わからなくても近くにいてよ

この連載について

いつも、相手のことがわからないと思っている。
わからないと思いながら笑ったり驚いたり嫉妬したり、毎日おろおろしている。
話したい、のに話しかけるのが面倒でうやむやになってしまうことばかりな気さえする。
わかりたいのは不安だから。自分ばかりが求めてしまうことに辟易しながら、わからないからあなたとかかわりたいと思う。
お前はいつも鬱陶しい!とつっこみながら読んでもらえたらうれしいです。

第7回

このがめつい音

2023年10月24日掲載

                                   (写真:著者)

 最後の音までを、一度もミスタッチなく弾き終えられたことがない。
 何かの比喩ではなく、ピアノのはなしである。札幌に暮らしていた幼稚園の頃、仲良しの子が高速でネコ踏んじゃったを弾く姿に憧れて、近くのピアノ教室に通い出した。その後、生まれの神奈川に戻ってきてからも、他の教室を見つけてまたレッスンを再開した。

 「一度始めたらな、やめたらあかんで」と父に言われていたからだった。本音を言えば、毎週課される練習曲に早々に飽きていたのだったが、辞めることができなかった。父のせいである。そうして長くつづければつづけるほど、辞めることさえも面倒になり、結局20年近くピアノのレッスンに通いつづけた。休んだら月謝がもったいない、ということで高校三年の受験時も、翌年浪人した一年もほとんど休まなかった。けれど決して、情熱があったわけではない。なんなら惰性でしかない。レッスンに行く前の30分だけピアノの前に座り、ぼんぼこ鍵盤を叩くだけ。
 そんな体たらくではむろん、上達するはずなどなかった。父とて、もう辞めさせてもいいのではないか、と本音では思っていたはずなのに「辞めたら」と囁くことはなかった。
 どんなに長調の明るい曲であっても、わたしの弾くピアノは臆病で、いつも不安げだった。沈んだ音色の響くリビング。けれど、「うるさい」「下手くそ」などと家族に文句を言われたことはなかった。むしろ、かなり気を遣われてのかもしれない。猫すら黙っていた。
 こんな下手なわたしにも年に一度、発表会という機会が与えられた。見栄だけは一人前で、ショパンの「別れの曲」だとか、リストの「愛の夢」だとかを弾きたがっては先生を困らせる。「今度こそは真面目に練習します」と大見栄を切ってなんとかやらせてもらっていた。なかなか健闘したのではないか、と思う年であっても、一度たりともミスタッチなく弾き切ることができたことは、ない。終わって舞台袖に戻ると、必ず先生に「あそこ、やっぱり間違えちゃったね」と鋭く指摘された。
 しかもそれは、思い返してみれば発表会本番に限ったことではないのだった。ちょっとした練習曲であったとしても、何かの曲を、通しで間違えずに弾き終えられたことがない。なのに、20年もつづけてしまった。あの20年はなんだったのだろう。ただひたすら自分の怠慢さをじわじわと感じつづけた長い年月。継続とは惰性なり、というのが、おかげでいつしかモットーのようになってしまった。
 いまでもたまに、ピアノの夢を見る。もう譜面を見ずに弾ける曲などはなく、鍵盤に指を置いたところで、弾けるのはネコ踏んじゃったくらい。だが、夢のなかのわたしはかつて練習した「別れの曲」を優雅に弾いている。思えばネコ踏んじゃったは、幼稚園のオルガンですぐに弾けるようになったのだから、もう、それで十分だったのだ。早くに見切りをつけて、いま励んでいる文筆方面や、後に好きになる絵を描くことを伸ばすことができていたら、違った未来が開けていたのではないか、いや、自分を買い被りすぎかもしれない。

