わからなくても近くにいてよ

この連載について

いつも、相手のことがわからないと思っている。
わからないと思いながら笑ったり驚いたり嫉妬したり、毎日おろおろしている。
話したい、のに話しかけるのが面倒でうやむやになってしまうことばかりな気さえする。
わかりたいのは不安だから。自分ばかりが求めてしまうことに辟易しながら、わからないからあなたとかかわりたいと思う。
お前はいつも鬱陶しい!とつっこみながら読んでもらえたらうれしいです。

第3回

大きなジョッキ

2023年6月11日掲載

 大型連休に入る手前の日曜日、わたしの希望でオクトーバーフェストに行くことになった。三年ぶりの開催らしい。天気もよさそうだしいいね、と夫と言い合って寝る前に布団のなかで詳細を見ながら、「えっ」と思わず小さく絶句する。
「なに?」
「いやオクトーバーフェストのことさ、調べてたんだけど。ビール、いくらすると思う?」
「うーん1000円くらい?」
「1600円……」
「一杯?」
「一杯……」
 子どものちいさな寝息が暗がりにただ聞こえている。えっ高。やめとく? やめとこうか。でもビール、ドイツビール、それも青空の下で飲むビール。いやそんな行きたいならいいけど。そう言って夫は眠ってしまった。

 久しぶりに乗る電車は、けっこう混んでいる。ひと足早く連休が始まってるひともいるからか。起きるなり、こんなピカピカに晴れたんだから行くしかないでしょ! と夫を鼓舞して家を出てきた。ふだんの外出は車だが、飲む気満々なので今日は電車。「車のほうが楽じゃない? 自分はいいから、静香だけ飲めば?」と夫に言われたが、ひとりで飲んでもつまらない。一緒にグラスをぶつけたい。ということで付き合ってもらった。電車好きの子どももおとなしく車窓を眺めている。いい滑り出しだ。
 向かいの席はほとんど満席で、みなマスクを着けている。改めて見ると不織布のマスクっておおきいなと思う。顔のあらかたが覆われている。前に並んで座る一人ひとりの無表情からは、何を考えているかは読み取れない。いや、そんな他人の思考など読み取ろうとするものでもないのだけれど。
 地方に住んでいると、このように見知らぬひととしばらくの間同じ空間に居合わせるということが、ほとんどない。あったとしても自転車ですれ違うとかそのくらいで、そもそも歩道を往くひとがあまりいない。みなおしなべて車移動である。スーパーやドラッグストアなど店に行けばもちろんそれなりにひとはいるが、ここでもただ一瞬すれ違うだけである。町のひととのふれあいが足りない、みたいなことを嘆くつもりもなく、ちょっとしたコミュニケーションなら職場と、子どもの保育園関係で十分である。
 東京に住んでいた頃は、むしろ見知らぬひとびととの意図しない接触にうんざりしていた。満員の田園都市線の車内では、見たくなくてもくたびれ果てて居眠りするひとの頭皮までよく見えた。だからほとんど無意識ながら知らぬだれかの髪に対して(もう染めどきだな……)と思ったり、堂々目の前で化粧を始めるひともいたから、興味深くその過程を見ることもあった。他人と身体が否応なく接触し、体臭や毛穴といった細部が迫るという状況がそもそも特異であったはずなのに、地方ではそれがまったくない。他人は無色透明の他人のままで、お互いストレスなく暮らすことができる。いま、しげしげ無遠慮に毛穴を眺めることができるのは夫くらいだ。
 駅に着いて、電車に乗り込んできた男性が、ドアの脇に立っていた男性に話しかける。笑う男性。話すふたり。ああ、車内で待ち合わせをしてたのか。二輌編成だから、都会のようにどこ乗ってる? 何両目? とLINEを飛ばし合う必要もない。さっきまで無表情だった男性は、じゃあこころのなかで(あいつ、ちゃんと遅れずに乗ってくるかな)と思ってそわそわしていたのかもしれない。そんなことは、もちろん真顔のそのひとからはかり知ることはできない。
 知らないひとのこころのなかまでを知りたい欲望があるわけではないが、でも多少気にはなる。みな、無表情をたたえながらほんとうには何かを考えているということが、ずっとふしぎだ。「顔に書いてある」なんて言うけれど、顔には何も書かれていない。よく些細な表情の翳りや声のちょっとしたトーンから気持ちを汲めるよなぁ、と思う。いや、じっさいには汲めてなんかいない。あのひとはあのとき、ほんとうには帰りたかったんじゃないか、無理させてしまったんじゃないか、そういうことばかりあとから考えてしまう。だから大笑いしたり、泣いたり、そういうコントロールし切れないおおきな感情があらわれてやっと、ああこのひとはいまうれしいんだ、かなしいんだ、と安心して受け取ることができる気がする。でもそんなことはまれで、しかも泣いていたって、それがかなしいのか切ないのかしんどいのか、そのすべてなのか、感情などグラデーションで、自分だってすべてをわかっていない。
 もしも、いま思っていることがそのまま声になってしまったり、あるいはそれがダイレクトに相手に伝わる世界だったらどうなっていただろう、と子どもの頃に考えたことがあるが、子どもの時分でさえそんなことになったら大変だ、と思ったものだった。わかりすぎることはこわい。もしも相手の気持ちが手に取るようにわかってしまったら、きっとわたしはすべてを手放してしまうから。だれのことも、あなたのことも、わからないからわかろうとする、なんてことはわかっていながら、まだ向かいに座るひとびとが俯いて無表情のままスマホに顔を落とすのを、視界の端でやはりぼんやり見ていた。
 
