ニューヨークの林檎をむいて食べたい

この連載について

「キラキラじゃないニューヨークが読みたい」
そう言ってくださった大和書房編集部の藤沢さん。それなら私も嘘をつかなくていいやと胸をなでおろし、連載を始めることにしました。

ニューヨークに移住するからといって全員がキラキラするわけではない。
でも住んでみたいから住んでみた。
そんな人生があってもいいじゃないかという、根拠は特にない自己肯定の日々を綴りました。

第5回

宝物に救われる

2024年2月16日掲載

突然先生が消えた。

消えたのは、南米系アメリカ人のアレキサンドロス先生だった。すらっとした長身で、おろしたてのように清潔な白いYシャツを着て、ボタンを襟元まできっちり閉めている。声と語り口がまるで森本レオのようで、ソフトで耳馴染みが良くてまったく威圧感がない。

先生は、新任らしかった。生真面目なキャラクターに合わないユーモアを一生懸命言おうとしていて、それが生徒にも伝わるから生徒も緊張して笑えないことが何度かあったのだ。そんな姿を見て「アメリカ人だからと言って全員ユーモアが得意というわけではない」と自分の無意識の偏見に気づくいいきっかけにはなったが、先生自身が迷いながら授業をしていることはクラス全体になんとなく伝わり始めていた。授業で使う教材に一貫性がなくて、今週はとても難しい長文を読んだかと思えば、翌週はとても簡単になったり、最後まで読み終わらないうちに終業時間を迎えそのままになったり。比較してはいけないけれど、ダニー先生に比べると経験値の差は歴然だった。

次第にイライラを募らせる生徒が出てきた。祖国に送金しながらなんとか通っている学生もいる。迷いながら授業をしている時点で、プロフェッショナルじゃないとみなしてその態度を好まない人もいる。

ある日アレキサンドロス先生から宿題が出た。

テーマは「ゴールセッティング」「タイムマネジメント」「ためになる習慣」。この3つのうち1つを選んで、自分の経験と、統計などのリサーチも付け加えた上で3分間のプレゼンテーションを考えてくるというものだった。

頭を抱えた。3分間英語で話し続けることだけでもハードルが高いのに、内容の難しさよ。泣きたい気持ちを抑えながら、一足飛びに帰宅して、すぐにとりかかった。

私は「ゴールセッティング」を選んで、「なぜ自分が英語を話せないか」について発表することにした。

義務教育や高校、大学受験で何年も英語を勉強してきたのに話せないのは日本の教育制度にどこか欠陥があるのではと問題提起をして、スイスの教育機関が発表している英語能力ランキングで日本が世界でも下位にあるデータを付け加えた。そして、テストなどの詰め込み教育によって間違いを恐れる教育になっていることに問題があるのではないかという仮説を立て「1日に10個英語で間違いをすることを目指す、それが私のゴールセッティング」という内容にまとめた。結論のくだらなさには目をつぶってもらうしかない。

すると翌日、なんと宿題をやってきたのは、アルメニア出身のアシテックと私、2人だけだったのだ。

プレゼンテーションだから、忘れ物とは違う。それは生徒たちの明確な意思だった。私たちの発表が終わり、アレキサンドロス先生が「他に宿題をやってきた人はいませんか?」と生徒に問い続けても、誰も何も言わない。重い沈黙だけが続くという地獄のような時間が流れた。

授業の後、先生に呼び出された。

先生は森本レオの声で「宿題をやってきてくれて、ありがとう、ありがとう」と感謝してくれた。私はいたたまれない気持ちになった。先生はたぶん今、ものすごく孤独を感じているに違いない。

そんな中でもまた宿題が出された。次こそはみんな宿題をやってきてくれると先生は信じたのか、授業の進め方の引き出しがまだ少なかったのか、「母国の文化」について3分間のプレゼンを考えて、それを今回は各自7部コピーしてくることを課された。普通の宿題もやってこなかった生徒たちに、今度は宿題をやったうえで各自コピーをしてくるように課すなんて、大丈夫かな、みんなまた放棄しちゃうんじゃないかと心配になった。

そう、確かに大丈夫じゃなかったのだ、私が。

また一目散に帰ってプレゼンを仕上げてさあプリントアウト!という段階になって、プリンターを開く。が、用紙がない。

しまった! コピー用紙を切らしているんだった!