 ピアノを本当に今度こそ辞めようかどうか悩んでいた大学生のある時期に、短歌に出会った。
 短歌は、とても身近だった。なんせ母が先にやっていた。
 母が短歌を始めたのはわたしが高校生の頃だったと思うが、ある日ダイニングに見たことのない冊子が置かれているのを発見した。そこまで厚みのないA5のそれ。表紙いっぱいに写実的な満開の白百合の絵があった。そして「心の花」というおおきな明朝体。ああ。新興宗教だ、と合点した。本気でそう確信したので、当時は怖くて訊けなかった。まあいまのところ母は変わった様子もないことだし、と知らぬふりを決め込んだ。
 母が始めたのは新興宗教ではなく短歌であったこと、「心の花」が明治期からつづく由緒ある短歌結社であることを知ったのは、大学生になってからであった。ちょうどその頃に母から穂村弘のエッセイを何気なく勧められて、そこをきっかけに『短歌の爆弾』『短歌があるじゃないか。』などを読んで一気に引き込まれた。わたしがそれらを熱心に読んでいるのを見ていた母は、「私もやってるんだよね、短歌」と言った。もう何年も前からやっていたはずなのに、初めて母の口からそう聞いた。そうなんだ、へー。
 穂村弘と、母。それが短歌をはじめたきっかけである。

 それで、せっかくならと同人の「かばん」に入ることにした。当時夢中になって読んだ穂村弘や東直子に憧れて、というあまりにありふれた入会理由である。入ったはいいが、後はやることといえば歌を投稿するか、月一の歌会に出るか、くらいのものだった。結局、東京にいる間、歌会には数回しか行かなかった。歌会に出なければ、当然のことだれかと仲良くなることもできない。わたしには、短歌の友人がいなかった。当時主に東西で盛んだった大学短歌会の活動を憧れのものとして眺めながら、短歌を勢いで始めたものの、どうしたものだろうとくすぶっていた。
 このままでは、と思って一念発起して参加したかばんの30周年の記念イベントでは、大学の哲学科の友人たちを誘って詩や短歌や評論の同人誌を作って持参した。そこで初めてまともに穂村弘をこの眼で見、手弁当で作ったホチキス留めのその同人誌をほとんど押しつけるようにして渡したのだった。でも、それだけ。たまにぽつぽつと、他の同人誌に呼んでもらえることはあったが、歌会後の居酒屋で短歌談義に花を咲かせるだとか、そういった青春は存在しなかった。むしろ居酒屋なんて行かなくとも、提出された一首一首について時間をかけて丁寧に読み解く歌会自体が本来は刺激的で何より楽しい場であるはずで、けれど勇気が出ずに行かず仕舞いだった。いつしか「かばん」への投稿もとぎれとぎれになり、短歌は実作よりも、読者として歌集を楽しむことのほうがメインになってしまっていた。

 そんななか、毎年新人賞に応募することだけを、短歌をやっていると言えるよすがとしていた。30首や50首の連作を唸りながら作っては応募する。発表の時期になると必ず、ああ今年こそ受賞するかもしれない、と思ってはそわそわし、そして毎度思いっきり落ち込んだ。だいたい短歌の新人賞の応募数は500前後だと思うが、小説なんて、優にその10倍はあるだろう。こんなに母数の少ない短歌でだめなら、もうきっと何をやったってわたしなんか見出されることはない。そう思って才能のなさを悔いた。そんなことを10年近くつづけている。もう潮時か、と今年は集大成として300首の賞に出したが、それもあえなく落選した。よくも懲りずにつづけたな、と自分でつくづく感心する。
 結局はピアノと同じなのかもしれない。わたしには、短歌の才能など、まるでなかったのだ。いや、下手なまま、つづける才能だけがあったのかもしれない。ピアノは、正直そこまで好きではなかった。短歌も、じつはそうなのではないか。でも、好きでもないのに、切磋琢磨する友人すらいないのに、それでもつづけている。継続は惰性なり、あの言葉が蘇る。

