わからなくても近くにいてよ

この連載について

いつも、相手のことがわからないと思っている。
わからないと思いながら笑ったり驚いたり嫉妬したり、毎日おろおろしている。
話したい、のに話しかけるのが面倒でうやむやになってしまうことばかりな気さえする。
わかりたいのは不安だから。自分ばかりが求めてしまうことに辟易しながら、わからないからあなたとかかわりたいと思う。
お前はいつも鬱陶しい!とつっこみながら読んでもらえたらうれしいです。

第9回

聞こえない雨の音

2023年12月27日掲載
写真:著者

 「ほんとうは、自分なんか黙ってりゃいいのにな」とよく思う。声を大にして伝えたいことなど、初めからないはずなのに。周りの華々しい活躍が悔しくて、悔しさをエネルギーにしてわたしは書くようになった。
 なんでこんなにあることないこと、書き散らしているのだろう。いや、ないことは書いていないつもりだけど。わたしに起きたことを書く。わたしが思ったことを書く。でも、そんなのだれも聞きたくないんじゃないか。お前の話なんか知らねえよ、という突っ込みを、ほんとうには聞こえるはずのないその言葉をつねに抱えている。
 選んだのがエッセイと短歌だからなのかもしれない。基本的にどちらも一人称の表現形式だから、「わたし」のことなのである。あ、あなたにそんなことがあったんですね、そのときそんなことを思ったんですね。そう読み手は受け取る。でも、改まってそう指摘されたら居心地が悪い。短歌はまだ定型詩であるから「わたし」というひとりは(作中主体と呼ばれたりする)一応その31文字の器に収まっている。
 でもエッセイはなぁ。どうしても、わたしのことなんだよな。書かれたわたしは隠れられない。隠れたいわけではないし、ごまかすような素ぶりなんて必要ないはずなのに。べつにそんな大したことを言いたいわけではなくて。ただ思ったことを書きたくて。手っ取り早いのがエッセイだったわけで。誰に問いただされるのでもないのに、こうして御託を並べてしまう。

 小学生の頃、国語の授業でリレー小説を書いたとき、「こんなにめちゃくちゃに書いたら次の人が困るでしょう」と先生に怒られたことがあった。それほど、書くことはむしろわたしにとっては難しいことだった。どんな内容だったのかは覚えていない。とにかく、いつもはやさしい先生があきれるほどの出来だったのだ。
 だいたい、文章を書くにあたってのちょっと人とは違う視点、あるいは感性をわたしは持ち合わせていなかった。
 「雨ってほんとテンション下がるわー」と、高校の教室でなんでもない愚痴をこぼしたとき、「でもわたしは部屋で雨の音聞くの、けっこう好きだなぁ」と友人がつぶやいたことが忘れられない。え、雨だよ? 不快じゃないの? そんなふうに思えるんだ。たしかに雨に濡れるのが嫌、ってめっちゃ短絡的。完全にやられた。こういうひとがきっと物書きになったりするんだろう、とぼんやりと、けれどはっきりそう思ったのだった。
 
 それでも、いまこうしてわたしは書いている。他の書き手への嫉妬心だけで本が出せるなんて思わなかった。そんなことってあるのか。なぜ書くのか、書けると思ったのか。自分でもわからないまま、気づけばここまできてしまった。
 話すことが苦手だったからだろうか。なんとなく、書き手は聞き上手な印象がある。たしかにわたしも聞き役に回ることが多かった。
 けれど実は人の話を聞くのもそんなに得意ではない。たとえばラジオも落語もお笑いも、ずっと好きになれない。みんなが好きだというそれらを聞こうとしても、どうにもうるさいと思ってしまう。
 まだ夫と恋人同士だった頃、あまりに夫がおしゃべりなものだから、わたしはほとほと嫌気がさして「そんなに自分ばっかり話さないでよ……」とさめざめ泣いたことがある。夫はきょとんとしていた。きみが話してって言うから。そう、話すのは苦手だったはずなのに。でも好きなひとにはちゃんと聞いてほしかったのだと思う。じゃあどうぞ、といざ向けられると、たちまち自分ばかりが話すのは悪い気がしてしまう。もう自分がよくわからなかった。
 
 夫の顔面にはちょうどいい位置にほくろが4つあって、それらを星座のように繋ぐときっちりと長方形があらわれる。ほほう。気づいたときにはこころのなかで感嘆の声が漏れた。そうやって、いつのまにか誰かが話すときには、そのひとの話をよく聞くふりをして、ほかのことを考えるようになった。考えながら、そのひとのセーターの肘のあたりに多くある毛玉をじっと見つめている。そのひとの背後の滲むような窓越しの夜空を見ている。
 よく聞くかわりによく見るようになった、のかもしれない。ひとの話を聞きながら、自転車を漕ぎながら、そこに留まるもの、通り過ぎていくものをわたしはよく観察しようとした。今日は曇りで、でも冬とは思えないくらい生ぬるくて、こういう日には洗濯物はどれくらい乾くのだろう。銀杏ってこんなに鮮やかな黄色なのか。床屋のあのサインポールってこんなに回転、速いのか。目に映るものから、なんでもない記憶が起こされる。子どもの頃、家族で毎年銀杏拾いに行ったこと。その話を、付き合っていた頃の夫にしたこと。見ればわたしは何かを思い出す。
 
