わからなくても近くにいてよ

この連載について

いつも、相手のことがわからないと思っている。
わからないと思いながら笑ったり驚いたり嫉妬したり、毎日おろおろしている。
話したい、のに話しかけるのが面倒でうやむやになってしまうことばかりな気さえする。
わかりたいのは不安だから。自分ばかりが求めてしまうことに辟易しながら、わからないからあなたとかかわりたいと思う。
お前はいつも鬱陶しい!とつっこみながら読んでもらえたらうれしいです。

第12回

レジャーシートの舟に乗って

2024年4月30日掲載

撮影:著者


 桜の季節がやってきても、いつからかそこまでそわそわしなくなった。というのも、近くに桜スポットがないからである。
 もちろん、いま住む場所にも桜はあって、たとえば近所の交番の前の桜は見事だし、よく行くスーパーまでの道にも一本大きな桜の木がある。通りかかれば、立ち止まってしばらく見上げてしまうし、遠目であっても満開までもうすこしだ、などと自転車の速度を落としてわざわざ眺めたりする。
 でも、近所の桜はどこも一本なのだった。大きく枝を広げて咲く一本の桜はうつくしく、うつくしければそれだけわたしにはさびしく映り、お前もひとりでかわいそうだな、などと勝手に同情する。桜は、もっとたくさん連なって咲いてほしい。
 そう思ってしまうのは、子どもの頃に住んでいた町の桜並木を思い出すからだった。
 小学生から大学に入るまで、長く暮らしたマンションのすぐ近くには、大学のキャンパスにつながる長い遊歩道があって、通学路でもあったその道を、ほんとうに長い間毎日往来した。


 あの桜並木のおかげで、子どもの頃、季節はまるごとすぐそばにあった。
 夏には木漏れ日が涼しく、秋には大量の落ち葉が踏むたびにゆかいな音を立てて、そういうものを飽きずに、当たり前のものとして享受した。いつも、そこには木の匂いがあった。雨の湿った匂い、緑の匂い、桜が終われば毛虫が大量発生するのさえ除けば、(毛虫芋虫のたぐいがいまに至るまでどうしても苦手で、だからその時期はそれなりに長い遊歩道をわたしは全力ダッシュした)新緑の頃はいっそう並木全体がかがやくようで、そういうものが生活のなかにあったことがいま思えば自分のことながら、うらやましい。まだらにひかりの差す午後、だれかが犬を散歩させ、子どもたちは走り回り、友だちとの待ち合わせもいつも桜並木のはじまりの階段だった。
 桜が咲けば、もちろんみなが花見を楽しんだ。とりわけ、大学のキャンパスがそばにあったので、大学生が連日宴会をしていた。酒を飲んで騒ぐ楽しさを知らなかったわたしは、またやってる、とだけ思って横目で通り過ぎた。休日には家族連れでにぎわった。ピークを過ぎた葉桜の頃、友人とお弁当を持参して花見をしたことがあるが、2人きりのお花見はなぜかすこしだけ寂しかったことを覚えている。
 とにかく、桜といえばわたしにはあの桜並木なのだった。近くにあれば、どうしても開花が気になる。つぼみが段々にふくらむさまを見守って、気づけば桃色に色づいて、咲き始めの頃に雨が降れば散ってしまわないかと案じる。毎日木を見上げながら、そうして桜を見守った。見守られながら、見守っていた。
 徒歩圏内ではないけれど、いま住む町にも車を走らせればそれなりにすぐの場所に大きな公園があって、そこにはりっぱな桜の丘がある。だから毎年花見はそこへ行く。記憶のなかの桜並木に感化されて、花見となればやっぱりたくさんの桜に囲まれたい。
 けれど、考えることはみな同じで、見頃の週末にはその丘はおおにぎわいの花見会場になる。いつもはひと気のない場所に、本格的なバーベキューをするひともいれば、いかにも大学の新歓、というような元気な学生たちもいて、毎年そのにぎわい、というか喧騒に驚くのだった。
 
