ニューヨークの林檎をむいて食べたい

この連載について

「キラキラじゃないニューヨークが読みたい」
そう言ってくださった大和書房編集部の藤沢さん。それなら私も嘘をつかなくていいやと胸をなでおろし、連載を始めることにしました。

ニューヨークに移住するからといって全員がキラキラするわけではない。
でも住んでみたいから住んでみた。
そんな人生があってもいいじゃないかという、根拠は特にない自己肯定の日々を綴りました。

第6回

わけありの女

2024年10月10日掲載

ドラマシリーズ『SHOGUN 将軍』が、アメリカテレビ界のアカデミー賞とも言われるエミー賞を史上最多18部門で制覇、主演の真田広之さんが主演男優賞に輝いた。アメリカに暮らしていると、各種メディアで真田さんを見かける。書店に行けば、雑誌のカバーで、キャサリン妃の隣で真田さんがクールに笑っているし、これに出演すれば人気者の証と言われる高視聴率の夜のトーク番組にも出演されていた。いわゆる「真のハリウッドスター」という立ち位置に真田さんは上られたのだと思うが、40歳を超えてから本格的に海を渡り、英語での演技の勉強を始められた真田さん。あれから20年の道のりの厳しさは、想像に難くない。

実は、この半年の記憶がほとんどない。

半年前、演劇学校に入学してからの年月が過酷すぎて。語学学校に通っていたものの、あるときから「ネイティブの会話に慣れないとダメだ」と焦りを感じ始めて、語学学校ではなく演劇学校に入学した。以前から演じる仕事は少しいただいていたし、表現力を学ぶことはきっとナレーションなどアナウンサーの仕事にも繋がるだろうし、何より英語のセリフを覚えれば英語の勉強にもなるだろうと考えたのだ。

でも、いざ入学してみると、大人になってこんなに落ち込む日々が待っているとは思ってもいなかった。授業は10週間で1クールだが、5週ごとに演じる役とパートナーが割り当てられる。二人で1つのシーンを演じて毎週発表するのだ。英語セリフがびっしり書いてある脚本を5ページほど覚えるのだが、演じるためにはその物語全体を把握しなくてはいけないから、もちろんシーンだけではなくて脚本も読破しなくてはならない。そして、覚えたとて、最大の難関「発音」が待っている。

皆さんはご存知だっただろうか、日本語の母音の数は5つだが、英語の母音はなんと15個!!あり、日本語の子音は13個に対して、英語の子音は24個!!!あると言われている。日本語より異常に多い。

もう感覚としては、舌と唇と頬の筋肉をこねくり回さないと、英語の発音などとてもできない。今まで何気なく言っていた木曜日Thursdayだって、正しく発音しようとすれば、舌の先端を上下の歯で挟まなくてはならない。つまり舌をあえて少し出しながら喋るのだ。嘘だろ!?なんで舌を出すのさ!!舌を人に見せながら話すなんて恥ずかしいじゃないか!!と恥ずかしがり屋の日本人気質が突然顔を出してきて、俄かに信じがたいと周囲のネイティブを観察すると、みんな、ほんの一瞬だが、ちゃんと舌を出している。スムーズな会話の間にも、舌だしを怠ることなく、0.1秒くらいだが舌の先端を上下の歯でちゃんと挟んで発音していたのに驚いた。

スピーチクラスの先生に質問したことがある。

「英語を正しく発音しようとすると、唾が飛びませんか?」(どんな質問)

先生は満面の笑みでおっしゃった。

「飛ぶよ!英語は飛ばしてなんぼ!どんどん話して飛ばしていこう!」(どんな回答)

英語は勉強でもあるが、今は「筋トレ」でもあると思っている。私たちが使ったことがない舌や唇や頬の筋肉をいかに総動員するかが勝負だ。

もちろん文化の違いにも驚く。先生と生徒がとにかく対等なのだ。圧倒的な実績を誇る先生に指導されたとて、自分が違うと思ったらみんな意見を言う。先生もそれを頭ごなしに否定したりはしない。先生と生徒の議論が始まるのだ。

私がとっているクラスの先生は以前トニー賞(アメリカ演劇界のアカデミー賞)にもノミネートされたことがあるLorraineSerabian(ロレイン・セラビアン)先生。御年86歳!!アメリカでは年齢なんてただの記号という考え方が一般的で、採用面接でも年齢を聞くことは違法ではあるけれど、86歳というのはもはや勲章で、先生自身もたまに誇らしげに自分の年齢について話す。

ロレイン先生は、カリスマだ。第一線の舞台女優だっただけあって、髪はいつも美しく巻かれているし、美脚が顕になるパンタロンにカラフルなトップス、首にはいつも洒落たスカーフがあしらわれ、フォックスサングラスで颯爽と現れる。尋常じゃない洞察力を持っていて、本人も気づいていないような個々の生徒の隠れたキャラクターを見抜き、ぴったりの役どころに起用してくれる。

ちなみに私は毎回、わけありの恋をする役を与えられるのだが、先生には一体私がどう見えているんだろう(笑)

もちろん、第一線の修羅場をくぐってきただけあって、やる気のない生徒に対しては容赦しない。セリフを覚えてこなかった生徒に対して、

「I’m extremely disappointed !!(ほんっっっとに失望したわ‼)」

と怒鳴ったのには驚いた。extremely は度合いとしては最上級だ。でも、この叱咤も深い愛情があってこそだというのが今ならよくわかる。彼女ほど愛情深く熱心な先生に出会えたのはラッキーとしか言いようがない。彼女は2時間半のクラスを週に3つ受け持っているうえに、授業とは別にZoomで各生徒に個別レッスンをしてくれるのだ。しかも無料で!1時間ほどかけて私の発音を一語ずつ直してくれる。ネイディブの生徒にも、シーンに対する理解が足りないと思ったらZoomをつなぎ、シーンや役柄に対する理解を深めるべく議論してくれるのだ。

ロレイン先生に認められたい。それも今の大きなモチベーションの1つだが、あるとき私も先生を怒らせることになってしまった。それはまた次回。

著者プロフィール
大橋未歩

1978年兵庫県生まれ。
2002年テレビ東京入社。スポーツ、バラエティー、情報番組を中心に多くのレギュラー番組で活躍する。
2013年1月脳梗塞を発症し、休職。療養期間を経て同年9月に復帰する。
2017年12月テレビ東京退社しフリーアナウンサーとして活動を始める。
2023年アメリカ・ニューヨークに住まいを移し日米を行き来しながらテレビやイベントなどを中心に活動する。