夜10時。どうしよう! ニューヨークには、深夜も営業していて、プリントアウトもすぐできて、ついでに豆まで挽いてもらっちゃって安くおいしいコーヒーが飲める日本式コンビニという天国は存在しない。

どこかにコピー用紙なかったっけ……半泣きで家中を探す。すると、あったのだ。

A4コピー用紙の束。それは、以前担当していたテレビ番組「5時に夢中!」を私が卒業するときに、視聴者のみなさんがしたためてくれたメッセージだった。

番組を担当した4年間の思い出が、私への労いが、びっしりと綴られている。それをディレクターさんがプリントアウトして私にプレゼントしてくれたものだった。

ニューヨークに移住するにあたって荷物は減らしに減らしたが、これは手放せなかった。自分のお守りのような気がして、一緒に海を渡ったのだ。そう、間違いなく大事な大事な宝物。

このメッセージの裏側、使えるじゃん!!!!

気づいたら叫んでいた。視聴者のみなさん、ごめんなさい。宝物をコピー用紙の代わりに使わせていただきます。

でもユーモアの通じる「5時に夢中!」視聴者のみなさんなら、きっとわかってくれる気がした。「どうぞ裏を使ってください」「困ったときに助けてくれる、まさにお守りですね」「なんならこちら側が裏なんで」などと優しい言葉をかけてくれそうな気がした。

そして、比較的文字数の少ない7枚を選んでプリンターに挿す。文字数が多いと、透けて文字が読みにくいからだ。

よしこれで準備万端。明日の授業の発表が楽しみだと思って学校に行ったら、アレキサンドロス先生が辞めていた。

授業開始予定から10分ほど過ぎた頃、代わりに来た先生が言った。

「Someone can’t make it です。さあ授業始めまーーす」

何事もなかったように、授業が始まった。

Someone can’t make it.

「make it」成功したりやり遂げたときによく使う言葉だ。先生としての任期を全うすることなく辞めたアレキサンドロス先生は、やり遂げることができなかった。その乾いた響きに、一生懸命ユーモアを言おうとしていた先生のことを思い出していた。

先生は努力しようとしていた。でも昨日の宿題事件で心が折れてしまったのかもしれない。もうあのときすでに、先生と生徒の信頼関係は破綻していたのだろう。

今後、先生を続けるのかどうかはわからないけど、アレキサンドロス先生に合う場所が見つかるといいな。そんなことを願った。

っていうか宿題! せっかく、大事なメッセージの裏にプリントアウトしてきたのに。あの7枚は日の目を見ないのか。ちょっとした悔しさが込み上げた。

だから、ここに今、記そうと思う。

語学学校の仲間とアレキサンドロス先生に聞いてほしかった、私の母国、日本の文化について。

タイトル「日本のトイレは宇宙船」

「日本にはやおよろず(八百万)の神という考え方があり、あらゆるところに神が宿ると信じられている。トイレにも神が宿ると考えられていて、『トイレの神様』という歌はミリオンヒットしたし、トイレをきれいにしないと運気が落ちるとも言われたりする。あまりにトイレを大切にしているうちに、きれいに使うだけでなく、日本のトイレは独自の進化を遂げた。現代の日本のトイレは宇宙船並みに、ボタンが多い。機能が無数にあるのだ。日本人である私でも使いこなせないこともある。人に音を聞かれることが恥ずかしい日本人のために、川のせせらぎのような音が流れることもあれば、きれい好きな日本人のためにお尻を洗ってくれることもある。実際のところ、私は流すボタンと便座を温める機能しか使っていないが(以下割愛)」

アレキサンドロス先生は、これを聞いてどんな反応をしてくれただろうか。いつもの森本レオの声で「便座があたたかいのは、寒い冬のニューヨークにいいですね」なんて言ってくれただろうか。

著者プロフィール
大橋未歩

1978年兵庫県生まれ。
2002年テレビ東京入社。スポーツ、バラエティー、情報番組を中心に多くのレギュラー番組で活躍する。
2013年1月脳梗塞を発症し、休職。療養期間を経て同年9月に復帰する。
2017年12月テレビ東京退社しフリーアナウンサーとして活動を始める。
2023年アメリカ・ニューヨークに住まいを移し日米を行き来しながらテレビやイベントなどを中心に活動する。