 今年の花見は、夫の同僚とそのお連れ合い、そして今年度から入職した新しい夫の同僚、わたしたち家族、そして遅れて夫の同僚の技術職員さんもやってきて(気づけば夫の同僚関係者ばかりだ)、例年にまして賑やかな会になった。たとえだれかとだれかが初対面であっても、外であれば呼びやすく、また帰りやすく、花見は自分のペースで出入りできるのがいい。みな同世代ということもあって、話は思いのほか盛り上がった。夫の同僚S先生が、実はかつてはバンドのボーカルで、だから歌が上手いらしい、という話でひとしきり盛り上がって、じゃああれ歌ってください、あれも、などとリクエストしては頑なに断られる、そんな茶番も楽しかった。盛り上がった結果、今度は同じメンバーでカラオケに行く約束まで取りつけてしまった。
 見渡せば、それぞれが少しずつ距離をとってシートを広げ、花見を楽しんでいる。カラフルなレジャーシートはさながら舟のようで、いくつものシートをつなげて拡張したわたしたちの大きな舟にひとが入ったり、そして出て行ったりする。あちこちで、同じような光景が見られる。
 わかっていたことだけれど、子どもは初めからシートにおとなしく座るなどということはなく、お弁当もそこそこに、すぐに裸足で駆けてゆく。いまはシンカリオンという新幹線のロボットものにはまって、メルカリで入手したふたつのそれを組み替えたりなどして、とにかく走り回って遊んでいる。勝手に舟から出るなんて危ないのに。
 
 レジャーシートはさながら舟である、と思い至ったのは、ここへ越してきて2度目の春に夫とふたりで花見をしたときのことだった。
 桜が満開のあたたかい日曜日の昼、こんな陽気に花見とくれば、やっぱりどうしてもビールが飲みたくなって、わざわざバスに乗った。くだんの丘に着けば、すでにあちこちで宴がひらかれている。日差しがそれぞれに降り注いで、桜が散った地面はうっすらとピンクに色づいている。それぞれのレジャーシートが、花筏に浮かぶ舟のようで、なんだかそれは、端的に夢みたいだった。用意してきた簡単なお弁当をつまみながら、ビールを飲んですぐにご機嫌になり、夫がスマホから流すサニーデイ・サービスの「恋におちたら」が多幸感をどこまでも増幅させて、夢、というよりも天国じゃん、などと容易に思う。ふだんは死んだら永遠の無があるのみ、と信じて疑わないはずの自分がそんなことをやすやす思ってしまうほど、たぶん、場の雰囲気もあってめちゃくちゃ酔っていた。初めは騒がしかったはずの他の花見客の喧騒も、酔えばむしろさざめくようで、心地いい。「こうふくってこういうことだ」とわたしは夫に叫ぶ。うるさいよ、と夫が言う。
 
 そんなふたりの花見も、子どもが生まれてからは3人で、そしてこの地での生活に馴染むごとに、今年は友人夫婦と、あるいは翌年は保育園の友だちと、こうして気づけば毎年だれかを誘って、にぎやかな花見を楽しむようになった。
 だから、さながら花見がそのときの人間関係の定点観測のようになっている、とも言える。春に引っ越してしまった友人家族のことを思い出す。あるいは、かつて花見をした友人、知人たちは、いまはどうしているだろう。疎遠、とまでは言わないにせよ、なんとなくお互いに連絡を取らなくなってしまった。同じ子育てサークルであるとか、職場であるとか、定期的に会う場のないまま関係を維持するのはけっこう難しい。何か気に障ることを言ってしまっただろうか。そもそも、向こうはどう思っているだろう。そんなふうに連絡するのをためらってしまう。すこし寂しくて、けれどそれはお互いさまで、開き直るわけではないが、やっぱりそういうものかもしれない、と思う。
 わたしたち家族だって、子どもが大きくなればそのうちに親とお花見など恥ずかしいと言いだすかもしれない。自分も、家族で花見をした記憶はあまりない。桜の時期になれば、例の桜並木をみんなでのんびり歩いてから外食することをうちでは「花見」と呼んでいた。
 ならば夫とふたりでこれからも飽きずに花見をするだろうか。わたしたち夫婦はずっと変わらない、などと盲信するわけではない。でも花見はやっぱり、ふたりよりもみんなでわいわいやるほうがいまのわたしには楽しい。わたしたちが老夫婦になったときのことなんて、遠すぎて想像しようとも思わない。もちろん一緒にいたい。というよりも、ほんとうにはいつでも離れられるのだ、と思いながらどうしても離れたくなくて、ともに生きている。そう思いたい。
 
