ニューヨークの林檎をむいて食べたい

この連載について

「キラキラじゃないニューヨークが読みたい」
そう言ってくださった大和書房編集部の藤沢さん。それなら私も嘘をつかなくていいやと胸をなでおろし、連載を始めることにしました。

ニューヨークに移住するからといって全員がキラキラするわけではない。
でも住んでみたいから住んでみた。
そんな人生があってもいいじゃないかという、根拠は特にない自己肯定の日々を綴りました。

第4回

SheやHeではなく、Theyを

2024年2月15日掲載

語学学校に入ったはずが、生徒のほとんどが日常会話に困らないくらいに英語を話すことが判明した初日。唖然としている間にも、授業は進む。すると先生が、

「Pair Work! 近くにいる人とペアになってAIについてどう思うか議論してください」

入ったばかりで知り合いのいない私。救いを求めるような視線に応えてくれたのがセネガル出身のエミリーだった。スキニージーンズにおしゃれな黒縁メガネをかけて、流行のショート丈トップスからはヘソが覗いている。

「May I have your name?」

「I’m Emily. What’s your name?」

「I’m Miho.Nice to meet you!」

エミリーは新入生の私を気遣って、まずこちらの意見を求めてくれたが、言葉が続かない。

「AIについてMihoはどう思う?」

「AIか……う〜ん、家でルンバ使ってて確かに便利だけど…………うーん……エミリーはどう思う?」

うわ! 逃げた!!

情けない自分に脳内で突っ込む。意見が続かず、思わずエミリーに振ってしまったのだ。議論と言いつつ、意見を何も言ってこないやつに無茶振りされたにもかかわらず、エミリーはとうとうとしゃべる。ダサすぎる自分を平手打ちしたい気分だった。

休み時間、語学学校に通っているのになぜそんなに話せるの?と聞いてみた。するとエミリーは、

「ここに9ヶ月通ってて。でも最初はまったくだったよ。初日は泣いたもん。なんでこんなにできないんだろうって、自分に腹が立った」

そうか。みんな最初の1歩は同じなんだ……。私は何を怖がってるんだろ。とにかくしゃべるしかないじゃないか。

“ぶつかり稽古”が始まった。

とにかく自分の言葉が続かないなら相手を質問攻めにしよう。議論はそこそこに、

「Where are you from?」

「How long have you been in NY?」

「How was that so far?」

「What are your favorite places in your country?」

質問を繰り返す。ほとんどの生徒は、家族のもとを離れてひとりでこのニューヨークに来ていたから、特に故郷について話し始めると途端に顔がほころんだ。中には、故郷の家族に送金している生徒もいて、みんなここで何かをつかもうとしていることがひしひしと伝わってくる。私もここで何かを得て日本に帰りたい。でもその何かがまださっぱり見当もつかないのだった。

次のトピックは人に対するラベリングについて。

先生が「今回のテーマはラベリングです。まず私は教師です。みなさんは私に対してどんな印象を持ちますか? 私は休日に何をしているでしょうか? 印象でいいので言ってみてください」

先生の名はダニー先生。私のリスニング能力はまだまだだったけど、ダニー先生の英語の発音はきれいで聞き取りやすく、授業のほとんどは理解できている。

先生が休日何をしているか……。私は1番前の席に座るという自分に課した小さなルールだけは守れていたから、近距離で彼女を観察した。先生はいつもパステルカラーのトップスを着て、ダークブラウンのストレートヘアーはいつもきれいに切り揃えられていた。よし、なんとか殻を破るんだ。勇気を出さなくては。

「Reading books!!!」

げ!!

思ったより大きな声が出てしまった。バラエティで勇気を出して前に出ようとしたものの声量間違えちゃうやつだとまた自分に突っ込む。場違いな声量に面食らったクラスが一瞬静寂に包まれた。すると先生がすかさずフォロー。

「Miho! いいね! 確かに、Mihoは新入生だから私に対して先入観がないからいいわ!どんどん言って! 他には?」

救われたような気持ちになり私は続けた。

「Raising green plants!(観葉植物を育てる)」

先生は一瞬、「?」という顔をしたが、すぐに察して、

「Cultivating green plantsね!」

と言い直してくれた。観葉植物を育てるときは「cultivate」って言うんだ。確かに、人間を育てるわけじゃないから、「耕す」で習ったcultivate を使うのか。実際に間違えると、不思議とその言葉は忘れない。

