いつも、相手のことがわからないと思っている。
わからないと思いながら笑ったり驚いたり嫉妬したり、毎日おろおろしている。
話したい、のに話しかけるのが面倒でうやむやになってしまうことばかりな気さえする。
わかりたいのは不安だから。自分ばかりが求めてしまうことに辟易しながら、わからないからあなたとかかわりたいと思う。
お前はいつも鬱陶しい!とつっこみながら読んでもらえたらうれしいです。
わからないから
ゴミ出しのために、寝巻きに着る毛布を羽織って外に出る。週一のプラゴミは、数分歩いた先の公園の前まで捨てに行かなくてはならない。変な格好だから誰にも会いたくないな、とゴミを置いていそいそ家に戻ろうとしたタイミングで、同じアパートの加藤さんに会う。あっ、と思ってしまう。加藤さんは抱っこ紐に赤ちゃんを抱いている。二人目のお子さんが生まれたことは、通りがかりのドア越しに泣き声が聞こえたり、夫が駐車場でちらと見かけたと言っていたから、すでに知っていた。でも本人から直接、もうすぐ生まれるんです、とも生まれました、とも聞いていなかったから、どう接していいかわからなかった。気まずいのだ。
以前はそんなふうではなかった。うちの子どもが生まれる前後、加藤さんはとても優しくしてくれた。順調ですか? もうすぐですね、と会うたびに声をかけてくれたし、上のお子さんとクッキーを持って遊びに来てくれたこともある。それが、いつからかぱったり連絡が途絶えてしまった。何かあったわけではない、とこちらのほうでは思っているが、気づかないところで気に障ることをしてしまっただろうか。「いないいないばぁ」のDVDをお下がりでもらって、そのお返しをしていないから? そんなことで気を悪くするとは思えない。でも、だいたいその辺りの時期からこれまで、挨拶をしてもそっけない。そっけないから、こちらも深追いするのは、と距離ができる。当時は気づかなかったが、疎遠になったのがちょうど彼女の妊娠時だったなら、体調やメンタルが不安定だったのかもしれない。そう勝手に解釈して、仕方ないのかな、と思った。ご近所だから遭遇してしまうことはこれからも多いだろうけど、当たり障りなくやり過ごすしかない。
でも、今日は生まれたばかりの赤ちゃんを目にしたのだから、「おめでとうございます」って言えばよかった。あ、わ、とちいかわみたいな反応しかできなかったことを、いまも後悔している。そして、自分がずっと受け身で加藤さんと接してきたことを思う。もっとこちらから遊びに誘ったりすればよかったのだろうか。でもそんなふうに強いられるものでもないよな、人との関係って。相手の思っているようには振る舞えなかった、ただそれだけなのかな、とも思う。
目の前の人が何を考えているのか、わからない。当たり前だけど、当たり前のこととして、そのことに何度でも新鮮に驚き、うろたえる。
6度目の結婚記念日を迎える朝、夢でわたしは夫の浮気を問いただしていた。相手はいまは遠くに暮らす、お互いの友人と分かった。そんなことが起きたら嫌だ、という深層心理が反映されたのか、夢のなかでわたしはやっぱり、と思った。やっぱりそうだったんじゃん。何度も力任せに夫を叩き、テーブルの上のお茶をぶちまけ、言葉の限り夫をなじった。夫は痛い、やめて、ごめんなさい、など抵抗の言葉を一切口にしなかった。なにも言わず、ただゴム人形みたいにすべてを無表情のまま受け止めていた。夢だったらどんなにいいだろう、と叫び、起きて気づけば泣いていた。はっきりと、これは現実だと思った。いや、夢なのだけど。ぼんやり薄目で横を向くと、夫は静かに眠っている。
夫に見た夢の詳細を話すと、いやいやいや、と言う。いやいやいや、はこっちのセリフ、と思いつつ寝巻のまま、まだ興奮している。してるわけないじゃん、するわけないじゃん! とほえる夫を、わたしは信じるしかない。信じるしかない、という諦めが、そもそも夫には不服らしいが、こっちだって混乱している。ただ、どんなにリアルな夢だとしても、それは夢だった。現実ではなかった。向き合って夫の目を見てみる。わからない。相手の瞳に映るものなど何もこちらからはわからない。何が見えているのだろう、何をいま考えているのだろう、と訝しむ自分のシルエットが跳ね返るだけだ。
夫の顔には、つねに表情がある。思案顔というのか、とにかくいつも、「何かを考えている」顔を黙っていても、たたえている。それが面白くて、だから「いま何考えてた?」とわたしはおりおり訊く。夫はとくに鬱陶しがらずに、「いや仕事のあれとこれとか」「いまからアイス食べよっかなって」「今日来た学生が」と頭のなかを披露してくれる。そうやって、思考をとおり抜けて出てきた言葉だけを、わたしは受け取る。それは本心なのだろうか、ほんとうには別に考えていたことがあったのではないか、とどこかでは思いながら、でも夫の言葉を聞き、わたしはそのたびに声を返す。笑う、いなす、皮肉を言う。十二年、こうしてずっと一緒にいたってわからない。何もわからない。わかったつもりになることだけ、どんどん巧みになっていく。