 書くことは、だからわたしの場合生活と地続きである。というか、生活のなかにある些細なことしかわたしに書けるようなものはなかった。エッセイってそういうもんだろう、という気もするし、やっぱり「だれがお前の話なんか聞くのか」という自分の声も同時に聞こえている。
 わたしには特別なものは何もない、と思えば思うほど、些細なことにも目を凝らし、そこから浮かぶ感情の上澄みのようなものから、底に沈む澱のようなものまで、浅く深く、とにかく掘り起こそうとした。
 書いていない時間も、ずっと考えようとする。目に映るもの、起こること、それについて思うこと。すべてを取り込もうとして、気づけばどんどん自分のなかへなかへとはまり込む。色褪せたはずの記憶をひっくり返して感情をゆすり、そのたび悔しくなったりかなしくなったりした。でも、過ぎてしまった誰かの表情を無理に取り出すことはできない。すると自分だけが過去に捉われるような、暗がりに置いていかれるようなここちになる。
 ふとしたことから呼び起こされる過去の出来事にこだわるものだから、一緒に暮らす夫にも些細なことで突っかかってしまう。いつだったか、テレビで鳥人間コンテストを見ていた。「去年見たときはさー」と夫が言うので「え、去年は見てないよ」とすかさず遮ってしまう。うそ、見たんじゃない? だって覚えてる気がする。気がするだけでしょ、一緒には見てないよ。などと、自分の記憶の正しさを主張する。なんだかまずいんじゃないか。いまのわたし、なんかおかしいんじゃないか、とそのときようやく気づいたのだった。
 
 「ほりさんはもっと外に出たほうがいいですよ。色んなところに出かけて、そこであったことを書いたらいいですよ」とちょうどその頃に言われたことを思い出す。己の感情を反芻することで、苦しくなっていた。内省すればいいってもんでもない。この状態のまま書きつづけるのはきっと健康的ではない、と感じていたときだった。わたしはそのひとを助手席に乗せて、高速道路を走っていた。「思ったより運転上手ですね」と言われ、やっぱりあんまり期待されてなかったんだ、と笑ってしまう。
 あたまばかりをぐるぐる回転させて、身体はぎくしゃくしているから「運転が下手そう」と思うのも頷ける。声がうまく出ない。身体がぎこちない。見つめて、思って、考えて、どんどん自分のなかへなかへと入り込んで気づけば身動きが取れなくなっている。そういう状態のわたしのことを、多分そのひとは見抜いていたのだろう。押しつけるようなアドバイスというよりは、その言葉は素直なつぶやきとして、自然と自分のなかに入ってきた。前を見たまま、「そうかもしれないです」と返した。

 やっぱりわたしには初めから、どうしても伝えたいことなどない。たいした経験もせず、流されるように生きてきただけだ。それなのに、書こうと思ってしまった。活躍する知人への異常なまでの嫉妬心だけで走りだしてしまった。特別なものなど何も持っていないのに。なんで、自分も書けるだなんて思ってしまったのだろう。
 わたしなんてほんとうは黙っていればいいのだ。静かな部屋に充ちる雨音を好ましく思えるような感性が、だいたいわたしにはない。あの日の彼女にはかなわないのだから。けれどふしぎなことに、こうしていまも書いている。これでいいのだろうか、というためらいと、これでどうだ、という気負いをずっと従えながら。そう、ほんとうはずっとわたしにだって書ける、と思っていた。そんな自信、どこから湧き出るのだろう。ここまでくるともうわからない。もはや温泉なんじゃないか。気づけば出どころのわからない熱湯が長いこと、吹き出しつづけている。
 これからも、たぶん生きているかぎりいくらでも書くことはある。だって、生きているから書くんじゃないか。大げさで単純すぎるかもしれない。「手のひらを太陽に」の歌詞そのまんまだ。歌うひともいれば、踊るひともいる。わたしは、書きたい。もっと健やかに書けたらいい。自分の内へ内へと入り込むのではなく、もっとそのままを、起こったことをそのまま書けばいい。ほんとうは、ひとのセーターの毛玉なんて見つめないで、ちゃんと話を聞けばいい。聞くばかりでなく、その場で思ったことを相手に伝えればいい。いまからラジオや落語を好きになったっていい。目に映るものすべてを、自分の深くまでもぐり込ませなくていい。もっといまの生の感情を、そのまま記せばいい。長い間煮込まれてぐずぐずになった感情を無理に取り出す必要はない。
 
 「生きづらそう」とか言われてしまうのだから、ちょっと笑ってしまう。考えすぎる癖はしっかり読者に見抜かれている。そう、思い出したけれど「ほっこりしました」とか言われるとけっこう腹が立つ。ほっこりさせるために書いたわけではない。ヒリヒリしてる、っていうのもなんなのだろう。痛々しいってこと? 放っておいてほしい。なんて読者に悪態をつくほどに、書いたものは勝手に読まれる。だって書いたのだから。あなたが書いたんでしょう。ほっこりされたって、痛々しいと思われたって、ほんとうのほんとうには、いっこうにかまわない。
 そうやって文句を言いながら書きつづけると思う。わからない。なにより、わたしはわたしを生きたいな、と思う。外へ出て、人と会って話したい。案外これで車の運転も苦手ではないが、ペダルの重たい自転車でこの平坦な町を、風を受けてのろのろ走るのがわたしはいちばん好きだ。

著者プロフィール
堀静香

1989年神奈川県生まれ。山口県在住。歌人集団「かばん」所属。
中高非常勤講師のかたわらエッセイや短歌をものする。
著書に『せいいっぱいの悪口』(百万年書房)がある。
晶文社スクラップブック「おだやかな激情」連載中。