さらに、先生に対しての「植物育ててそう」というシュールな回答がウケたのか、クラス後方にいる南米系の女子生徒たちが笑ってくれた。自分の英語の発言で人が笑ってくれたのが何だか嬉しい。初めてクラスの生徒たちに認識してもらった気がした。

ダニー先生は続ける。

「Mihoが言ったように、本を読んでいそうとか、植物を育てていそうとか、先生に対する印象ってあるわよね。でもね、私はハードロックが好きで、休日はよくライブに行って髪の毛を振り乱して歌ってるの。外見や職業から受ける印象と、中身が、実は違うってことはあると思わない? 今週はそれを学んでいきます」

教科書を開いて、性格を表す言葉を学ぶ。

おしゃべりな talkative

内向的な introverted

外交的な extroverted

誠実な sincere ……

その都度先生はホワイトボードに例文を書くけど、その例文の主語が、今回はSheでもHeでもなく「They」になっていた。 

「性格のイメージが男女によって固定化されないように、今回はTheyで書いています」

私はじわじわと感動が胸に広がるのを感じた。小さなことかもしれないけれど、ジェンダーバイアスを植え付けないよう細心の注意を払うというのは、教師としてとても立派な態度だと思う。ましてや、ここには未来を担う若者が世界中から集まっている。

とても大事なことだと思った。以前「女性はおしゃべりが長いから」と言って問題になった元首相のことをぼんやり思い出していた。

「では、自分の性格について、人からの印象と、自分が思う自分について、新たに習った単語も使いながらペアになって話し合ってみてください。」

今回のペアは、ブラジル人のファビオ。黒々とした瞳がとても澄んでいる子だ。

ファビオは言う。

「僕は人からどう思われているかわからないけど、内向的なほうなんだよね。あまりしゃべるほうじゃないし、だから職場でも誤解されることもある。もっと外交的になれたらなと思うときもあるけど、性格だからなかなか難しくて」

なまりが強い子もいるけど、ファビオの英語は言葉を丁寧に選んでいるのか、とても聞き取りやすい。はにかむように笑うところとか、時折伏し目がちになるところにファビオの隠れた苦悩が滲んでいる気がする。それでも一生懸命言葉を紡ぐファビオを見て私は思わず伝えた。

「私はファビオに会った瞬間に、ブラジル人だから陽気な人だと判断しちゃってた。だから、なんかごめんね」

不思議だった。上手い下手を意識しないで、ちゃんと相手に伝えたいことがあるときは、すらすらと英語が出てくるのだった。

ダニー先生は続けた。

「みんなクラスの生徒と話してみてどうだった? 人が思う印象と、実際の自分とが違うこともあったんじゃないですか? 人のことを、外見や職業や人種で、決めつけて断定するのは好ましくありません」

「女子アナなんて、女の世界だからどうせバチバチしてるんでしょ?」

バラエティでこんな話をふられるたびに、何度息が詰まる思いがしたか。ステレオタイプや固定観念にはめられると、とても窮屈だったし、自分というパーソナリティが透明化された気がして、とても虚しかったし、イライラした。

間違った認識が一人歩きしてしまうのは嫌だけど、悪気はなくとも断定されて投げられた言葉を覆すのは、骨が折れるし心が消耗するからあきらめてしまうこともある。すると悶々とした感情が自分の中に蓄積していくのだ。この感情を沸き起こさせることこそ「マイクロアグレッション(無意識の差別)」というもので、人種のるつぼニューヨークでも当然のごとく気をつけなくてはならない。

言葉だけではなくて、社会で生きていくための実践的な授業内容に、この学校に来てよかったと思っていた矢先。

先生が突然、消えた。

私たちに大量の宿題だけを残して。

著者プロフィール
大橋未歩

1978年兵庫県生まれ。
2002年テレビ東京入社。スポーツ、バラエティー、情報番組を中心に多くのレギュラー番組で活躍する。
2013年1月脳梗塞を発症し、休職。療養期間を経て同年9月に復帰する。
2017年12月テレビ東京退社しフリーアナウンサーとして活動を始める。
2023年アメリカ・ニューヨークに住まいを移し日米を行き来しながらテレビやイベントなどを中心に活動する。