 ターミナルで電車を降り、今度はバスに乗る。座れるだろうと踏んでいたバスはむしろかなり混み合って、抱っこのまま眠ってしまった子どもを片手で支えながら、どうにも揺れるので「ウォッ」とか「わ」とかそのたびに声が出てしまう。みなオクトーバーフェストの会場を目指しているからか、途中下車するひとはほとんどいない。どんどん混み合う車内、重みを増す子ども。ちょっとしんどいな、と思いかけたその折、「座って、どうぞ」と声をかけられる。ご夫婦かな、と思しきふたりの、女性のほうが席を譲ってくれた。となりに座ると、男性が、「すみませんね、わたし若く見えてこれでも高齢者なもので」とパスをちらっとこちらに覗かせる。咄嗟のことになんと言っていいか分からず、ああ、そんなそんな。むしろ一席譲ってもらってすみません、ありがとうございます、と返す。男性はたしかに身なりからも若く見えて、太いストライプのパリッとしたシャツに真っ白のジーパンで決めていた。片手にちいさな三脚のついたカメラを携えている。泥のついた子どもの長靴がその白いズボンに触れないよう、右手で足を押さえて、それ以上お互い話すことはなく、ちょっとした気まずさからすこしの間目を閉じていた。
 バスはその後も停車せず、オクトーバーフェスト開催の公園まで直行した。やっぱりみんなここが目的だったんだな、と思う。車窓からもかなりの賑わいであるとわかる。となりの男性が、すこし離れたところに立つ連れ合いの女性の横顔を撮っていた。

