨黒色で樹木の影が全面に描かれたデザインこそ気に入って買っただけに、褒められてとても高揚した。

また、ある日のこと。乗り換えのためにコンコースを足速に歩いていると、すれ違いざまに女性が、私に向かって声を上げた。

「Look! I’m wearing those one! Very nice!(その靴、私も履いてる! いいよね!)」

何事かと振り向くと、フレンチボブのヘアスタイルにトレンチコートを羽織った見知らぬ女性が、歩きながら左足を持ち上げた。今私が履いているのとまったく同じブーツ。驚きつつも何か言わなきゃと雑踏をかき分けるように声をはる。

「Thank you! Me too! (ありがとう! 私も好き!)」

聞こえたのかはわからないけど、女性はキュートな笑みを残して颯爽と去っていった。その背中を見送りながら、私の拙い英語が不特定多数に聞かれた気恥ずかしさと、それでも会話ができた嬉しさが同時に込み上げてきて、胸がそわそわした。観光客目当ての路上ぼったくりミネラルウオーター1本$12も今なら買えそうな気がする。

そして、決定的な日がおとずれた。ある日の帰り道、夕方6時を回ったくらい。私は満員の揺れる車内で、よろけて人の足を踏んだりせぬようなんとか踏ん張って立っていた。すると隣に居合わせた見知らぬ男性が私を見て声を上げたのだ。

「What a nice balance ! (なんてすごいバランスなんだ!)」

その言葉を聞いた瞬間、笑いが込み上げてきて、それと同時に私はニューヨークが好きだと確信した。

今までの人生、混み合う電車は自分にとって苦痛な場所でしかなかった。でも彼のこの一言をもって、私の電車人生は変わった。これから死ぬまで何度となく乗る満員電車の中で、揺れに耐えて踏ん張るたびに、このくすぐったい思い出が蘇るに違いない。そして、ふらつく足元を見ながら、周囲に気づかれないように少しだけ笑っちゃうんだ。

「誰かを褒めたくてもなんか恥ずかしいから言わない」という自意識の向こう側にいる人が暮らしている街で、他人の人生をこんなふうに変える言葉に不意に出会う。

その日は胸がいっぱいになって、電車を降りた後、家までの帰り道は心ここにあらずで、フンの1つや2つ踏んだ気もするが恐れない。私には、あの見知らぬ彼が褒めてくれたバランス感覚が備わっている。ニューヨークの表の顔も裏の顔も知った上で、付き合っていくバランス感覚もきっと。

著者プロフィール
大橋未歩

1978年兵庫県生まれ。
2002年テレビ東京入社。スポーツ、バラエティー、情報番組を中心に多くのレギュラー番組で活躍する。
2013年1月脳梗塞を発症し、休職。療養期間を経て同年9月に復帰する。
2017年12月テレビ東京退社しフリーアナウンサーとして活動を始める。
2023年アメリカ・ニューヨークに住まいを移し日米を行き来しながらテレビやイベントなどを中心に活動する。