 絶望的に重くて堅い世界の扉をひらく鍵、あるいは呪文、いっそのこと扉ごと吹っ飛ばしてしまうような爆弾がどこかにないものだろうか。一本のギターを手に取ったことで、世界が変わる人もいるだろう。だが、ギターさえ、その手に重すぎる人間はどうしたらいいのだろう。経験的に私が示せる答えがひとつある。それは短歌を作ってみることだ。(『短歌という爆弾』穂村弘)

 たしかに、短歌でなくてもよかった。たまたま何か表現したい気持ちが飽和していた時期に出会ったのが短歌だっただけだ。母が始めていたのが俳句だったら、俳句をやっていたかもしれない。身近な表現方法を、とにかく探していた。でも、当時わたしはたしかに、この穂村弘の言葉に勝手に勇気づけられたのだった。ブログに現代詩(のようなもの)を書いて、書いてはなんだろうこれは、と首をかしげてうつむきながら、詩はあまりに広大だった。手に余るどころか、そのまま溺れてしまいそうだった。ほんとうにはわたしは何がしたいんだろう、何が書きたいんだろう、と鬱屈としながら、「短歌って爆弾なのかよ」と21歳のわたしはつぶやいた。でも、そう書かれてあることがうれしかった。
 「なぜ、短歌なのか」に一言で答えることは難しい。でもそれは何かをつづけるだれにとっても、答え難い質問なのではないか。なぜそれなのか、というきっかけはあまりにささやかだったりする。けれどたとえば、もし短歌をやっていなかったら、と考えれば、途端に胸のあたりがすーすーするような気がする。いま自分に短歌がなかったら、なんて想像するのがまず難しい。それくらい、なくてはならない、というより生活に短歌があることが当たり前になっていると言えるかもしれない。
 わたしの短歌は、世界の扉を叩き壊すことはなかった。でもだれかの歌が、長く自分のなかに留まりつづけることがある。短歌は取り出せる。連れてゆける。詩や小説の一部を同じように取り出すことはできるが、短歌はその点、完結している。でも俳句はわたしには短くて、ちょっとかっこよすぎた。たとえば「秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは」(堂園昌彦)という短歌を何度もあたまにめぐらせて、ぼんやりベランダの外を眺めることがある。そういう短歌が、わたしのなかにいくつもある。
 
 思えば、「かばん」の新人特集号の自己紹介の欄にまで、わたしは「いままで一度もピアノを間違えずに弾ききったことがない」と書いたのだった。ピアノは自分のために、まったくためにならない自分のために、弾いていた。短歌も同じように、自分のためにと思ってまずは作る。けれど作ればだれかに読んでほしい、とじわじわ思う。ピアノはだれかに聞かせたいだなんて思わなかったのに、不思議なことだ。読んでほしい、どころかこの世に長く残ってほしい、とまで思うこともある。なんなんだ、急に傲慢だ。才能がない、と思いながらつづけたことで、ピアノにはない自信のようなものが短歌にはあるのだろうか。そんなふうには思っていないはずなのに。でも、その傲慢さこそが、わたしの表現欲求の根底にある揺るがしようのない何かなのかもしれない。
 読んでほしい、残ってほしい、と思うだけ思って黙っている。短歌はどんなに叩いても鳴らないから、いい。わたしが叩く鍵盤はひどい音がするから。短歌は、ただそこにある。あたまのなかでその言葉をゆっくり反芻するときにだけ、わたしの声でそれはやってくる。聞こえるのは、臆病で不安げな音ではないはずだ。もっとがめつくて、がちゃがちゃしていて、でもそれでいい、いやそれがいいと思う。

著者プロフィール
堀静香

1989年神奈川県生まれ。山口県在住。歌人集団「かばん」所属。
中高非常勤講師のかたわらエッセイや短歌をものする。
著書に『せいいっぱいの悪口』(百万年書房)がある。
晶文社スクラップブック「おだやかな激情」連載中。