わからなくても近くにいてよ

この連載について

いつも、相手のことがわからないと思っている。
わからないと思いながら笑ったり驚いたり嫉妬したり、毎日おろおろしている。
話したい、のに話しかけるのが面倒でうやむやになってしまうことばかりな気さえする。
わかりたいのは不安だから。自分ばかりが求めてしまうことに辟易しながら、わからないからあなたとかかわりたいと思う。
お前はいつも鬱陶しい!とつっこみながら読んでもらえたらうれしいです。

第5回

全部わたしが決めていい

2023年7月25日掲載
(撮影:著者)

 相手に向けるその特別な感情は、恋愛じゃなくても全然よかったのだ、とわたしは前回そう書いたのだった。「恋愛」と名指さなくとも特別で、とびきり大切なあなたとの関係がいっときたしかにあった。そのときだってそのことを、ほんとうにはわかっていたのではないか。でも知らぬふりをした。なぜあんなにも恋愛することに拘泥していたのか。恋愛の、わたしはいったい何にこだわっていたのか。そんなことをおりおり、考える。

 大学の友人の紹介で初めて付き合ったひととは一年ちょっとつづいたが、あっさりふられてしまった。混乱した。なんで? 新年早々どん底かよ、と思った。つい一昨日、「明けましておめでとう、今年もよろしくぴょん!」ってメールしてきたじゃん(おそらく卯年だったのだろう)。クリスマスに会ったときだって、全然変わりはなかった。わたしを見つめる目はいつものようにちゃんとやさしかった。クリスマスイブの夜、それなりにめかし込んで彼の家に行ったら「急に熱が出ちゃって……しかもプレゼントは昨日電車の網棚に忘れてきた、ごめん」と言われて正直えー、と思ったけれど。といってすぐに帰るのも手持無沙汰で、ベッドに横になった恋人のそばでゆっくりおしゃべりをした。部活とバイトに加え、これからは就活も始まってなかなか会えないかも、と彼は申し訳なさそうだったが、それはもちろん仕方ないしこれが二人の試練、くらいの気分でいた。

 なのにあっさりふられたのだった。一年かけてそれなりにしっかり好きになってしまっていたから落ち込んだ。けれど、いったいなんと言ってふられたのか、その理由を思い出すことはもうできない。ざわめく渋谷駅の地下改札で握手をして別れたことは覚えている。あっちはそれでうつくしく「終わらせた」のだろうけど、わたしは初めてのまともな失恋にいたく傷心した。

 だいたい、一度好きになったひとのことを、「好きでなくなる」なんて、どうやったらできるというのか。わたしには皆目わからなかった。それ以前、たとえば中学や高校などで一方的に片思いしたひとのことは、会わなくなればそのうちに気持ちは落ち着いて、また生活圏内にいるほかの誰かを好きになったが、別にそれとて、そのひとを嫌いになったわけではなかった。ただ時間がそのひとへの気持ちを沈静させただけである。好きになったひとへの、気持ちの踏ん切りの付け方がずっとわからない。でも、わたしをふった当時の恋人は「多忙」だったのか、それを言い訳にして「ほかに好きなひとができた」のか、忘れたがどんな理由であれ、もうわたしを好きではない、ときっぱり判断したのだった。そしてそれを、言いづらいだろうにわたしにちゃんと伝えたのだ。すごい。見上げた主体性である。

 つまり、これまでのそう多くない恋愛経験において、「自分」はどこにもいなかったのだな、と思う。つねに、わたしがあなたのことを好きなことは自明であった。そう、あなたのことをこの先もずっと好きでいるのは疑う余地のない「前提」であって、そんなことより相手にいかに「好きでいつづけてもらえるか」に腐心するばかりだった。着るものも選ぶ言葉も、全然自分のしたいようにはできなかった。自分で選んだつもりでいても、そこには「恋人に変って思われないだろうか、ちゃんと褒めてもらえるだろうか」という怯えがかならずあった。やっぱり、自分の意思はどこにもない。

 恋愛対象であるひとからの「承認」がなにより大切だったあの頃を思うと痛々しい。そのときほんとうに好きだったのは、(わたしを好きでいてくれる)というカッコつきのあなた、だったんだよな、ということをいまのわたしは知っている。相手を好きだったことは事実だけれど、それよりも、いつだって自分が誰よりも大事で、損なわれないように、憐れまれないように取り繕うのに必死だった。いつかふられてしまう自分、なんておそろしくて想像できなかった。わたしは「好きなひと」からちゃんと愛されて、それで、だからわたしは幸せで。そんな風に、ほとんど強迫観念のようにつねに言い聞かせるようにして、わたしは長いこと恋愛の呪縛にとらわれていたのだと思う。

 これも後から思えば、の話である。なんだってこう、人生なんて後から気づくことばかりである。その渦中にいるときに、愚かなわたしは右も左も上も下も、なんにもわからない。練習練習、と思っても人生には本番しかない。なんて、別にこんな格言みたいなことが言いたいわけではないのだけれど。