 桜が出会いと別れの季節にこんなにうつくしく咲くものだから、勝手にわたしたちは桜のもとで歌をうたって、愛をたしかめて、散る桜もまたうつくしい、などと言い合ってしみじみとする。桜はひとしれず、ただ咲いているだけなのに。人間って勝手だな、などと大仰なことを思う。
 けれど、桜が散ったからってなんなのだ、と同時に思う。そりゃなんであれ、花だから散るんである。そもそも、言ってしまえば桜にそこまで思い入れがあるわけではない。桜はいま満開で、こんなにもきれいで、でもほかの花だってうつくしい。ただ、桜はこうしてひとところに集まっているから、どうしても迫力がある。同じ時期であれば、木蓮だって同じくらいきれいなのに。新年度の時期とぴったり重なることもあって、日本にはあまりに桜の文化が根づきすぎている。桜がうつくしいからってべつに、桜の樹の下には死体なんて埋まっていない。急に桜アンチ、みたいな気分がやってきて、自分でも笑ってしまう。桜がなんだ、わたしはそれよりも、桜を見ることを口実に外で、みんなで、酒が飲みたいのだ。
 
 すべては一回きりであること、永遠でないこと、そんなことは桜に託さなくたっていい。人生を、人間関係を、そういうものをすぐ散る桜に喩えたりなんかしない。わたしたちのレジャーシートの舟は、家族だとか運命共同体だとかを指すのではない。桜も人生も、喩えられるようなものではない、という意味においてただそれぞれが尊いのだ。尊いだけなのだ。
 でも、こうして目の前で満開に咲けば、それをわたしはうつくしいと思う。今年も桜を眺められて、よかった。みんなで一緒に見ることができてよかった。もうきっと、来週にはすっかり葉桜になるだろう。葉桜は、葉の緑よりも、散ってしまった桜の額の赤みが目立って、ちぐはぐだ。けれど地面のあちこちに散り敷かれた桜の花びらは、もうしばらくはうす桃色のはずだ。踏まれて、風にあおられて、そうすればもっともっと、花びらは茶色くなる。セピア色の花びらの山を蹴りながら帰ったあの頃の桜並木の道を、そうして何度でも思い出す。
 
 近くにいてもいなくても、思い出すことがあり、思い出すひとがいる。そういえば、花見といえば大学生の頃は毎年大学の前の土手で、わいわい酒を飲んだ。先輩がいて、新入生がいて、だれかが持ってきたばかでかい焼酎があり、代わりに食べ物はほとんどなかった。あのときも、そしていまも、外で飲むビールはどうしてもぬるくて、コンビニで調達したプラコップはぺこぺこでたよりなく、気づけば夕方で、みんな寒そうにしている。もうそろそろ帰りますか、とだれが言い出すだろう。楽しいからほんとうはまだ帰りたくないな。そういう日があったことを、いまは忘れない。忘れてしまってもいいことを、きっとすぐに忘れてしまうことを、いまは忘れずにいる。
 
  三人がカメラ目線のものはなく桜がきれいな二枚を残す
 

著者プロフィール
堀静香

1989年神奈川県生まれ。山口県在住。歌人集団「かばん」所属。
中高非常勤講師のかたわらエッセイや短歌をものする。
著書に『せいいっぱいの悪口』(百万年書房)がある。
晶文社スクラップブック「おだやかな激情」連載中。