 はたして三年ぶりのオクトーバーフェストはものすごい人出だった。おー、と思わず低い声が出てしまう。おおきな看板を掲げたどの店も長蛇の列で、おまけに昨夜までの雨がたたって地面はかなりぬかるんでいる。やっぱり子どもに長靴を履かせてきてよかった。みな足元を気にしながら、なかなか進まない列にじりじりしているのがわかる。というか自分もそのうちのひとりだ。暑い。列が進まない。前のひとはパーカーを着ていかにも暑そうだ。わーあのひと、きれいなスニーカーにさっそく泥が跳ねちゃってる。そんなことを思いながらメニューを眺めていると、「ったくさぁ、こんなんならアンタは何しにここまで来たってんだよ、あの父親はぁ!」と、けっこうな剣幕で悪態をつく女性がいてびっくりする。電話を切った後のひとりごとのようだ。家族で来たのだろうか。自分だけが炎天下のなかこうして並んで、みんなの飲み物や食べ物を確保しようとして、そもそも今日は楽しい気持ちでやって来たのか、それとも渋々だったのか、そんな心中まで察そうとする自分がいる。
 おまけにビールは軒並み一杯1600円である。やっぱり高すぎる。前情報として知っていたから覚悟してやって来たが、びっくりしたひとも多いのではないか。ポストに入っていたチラシに値段は書いてなかったし。ドイツのうまいビールとはいえ、正気に戻ったら買えない値段だ。みな、この高すぎるビールを買い求めるために、列を作っている。イライラしながら。そのことを思うと、なんだか滑稽で、やにわに愉快になってくる。みんな騙されている。この高すぎるビールに。このうそみたいにうつくしい初夏の陽気に。
 そうしてやっと手にしたブーツ型のジョッキは思いのほかおおきく、いっそう愉快な気分になる。「プロースト!」と思いっきりグラスをぶつけて乾杯したくなる。まあこれならいいかと許せる気分もにわかにのぼってくるのだった。特設ステージではさっきからくり返し乾杯をうながす快活な音楽が流れ、太陽はいよいよ眩しく、「かんぱーい」とブーツジョッキを鳴らす。一口目からぬるい。苦労してビールを買った後、またソーセージの長蛇の列に並んだから。しかもそのソーセージが今度はまったく温まっていない。居酒屋で出てくるキンキンに冷えた一番搾りが恋しくなって、いまそんなことを考えてしまったら台無しだ、と生ぬるいビールをあおる。夫は早々に顔を真っ赤にして、「でもたのしいね」と言う。ビールも料理もコンディション的には最悪で、でもこんなに最高の陽気で、おおきなジョッキを手にするひとびとはみな愉快に映る、その自分のいかにも安易な想像力。さっき悪態をついていた女性も、いまは楽しい時間を過ごしているだろうか。まだ夫に憤っているだろうか。バスの座席を譲ってくれたふたりもこの場にいるだろうか。飲みすぎたのか、しゃがみ込んで苦笑いしている女性と、その女性の背中をさするひと。まだ正午だけれど。それぞれのテーブルでの会話はそのままおだやかなざわめきとなってその場の陽気さを後押しし、いまここ、この時間だけでもみんなが楽しいといいなと思う。だってせっかく来たのだから。たまに吹く風がとても心地いい。冷めたソーセージをつつきながら、この五月の喧騒のなかにそうして、ひととき漂っていた。
 
 午後の車内は空いていて、向かいの座席に座るひとよりも、窓の向こうの景色に目がいく。ふいに黄色やエメラルドグリーンのショベルカーがたくさん見えて、子どもが歓声をあげる。園芸店では人々が苗や植木を選ぶ。それぞれがそれぞれの日曜の午後を過ごしている。そんなふうに思って、そもそもいったい、わたしはずっと誰視点なのか。ひとを観察するばかりで。みんな、何を考えているかわからない、なんてそりゃわからないよ。だって他人だから、話をすることもない。毎日他人と至近距離で過ごすことが当たり前だった頃にはそんなこと、考えなかったのに。他人が珍しいからか、みんな何を考えているんだろう、なんてそんなことを日に何度も考えてしまう。
 連休明けに、たとえば職場などで、オクトーバーフェスト行ったんですよ、ビールが1600円もして。えー高いねー、オクトーバーフェストってあれでしょう、どこも主催元は同じ会社で独占してるから暴利なんだよ。うわ、そうなの知らなかった。でも楽しかったからまあいいんだけど。そんなやりとりを、あの場にいたひとたちはみな、するんだろうか。またそんなことをひとりで考えている。そういえば、かつては仕事の行きも帰りも疲れてよく電車で眠っていたが、そんなことも自転車通勤のいまはない。眠る他人と居合わせるというのも考えればふしぎな時間である。この車内で眠るひとはいない。目を閉じていても、午後の陽ざしのあかるさが肌やまぶたに伝わって、何より電車の揺れがこんなにも心地いい。

 (写真:著者撮影)

著者プロフィール
堀静香

1989年神奈川県生まれ。山口県在住。歌人集団「かばん」所属。
中高非常勤講師のかたわらエッセイや短歌をものする。
著書に『せいいっぱいの悪口』(百万年書房)がある。
晶文社スクラップブック「おだやかな激情」連載中。