 

 まわりはみんな恋愛していた。その一言に尽きるのかもしれない。わたしは、「みんな」がしていたことを、同じように真似したかっただけなのではないか。10代だった頃、それぞれの恋愛についての「恋バナ」を、めいめいがいくらでも語りたがった。もちろんわたしも聞きたくて、同じだけその個人的な体験を話したかったし、聞いてほしかった。

 中学生の頃に仲の良かった四人で、高校生になってからもよく集まっていたある時期のことを思い出す。地元の駅から急行に乗って二つ目で降り、大きなゲームセンターで何枚もプリクラを撮る。その後すぐそばのファーストキッチンで日が暮れるまで話し込んだ。それぞれの高校生活のこと、そして何よりお互いの恋愛事情について。土曜日なのにわざわざ制服を着て、校則では禁止されていた赤いリボンをつけて、腰にはお気に入りのベージュのカーディガンを巻いた。「いい顔」でプリクラに収まるわたしたち。ハサミでそれを一つひとつ丁寧に切り分けながら、「で、最近どうなの」と誰かが口火を切る。みんなにいま好きな人がいて、あるいは恋人がいて、いずれにせよリアルタイムの恋愛についての切実な悩みがあった。たとえば当時、バイト先のコンビニの店長と付き合っていた友だちは、とにかく彼氏がだらしなくて、と愚痴をこぼしたが、わたしたちはしきりに「大丈夫なの?!」と騒いだ。30歳過ぎてるとかまじでオジサンじゃん、やばいよ。でも別にそこまでギャップないよ。てか好きだし、優しいし。えーいやいや。むしろあんたの彼氏だって相当変じゃん。いやいやいや。そんなことを飽きずに話した。あのとき、わたしたちがしていたことはいったいなんだったのだろう。いや、恋バナなんだけど。でも、そこにはある種の承認やなぐさめがあったのではないか。

 

 恋バナでは、自分がいかにそのひとのことを好きか、そしてそれ以上に、いかに自分は相手から愛されているか、ということがとりわけよく語られた。わたしには、当時片思いの経験しかなかったから、好意を寄せられる、告白された経験がないことがおおきなコンプレックスだった。なにをそんなこと、好きになられようがどうだろうが、自分が好きならそれでいいじゃん、といまであればそう思う。もし付き合いたいなら、相手に自分から好きって言えばいいじゃん! と背中をバシッと叩いてやりたい。でもきっと、高校生のわたしはいじけて、「でもみんな自分から言わなくても告白されたり、好かれたりしてる。わたしもそれがいい、みんなと同じがいい」と言うだろう。ダーっ!! と思う。脱力する。だからさあ。受け身の恋愛が正解だなんて思わないでほしい。モテることがステータスだなんて、そんなのくだらない。

 でも当時はとても苦しかった。ただにこにこしているだけで好かれる女の子がうらやましかった。だから、彼氏がいる友だちを真似て、男性から好かれるような服を着たし、雑誌の「モテ女子研究」みたいな記事をぼろぼろになるまで読み込んだ。あほらしい、っていまのわたしが思えるのは、たまたま好きなひとと結婚できたからじゃん、と高校生のわたしが睨む。そう、夫との始まりだって、ほんとうを言えば当時は不満だった。勝手に見初められて、告白されて、仕方ないなぁと言って付き合いたかったのに。どちらから、なんて曖昧なままなんとなく始まって、付き合い始めてしまえば情が募って離れがたくなり、ふたりでいれば次第に「あのふたり」としてまわりから認識されることが増え、あるいはその周囲のまなざしのあたたかさにも後押しされて、なんとかここまでやってきた。ふたりきりのときには気まずくなって苦笑したり、数え切れないほど罵り合ったり、けれどやっぱりだれより大切で、そう思うからこそこうしていまも一緒にいるのだけれど。

 

 自分の預かり知らぬところで恋愛対象である男性から「いいな」ってまなざしを向けられることが、なぜそんなに大事だったのだろう。それは、端的に言えば性的な欲望を向けられることと等しい。その視線が価値あるものだなんて、いまは思えない。でも、そう「欲望」されることが、それを自らの経験値とする向きが思春期には明確にあったことを、思い返す。でもきっと、うらやましさや自負と同じだけ、わたしたち女の子はそういう「欲望」のまなざしに怯えていた。制服を着ていればそれだけで痴漢に遭うことが日常で、それを笑い話に変換することで成仏させて、ただ、いつも笑顔でいることを求められて、なのに陰でブスと言われて品定めされて、許せないはずの男を好きになって、いったい全部が全部、なんだったのだろう。