3月8日の結婚記念日がミモザの日であると知って以来、記念日に合わせてミモザの花を買うようになった。ミモザはすこし足を伸ばした花屋にしか入荷せず、毎年そこへ行くのは緊張する。ほとんど名前の知らない季節の花が揃う素敵な花屋だけど、店主がいかにも一家言あるという感じで、話しかけづらいのだ。今日も、というか今年もやっぱり冷たくあしらわれてしまった。わかって訪ねているから構わないけど、でももうちょっと優しくしてほしい、と思ってしまう。近所の友人も同じ評価だったので、そう感じるのはわたしだけではないのだろう。いきおい、すごすごと家に持ち帰ったミモザは夜には萎んでしまった。お店ではあんなにぽわぽわしてたのに。店主はわたしがミモザをうまく扱えないことを見抜いていたのだろうか。だからあんなぶっきらぼうな態度を。けれど花瓶に移す際、花が包んであったやわらかな紙をひらくと、そこには「thank you, have a nice day!」と丁寧な文字があった。かわいらしいうさぎの絵まで添えてある。なんだ、やさしいんじゃん。というか小粋だ。「ミモザの日が結婚記念日で……」と話しかけたらよかったのかもしれない。怖い、とか思ってごめんなさい、とこうして後から思う。
花屋に向かう途中、信号待ちに小学生たちと鉢合わせた。気さくに「これ、ここに赤ちゃんが座るん?」と自転車の前かごに取りつけてある子ども乗せ椅子を指して、そう聞かれる。おお、そうだよ。子どもを乗せるんだよ。こんなちっちゃいとこに入るんだね、危なくないの、赤ちゃんだからきっと入るんよ、などいつの間にかわらわら自転車を囲んで口々に言われ、笑ってしまう。信号が青になって、じゃあね、とペダルを漕ぐと「赤ちゃん、自転車速く走ると危ないけぇ、気をつけてね!」と手を振られる。君たちも気をつけて帰ってね、と思う。いいなあ。そのまんま、そう思っていることを投げかけられている。
ドミノピザに並ぶ黒いバイク、交差点のむこうの、ふれあい広場、とマジックで書かれた元商店のガラス戸。窓には皇室の写真、というか切り抜きが何枚も貼られていて、足元には「ご自由にどうそ」という箱に空き瓶がおおくある。謎だ。横断歩道をゆっくりと左折する大型トラックを運転する男性と目が合って、この人とわかり合うことはできるかな、とふと思う。できるかもしれない。わかり合うってなんなんだ。わかるってなんなのだろう。さっき小学生に掛けられた言葉は、そのまま、まっすぐにこちらへ届いた。それは意味通りだったから。その場限りの、忖度などひつようない言葉だったから。こうやってわたしは、すぐに人の「本心」を探ろうとする。そんなの、ほんとうにあるんだろうか。
*
もう一度、テーブルを挟んで向かいに座る夫の顔をじっと見る。以前、年賀状を送った友人から、「ふたりとも顔がそっくりだね」と言われてギョッとしたことがあった。べつに元から顔の造作が似ているわけではない。けれど、写真のわたしたちは笑顔の作り方がそっくりだった。お互い子どもとよりも、夫婦のほうが似ている。おそろしい気持ちになる。食べるもの、起きる時間寝る時間、観るテレビ、読んだ本、すべてを共有して身体に取り込んで、ふがふが笑ったり怒ったり、そんなことを繰り返して、見た目がこんなに似通ってしまった。わたしたち、似てるんだってさ。でも、似ていたってぜんぜん、夫のことはずっとわからない。
いまはテーブルに向かい合って動物倫理の話を真面目にやっている。50年後くらいにはもう牛肉なんて食べなくなってるかもね、まあいまもほとんど食べてないけどね、とか。浮気云々、さっきまでの険悪さはいつの間にか霧散して、全然関係ない話をしている。こんなにもわたしたちはちぐはぐだ。ちぐはぐで、でもほんとうだな、と思う。すべて、思ったことを言う、伝える。伝わらなくてもいいことくらい、わかっているから。
わからなくても近くにいてよ、と思う。勝手だろうか。近くにいてよ、ってまんまJ-popの歌詞じゃないか。近くにいてほしい。無理でも、いたいと思ってしまう。ロマンティック・ラブを地で行く自分、それをつよく求めようとする自分、相手とどんなふうにどうあることが「いい」ことなのかわからずに、いつも自分ばかりが理解や共感を得ようとする。夫はそれを、求めない。わからなくてもわかりあえることを、あんたはもう知ってるっていうのかよ。わかりたいのは、安心したいから。嫌われていないか、関心を向けられているか、つねに不安なのだ。その欲求はとても未熟で、けれど根源的なもののように思う。みんなこの不安とどうやって向き合っているのだろう。どう、やりすごしているのだろう。
心的距離感など、お互いが勝手に感じているもので、どこにいても、その人と自分がいま近いか遠いかどうか、わからない。遠くたって近くにいるし、近くにいたってこんなに遠い。だからいつも、こころのなかでおーい、と思う。ふと、そうやって誰かに呼びかけたくなる。呼びかけたら、振り向いてほしい。振り向いて、笑って手を振ってほしい。そしたらわたしは駆けて行きたい。人との距離を考えるときには、そんな想像をする。
記念日の夜は出前で寿司をとって、おいしいおいしいと頷きながら食べた。来年のことならなんとなく想像できて、でもその先はぼんやりしている。ぼんやりしていても、やっていけるもんだろうか。寿司を食べて酒を飲んで、こんなに楽天的でおおきな気分。険悪になる日のことは、いまは考えていない。ただ、ぼんやりした気持ちをこうしてたずさえている。(写真:著者撮影)
1989年神奈川県生まれ。山口県在住。歌人集団「かばん」所属。
中高非常勤講師のかたわらエッセイや短歌をものする。
著書に『せいいっぱいの悪口』(百万年書房)がある。
晶文社スクラップブック「おだやかな激情」連載中。