 高校二年のとき、文化祭の準備でクラスの何人かとベニヤ板を運んでいたとき、わたしの後ろにいた男子が急に不自然に接近し、わたしの髪を触ったことがあった。それは一瞬のことで、でも痴漢に遭ったときのような嫌悪感と、欲望されることへの戸惑いと、とにかくわけがわからなかった。ふり向くことができなかった。わたしを真正面から好きと言ってくれるひとはいなかったのに、女であることで、そうやって瞬間的に消費されることがあるのだと知った。いつもは冗談を言い合う彼のことが途端にこわくなってしまった。

 

 好き、もそうでなくなることも、全部わたしが決めていい。そんな当たり前のことに長いこと、気づけなかった。全然、気づくことなんてできなかった。勝手に好意を寄せられて、欲望されることが正解なのだと思い込んでいた。もちろん、当時から男性の視線にしんそこうんざりしていた友だちもいたと思うが、愚かなわたしは頑なに、告白された人数はひとつのステータスなのだと信じ込んでいた。わたしもみんなと同じように男性からちやほやされたかった。ときに剥き出しの欲望を向けられたかった。は? とやっぱりいまのわたしはあきれる。あほじゃないの。ビンタの一発、喰らわせたくなる。だって。だって、なに? だってみんな彼氏がいたり、告られたりしてる。わたしだけ、全部ない。いいんだよ。あんたが好きなひとを、あんたが好きなように好きでいればいいんだよ。好きって言ったっていいし、言わなくたっていい。やっぱり違った、って好きじゃなくなってもいい。そこに、他のひとの経験は関係ないんだよ。女だからって剥き出しの性的な欲望を向けられていいわけじゃない。ちゃんと反発していい。反発すべきだった。わたしは、わたしの意志でだれかを好きになっても、あるいはならなくてもいいんだよ。そうまくし立てると、制服を着たわたしはしょんぼりする。うつむいて「だって」「でも……」と言いながらカーディガンのぼろぼろの袖口を見つめている。そういえばカーディガンの袖口ってすぐにぼろぼろになったよな、と思いながらいまのわたしは黙っている。それ以上、高校生のわたしに、こちらからの言葉は届きそうになかった。

 あからさまに「モテ」自慢をする女子のことが、当時はいっそ憎らしかった。それはいま思えばぐちゃぐちゃに拗らせたルサンチマンであり、またミソジニーでもあったのだと思う。憎むべきはモテ自慢をする女子ではなく、女は選ばれるべき、という視線を浴びせてきた男性たち、いや、もっと言ってしまえばこのクソみたいな社会に他ならない。わたしたちは、わたしたち女の子は何も悪くなかった。いがみ合う、とまでいかなくともうっすらと嫌悪感を抱いたり、ちょっとしたすれ違いから疎遠になってしまったり、それで女は怖いだの女子の人間関係はドロドロしてるだの、ちゃんちゃらおかしいのだった。こんな構造に気づいていれば誰かのことを憎まずにすんだのに。

 ほんとうは、恋バナじゃなくたってよかったのではないか。

 だって、日暮れのファーストキッチンで、ポテトの長さを競い合うだけで笑い合って、それだけで楽しかったじゃない。いまのわたしならそう思える。いやいや。でも、あのときは恋バナこそが楽しくて、友だちの失恋話に一緒になって涙したり、励ましてなぐさめて、何よりたくさんわたしたちは笑うのだった。男なんてさあ、と豪語した翌週に、誰かがまた他の誰かのことを好きになった。わたしは、やっぱり好きになった誰のこともちゃんと知ろうとしなかったな。「誰か」に好かれることが大事だったから、それは誰でもよかった。友だちと、本気の恋バナをすることのほうが大事だったのかもしれない。違うよ、わたしはほんとうに彼氏がほしかったんだよ、と高校生のわたしは怒るだろう。でも、そんな感情も忘れてしまった。大人になった自分はこんなにも都合がいい。誰かに認められないとあなたの価値が損なわれるわけじゃない。あなたは、あなたのままでちゃんとすばらしい。みんな等しく、そうなのだ。それを、自分で認めること。いまだって難しいけれど、でもほんとうはそうなんだ。でもそれと同じだけ、恋愛対象の誰かに認められたかったかつてのわたしのことも、ちゃんと認めてあげたい。でも、好きになられることをすべてと思わないでほしい。好きになっても、ならなくても、好きじゃなくなることも、わたしにはできた。そのことを、あのときのわたしに、ファーストキッチンで顔を寄せ合って話し込んでいたわたしたちに教えてあげたい。

 当時、ちょっとあきれたように、それでもほほえましくこちらを見ている年上の女性の視線に気づくことが、ごくたまにあった。でも、何も思わなかった。わたしたちには、いま、このおしゃべりが何より大切だったから。大人の目線なんて、どうでもよかったのだ。

著者プロフィール
堀静香

1989年神奈川県生まれ。山口県在住。歌人集団「かばん」所属。
中高非常勤講師のかたわらエッセイや短歌をものする。
著書に『せいいっぱいの悪口』(百万年書房)がある。
晶文社スクラップブック「おだやかな激情」連載中。